第4話 錆びない船

 海に行こう、海を見よう、あの不思議な生臭いにおいを浴びて、体をべとべとにしよう。

 生まれてきたときみたいに。世界の明るさと肺になだれ込む酸素にびっくりしよう。



 週に一度、コミュニティの住民は丘陵に湧く温泉に行く。連れ立って温泉にいく前の日が、風の穏やかな晴天であるとよいなあと子どもたちは思う。全ては決まっていることだから、期待はするが願いはしない。存分に潮風を浴びた体を湯で流すのは気持ちの良いものだ。

 温泉はコミュニティのものではない。特定の団体や施設による管理があるものでもない。秘湯という評判もあるが、なにか特別な湯というわけでもなく、たどり着きさえすれば入ることのできる温泉だ。先客として一般の登山者が入湯していることもある。【零日の庭】はその特異な生活様式から、カルト集落であるとか落ち延びた平氏の末裔であるとか、好きに噂されている。世間は彼らを好奇の目で見てはいるが警戒はされていない。


 登山者は山の温泉に浸かる動物と行きあったような反応を示す。そして裸の体を一方的に眺め回して、自分たちと変らないことに少々の落胆と、そりゃそうだという納得を見せるのであった。


 コミュニティの住民たちが週に一度入りに行くことで、温泉への道は整備され、登山者たちは恩恵を受けているわけではあるが、温泉は誰のものでもない。強いて言えば山のものである。そういったものに生かされているのが【零日の庭】の信仰者たちだ。



 

「海に行けるぞ!」


 キリヤンが切り揃えられた前髪の下の繋がりそうに濃い眉毛を持ち上げて言う。


「海に行けるんだ!」


 もう一度繰り返したキリヤンは、すでに潮の香りを嗅ぎ取っているかのように鼻を動かした。

 彼らは学び舎兼住居であるログハウスから出て、山を下っていく。子どもたちはみな健脚で、彼らが庭とする三浦丘陵の低山を降り、海を目指す。周辺には人気のビーチもあるが、彼らは遊泳禁止の浜から静かに海を眺めることを好んだ。夏のさなかでも、彼らの秘密の浜は閑散としている。裸足で砂の感触を楽しんだり、不思議な漂着物を拾ったり、石に開いたまんまるの穴――それはイシマテという貝が開けたものだ――から世界を覗いてみたり、思い思いに過ごすのだ。


 子どもたちは泳がない。泳ぎを教わるということがないからで、漁師になるのでもなければ泳ぎを覚える必要もないのだった。人間の遠い祖先は、肺呼吸を獲得し陸に上がった。フロンティアに乗り出したものは、後戻りできない。陸上に上がった人間が水に戻ろうとしても、いたずらに死を引き寄せるだけだ。


 だからこそだろうか、子どもたちは海を眺めずに居られない。

 海はいつか帰るあの世、死の象徴であると信仰者たちは信じている。その海が晴天の下、青い地平線を滲ませているのは子どもたちに生の尊さを教え、死後の平安への希望をもたせる。【零日の庭】の子どもたちに高い確率で見られていたヒステリー発作などの症状の発現が、週に一度海を眺めに行く機会を設けてから随分と減ったのも、帰るべきあの世の懐に抱かれる妄想が癒やしになっているというのが理由かもしれなかった。


 キリヤンは子どもたちの中でもいっとう海好きで、海を見に行き始めてから夜尿症がずいぶんと良くなった。

 キリヤンの母はコミュニティの幹部であるし、キリヤン自身がつよい統率力を持っているのもあり、夜尿症だけがキリヤンのリーダーシップにケチをつける要素だった。大人は「あなたがその役割を持って生まれてきたのなら、あるがままで良いけれど、病気なのだとしたら克服できた方が良いわね」と言った。キリヤンは病気か役割かという問いに、引き裂かれ続けていた。

 海がそのキリヤンを救ったのだから、彼が海のことをいつでも恋しく思うのも当然のことだろう。


「ああいい気持ちの風だよ。知ってる? 海の風を受けると金属ってのは錆びるんだと。だからあっこの旅館の前に置かれっぱなしの自転車はホイールが錆びてるだろ」


 自分が一番海に詳しいのだ、という顔でキリヤンが言った。

 他の子どもたちは、いつものことだと放っておいて、各々好きなものを触ったり、砂に足の甲を埋めてみたりしていた。

 アナスタシアだけが、キリヤンの言葉にあった自転車をじいっと見て、何事か考えていた。そして言った。


「なんで人間は錆びないのに金属は錆びるんだろう?」


 アナスタシアの言葉に、周りの子どもたちがまた始まったという顔をした。

 大人の居ない場所でのびのびと「なんで?」を繰り出すアナスタシアを、キリヤンが馬鹿にして笑った。


「また始まったぜ、愚図のアナスタシアの禁止言葉だ。お前いつまでたっても覚えられないんだな。生まれるときに神がおっしゃったんだってな、爆弾が生まれるって」


「そう責めるなよ。神がアナスタシアをそうされているんだ。愚図で、覚えが悪くて、小さな子どもみたいにしょっちゅう口枷つけられてても、神がそうされたから彼女がそうやって居るんだ」


 パンテレイモンがキリヤンを窘めて言った。彼の髪は陽の光を透かす薄い茶色で、生まれつきの色だ。潮風に吹かれて、束にそろった前髪がぱっくりと割れる。賢そうな丸い額が髪の間から覗いた。


「それにしたって、いい加減覚えて欲しいよ。愚かな言葉を聞かされ続けるのはおれたち同じ子どもなんだぜ」


 散々な言われようだが、アナスタシアは気にしている様子はない。それよりも彼女の頭は「なんで?」でいっぱいだ。全ての刺激が彼女の脳を興奮させる。静かに、呼吸を深くして、潮のなかのサビの素を探り当てようとしている。


 あ! と彼女が声をあげた。


「ねえ、船は鉄で出来ているはずだよね」


 頬を真っ赤にして、パンテレイモンとキリヤンに掴みかかるようにして問いかける。


「そうだろうね」とパンテレイモン。

「決まってんだろ」とキリヤン。

「鉄は金属のはずだよね。じゃあなんで船は錆びないの? なんでだと思う?」


 そう言ってアナスタシアの指し示す先には、遠く沖を航行する大型のコンテナ船があった。色とりどりの長方体をきっちりと詰め込んだ大型船の船体は、確かに錆を浮かべてはいない。


「知らないよ、船だからだろ。ぼくらには関係のないことだ」

「教わらないことを知ろうってのは、世界に潜む悪魔の声を聞き取ろうって行いだ。まるでお前は悪魔の声を届ける巫女みたいだ、魔女ってやつだ」

「でもほら、見てよ。あそこの船は錆びてるよ」


 アナスタシアが視線で誘導した先には、漁港を持つ湾がある。平らな彫刻刀の刃で切り取られたような、崩れやすそうな岩で出来た岩礁が湾を囲んでおり、湾の端には白い漁船が係留されて集まっていた。

 そのうちの端の一つは、船体全てを錆に覆われている。


「あれはほっぽらかしにされてるからじゃないの」


 それまで黙っていた、他の子どもが言った。


「でも、他の真っ白に見えるやつも、よく見てみると下のところが錆色をしてるみたい」


 子どもたちの中で一番年少で、目のよい女の子が続いた。


「ルチアが言うならそうなのかもしんないけど、でもあの大きな船は沈んでて下の方まで見えないだろ。あれは荷物が……箱が重いから半分くらいまで沈んでるんじゃないか」

「キリヤン、そう言うならあの大きな船が荷物を下ろすところを見に行くかい。どこか大きな港に降ろすんじゃないかな。次に海に行く日には灯台に登って見てみようよ。そこからならどこかで荷物を降ろすところが見られるんじゃないか」

「そうしてやる。あの大きな船には何かからくりがあるに決まってるんだ」


 キリヤン、パンテレイモンの言葉にほかの子どもたちが「そうだ」「そうしよう」と歓声を上げる。みんなが興奮していた。アナスタシアの撒いた「なんで?」の種が自分たちの中で芽を出しつつあることには、誰も気づかなかった。




 次の週のこと、子どもたちはいつもよりもさらに精を入れて午後の作業をしていた。

 朝と午後に子どもたちは子どもたちの仕事をする。朝には川に水を汲みに行く。洗濯係は洗濯をする。午後には山間部に作った農場での作業がある。その日は、コミュニティの重要な主食である蕎麦の実の粉挽きをした。


「いい匂いだな。お腹が空きそう」

「作業が終わったら蕎麦がきを食べていいってさ」

「でもゆっくりしてちゃあだめだよ。今日はこれから大きな船の秘密を見に行かないといけないんだ。『平らな皆様』、そうだろ」


 いっとう賢いパンテレイモンが大人ぶって言うと、他の子どもたちは真剣な顔をしてうなずいた。

 コンテナ船調査のきっかけを作ったアナスタシアはというと、キリヤンと協働して、重い石臼を挽いている。蕎麦の香りを嗅いでうっとりとしながら、石臼の回るのを見つめている。彼女の頭は常に目の前のものへの疑問でいっぱいだ。


「なんでこんな風に毎日こすり合わされているのに、石臼は歪んだり欠けたりしないんだろうね?」

「そんなことはおれたちには関係ないだろう!」


 キリヤンが叫ぶ。


「いいからさっさと作業をして、海に行くんだ! 今日は灯台まで行ってみるんだから、ぼんやりしてないで手を動かせよ!」


 キリヤンの目は興奮からぎらぎらと光っている。鼻は早く潮の香りを嗅ぎたいと急いていて、手は鼻の要求に突き動かされるように力いっぱい働き続けている。手の平の皮が真っ赤になっていることにも、気づいていない。

 そのとき、粉挽き小屋に大人が入ってきた。【アナスタシアの父】だ。


「さあもういいよ、今日は海に行く日だろう。みんな楽しみにしているようだし、あとはぼくがやっておくから。蕎麦がきを食べてからに行くかい? それともすぐに行く?」

「あ、ありがとうございます。ぼくら、すぐに行きます。平らな皆様のお気遣い、感謝します」


 パンテレイモンが弾かれたようにして立ち上がって言った。キリヤンは、先程までアナスタシアに向かって怒鳴っていたのを聞かれていないだろうかと気をもんで、気配を消すようにして黙っていた。


「そうしなさい。なに、朝の作業時にね、ぐしゃぐしゃ頭のお嬢さんがぼくに言ったんだ。今日ともだちと海を見に行くのがとても楽しみだってね。そんな言葉をアナスタシアから聞いたのは初めてだよ。彼女をともだちにしてくれてありがとう」


【アナスタシアの父】の言葉はコミュニティの大人からはあまり聞かない種類のものだった。コミュニティの大人はすべての子どもの指導者であり、親子間の交流はあってもそれを外に向けて話したりはしない。

 アナスタシア同様に、【アナスタシアの父】も変わっているなと思いながら、子どもたちは口々にお礼を言って粉挽き小屋を出ていった。

【アナスタシアの父】はひとり、玄そばの殻の掃除を始めた。

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