第二夜 ー2(2)
とたんに、風の唸り声が耳を突く。眼下に飛び込んできたのは、
「まーた落ちてるー!」
昨夜の悪夢辿るどころか凌ぐ急加速に、白葉は髪の乱れる頭を抱えた。超高層紐なしバンジーなど、そう何度も味わって気分のいいものではない。
「これ自動車事故の悪夢じゃないんですか?」
「確かに今回も景気のいい落下ねぇ」
「落ちてるもんは景気よくないでしょうが!」
相変わらずのんきに真っ逆さまに落ちていく貴子へ、白葉は手を伸ばした。
押し上げるような風圧と、抗いがたい重力の双方を真っ二つに切り裂いて、白い翼が空を水平に薙ぐ。
高層ビルの間を鮮やかに縫う飛翔に、両腕に抱きかかえられた貴子は、「一晩でずいぶん様変わりしたこと」、と肩を揺らした。それをいささかばつの悪い顔で睨みやって、「で?」と白葉は話題を切り替える。
「〈胡蝶〉、いそうなあたりはどこですか?」
「そうねぇ、起きてからも考えていたのだけど、夢の中心に近いだろうから……あそこ、かしら?」
貴子が指さした先。白葉の肩越し。嫌な確信とともに振り返れば、やはり振り落とされる爆弾のように、車の数々が高い空から注ぎ落ちてきていた。
「あそこったって、どこですか!」
叫びながら風を切る翼は、高いビルの側面ぎりぎりを速度を落とさず飛びぬける。そのまま勢いよくビルに激突していく鉄の塊が、窓を叩き割り、鉄骨をゆがめ、けたたましい音をたてながら地面へと叩きつけられていく。
「どこかの車に乗ってると思うのよね、たぶん」
「あんだけ数ある中からどう探せっていうんすか!」
崩れるビルと、車のへしゃげて潰れる破壊音の重奏が轟く中、白葉は声を張り上げた。
と、頭上に重たく暗い影が差した。目前まで迫り来たフロントを、宙を返るよう羽ばたいて体勢を変え、白葉は勢いよく蹴り飛ばす。弾き飛ばされた軽自動車が、後続の車を巻き込んであらぬ方へふっ飛ばされていくのを見届けないまま、彼は地上を目指した。
空中で、しかも貴子を抱きかかえていては、動きづらい。
場所を選んでいられないと、真下のまっすぐな広い道路へ足を着けると同時に、背から白い翼が散るように消えた。抱き上げていた貴子を下ろすと、そこに、待ち構えていたかのように、車のエンジン音が唸りをあげて迫ってくる。
「とりあえず、あれ捌くんで、うまく〈胡蝶〉が乗ってるやつ見つけてください」
「あらあら、ありがとう。本当に、昨日と違って頼りになるわ」
「一言多い!」
悪意はないくせに余計な感想に、白葉は猛スピードで突っ込んできた車へ拳を叩きつけた。
夜風にすら霞み消えそうな容貌と、線細い体躯。そこから繰り出されたとは思えない威力で、フロントが盛大にへこむ。
そのまま破壊された車体は勢いのまま吹き飛んで、後から来た車を巻き込み、転がるように滑って、電柱をへし折って炎上した。そのまき散らされた残骸を次々轢き潰して迫る車を、白葉は蹴り上げ、叩き壊して蹴散らしていく。
「なんだか、見た目の割に脳筋さんね」
「殴る蹴るでだいたいなんとかなるんですよ! 俺なんか見てないで〈胡蝶〉探して!」
背後からこぼされた、のんびり声に律儀に噛みつく。
どんな力でも願えば揮えるというのなら、もっと魔法じみたことも出来るのかもしれないが、とっさに思い描けるほど、夢を見てこなかった。
「もちろんそれでもいいのだけど、少し……」
まだ何か言い募る貴子へ、うっとうしげに視線を流す。そこへ、彼女の背後から躍りかかるように突っ込んできた車の太いタイヤと、車体の腹が飛び込んできた。
手を伸ばしても間に合わない。まずいと息を詰めた、瞬間――
そちらへと身を返した貴子の指先から、滑るように飛び出した鴇色の光の符が、見覚えのある壁へと変じた。
「少し、後ろがおろそかね」
壁に弾かれ、吹きき飛んだ車がそのまま近場のビルに激突する。その轟音に重ねて、微笑みが白葉を見やる。
伸ばした手で行き場なく頭を掻きやって、白葉は柔らかな笑みから視線を逸らした。
「それ、寝起きしか出来ないんじゃなかったんすか?」
「昨日までは。いまは契約が完全になったから、あなたの夢の力をちょっと分けてもらえているの。だから、この程度には使えるわ」
「そういう使用方系の説明は全部一度にしてくださいよ! また後出しにする」
ぶつぶつ文句を垂れながら、それでも無駄に流した冷や汗に、ほっと胸をなでおろす。捉え直せば、心配が減ったということだ。
白葉は一番側近くの道路標識の支柱を、一撃のもと、蹴り折った。手の中に倒れ込んできたそれを、軽々と槍のようにひと振りに、連なって突っ込んできた車の群れを薙ぎ払う。
「気にして道具を使わなくてもいいのよ?」
「黙っててください!」
背中から痛いところを突く緩慢な響きに苦々しく返して、白葉は駆け出した。
手にした鉄製の支柱で車を跳ね上げ、叩き潰し、時に蹴り飛ばす。
それでも車の数々はどこから湧いて出るのか、埒があかない。
舌打ち交じりに、白葉はまだ遠く、しかし見る間に距離を詰める次の一群へ、それを貫くように支柱を投げつけた。玉突きにくし刺しになり、車の群れがぐしゃぐしゃの鉄塊に帰す。だがその脇をまた、無人の車が幾台も、高速で走り抜けて迫ってきていた。
怖じるわけもないかと、忌々しくそれを睨みつける。その時。
視界の端に、迫る車とビルの陰に潜むように、動かぬトラックの姿がちらりと映った。
「貴子さん!」
眼前に迫った車を蹴りつけ半壊させた足は、次には地を蹴っていた。身を翻した背に、一瞬で翼が閃く。
確信があるわけではない。けれど直感が、間違いないと言っていた。
突っ込む車を、貴子の光の壁が阻むより先に叩き殴って停車させ、その勢いのまま彼女を抱き上げ、急旋回でとって返す。
「どこにいたの?」
「確証はないですけど、たぶんあってます」
腕の中、落ち着ききった声が、一瞬で状況を心得て問う。白葉の翼が切る風に乱雑に靡き、顔へとかかった髪を、しなやかな指が静かに耳元へかき上げていた。予想通りの平静さだ。驚くにも値しない。
「あのビルの陰。停車したままのトラックが」
「あらまあ、露骨に怪しいこと」
おかしそうに零れた笑い声。その上に、影が差した。
迫るエンジン音とヘッドライト。注ぐ車の数々を、視覚で認識するよりも早い速度で、全身で捉える感覚の命じるまま、縫うように避けきって、白葉は夜の繁華街を飛びぬけていく。
眼下を走る車が飛びあがり、圧し掛かろうとして来るのを瞬時の上昇でかわし、次の上からの数台を、一瞬で速度を上げて切り抜ける。
「ったく、うっとうしい!」
それでも減るどころか数を増す車に、苛立ちのままに吐き捨てた瞬間、背の翼が大きく広がった。そこから矢のごとく走った羽が次々と、突っ込んでくる車へと叩き込まれ、鉄の車体を切り裂き、ばらばらに砕き壊す。
「わぁお……」
「なに驚いているの?」
一掃できたことに思わず呆然とこぼせば、くすくすと笑われた。
それを横目で軽く睨んで不服を伝えつつ、この隙を逃さず、停車したままのトラック脇へと舞い降りる。
固く閉じられたバンの後ろ扉を蹴り壊せば、大きな荷台の薄闇の中は、鈍く紫色に光っていた。
細い糸が無数に重なり、太い荒縄のように絡み合って、大型トラックの荷台中に張り巡らされている。幾重にも重ねられた規制線に似た糸の渦。その奥に、手のひら代の繭が、紫の光をおどろおどろしく漏らして、どくどくと蠢めいていた。
「きもっ……」
「飾らない感想ね」
率直に身を引いた白葉に微笑んだ双眸は、そこでふいに、ゆるりと背後を振り返った。
「私は〈胡蝶〉を封印するわ。あなたはあれを、抑えておいてくれる?」
「……あれ?」
あまり見たくないなぁ、と思うと同時に、耳にエンジンの唸り声が響き渡り、街の灯りが遮られて視界が暗くなった。否応なく背後へと身を返せば、昨夜追い回してくれた巨大なトラックが、通りの向こうから、猛スピードで突撃してきている。
「ああ、やっぱり……!」
頭を抱え、しかし白葉は同時に地を蹴った。他の車の残骸をものともせずに蹴散らし、走りくるトラックは、もう一瞬ですぐそこまで駆け抜けてきている。
瞬時に距離を詰め、トラックへと拳を叩き込む。が、先までの車たちとは違い、その程度ではびくともしない。わずかバンパーがへこんだ程度だ。舌を打ち鳴らし、白葉はそのままフロントを両手で抑え込んだ。
アスファルトが擦り切れんばかりに巨大なタイヤを回転させ、押し迫るトラックを、ぎりぎりと渾身の力で留めて、白葉は背後へ叫ぶ。
「ちょ、きつ! さっさと封印してください!」
「ええ、もちろん!」
珍しく――というよりも、初めて張り上げられた貴子の声に、思わず目を瞬かせて、視線を後ろに投げる。いつも通りの、気の抜ける緩慢な返しがあるばかりかと思っていた。
白衣の姿は、それが分かっていたのか、たまたまか、そんな白葉の視線を受け止め、ふわりと微笑む。
瞬間。その足元に鴇色の光が円を描いてほとばしり、眩く天へと光を放った。
その光のただなかで、ゆるりと〈胡蝶〉の繭へと向き直る貴子の白衣の裾が、長い髪が、風もないのにはたはたと揺れる。
「『掛けまくも
澄んだ声が厳かに、静謐に、けれどのびやかに大気を震わせ沁みとおっていく。聞き惚れて、耳朶を通り抜ける響きに意識ごと攫われた。とたん、抗うようにトラックの押しくる力が増して、慌てて踏ん張る。
だが、もう、頭のひび割れそうなエンジンの猛りは聞こえなった。
貴子を中心に昇る光が、夜にたなびき、空を突き、緩やかに広がっていく。
「さあ、夜明けの時間だわ。悪夢は終わりよ。――おやすみなさい」
色づく唇がふわりと朝風を纏って微笑んだ。
一閃。世界を水平に両断して、光が迸った。
伸べられたた白衣の手から光の渦が逆巻き、〈胡蝶〉の繭を貫いて、包み込む。
同時に、白葉の腕にのしかかる負荷も感覚も、夢がごとく立ち消えた。朝焼け色に色づく光が、風に踊る花びらのようにあたり一帯を包んで舞い上がる。
両の瞳を柔らかに溶かし、焦がしていきそうな――光の花吹雪。白葉は堪らず、目をすがめた。
だが、次に瞬いた時にはもう――車の残骸も、影も、夢幻のように、一瞬で消え果てていた。
ただ凛と冷えている空気すべてが、まだ花吹雪に染められたかのように、淡い鴇色の光に濡れている。その中に大通りが、静謐に横たわっていた。
通りは、どこまでもどこまでも、なににも遮られることなくまっすぐに伸び、果てが見えない。その遠い向こうは、やがて昇る陽が蹲る、白みかけた地平に溶けていた。
だからまだ、ここが夢だとわかる。
不可思議な、朝ぼらけの世界だった。
(――春はあけぼの、ね……)
「お疲れ様。無事に封じられたわ」
ぼうっと、見るともなしに辺りを見渡していた背に、もはや耳慣れた柔和な声がかかる。
「なんか、最後だけ……すんげぇ巫女っぽかったですね」
「あなたもとても式神らしい奮迅ぶりだったわよ?」
揶揄を込めて振り返れば、相変わらずの読めない微笑みが小首を傾げた。
「式神ねぇ……」
向けられた言葉を転がしながら、手持ち無沙汰に頭を掻きやる。ふたりを包む淡い紅色の光が、銀の髪の上で弾けて跳ねた。
「なんか、ファウストの心境ですよ」
「あら、博識」
「いまのは馬鹿にしましたよね?」
かすか踊った声音の違いを、白葉は耳聡く問い質す。微笑みはしかし、そんなことないわ、とはぐらかした。
「それにしても、まだ一匹。逃げ出した〈胡蝶〉はまだまだいるから、長い付き合いになるわ。そんな敬語なんか使わずに、もっと気軽な話しぶりでもいいのよ?」
「いや、いいですよ……。いまさらですし。なんか、貴子さん相手だと、敬語の方が逆に気楽なんで」
物腰柔らかなのに、どこか逃れがたく頭を垂れたくなる圧がある。下手に親しげな口を利く方が、かえってきまり悪さに心労が増す。白葉には、そんな確信めいた予感しかなかった。
その引かれた距離に不服な様もなく、「そうなの?」と受け入れてしまえるのにも、傅かれ慣れた貫禄が薫る。
「では、あなたが私を貴子さんと呼ぶのなら、私はあなたを何と呼ぼうかしら? 黒峰くん? 白葉くん?」
「なんとでも。お好きに呼んでください。俺、自分の名前に特に執着も愛着もないんで」
名前なんて個体記号だ。識別さえできれば、別に番号でもいいと思っている。
だが貴子はどうも、そこは意見が違うらしい。「まあ、味気ないこと」と笑って、その蜜色の瞳はおかしげに白葉を見つめた。
「名は体を表すわ。特に、こういった世界では、ね。だから、そうね……あなたは――獏くん。獏くんと呼びましょう」
「俺の姓名のどこからそのあだ名捻り出してきたんです?」
脈絡のない呼び名に、頓着ないとはいえ思わず白葉は問い返した。
「黒峰白葉。黒と白で、悪い夢と戦うから、獏くん。ぴったりではない?」
「あ~……そうです? いや、まあ、ならいいんですけど……」
どうも否を訴える隙はなさそうだ。機嫌のいい音色に、白葉は曖昧な調子でその呼び名を受け入れた。
「では、獏くん。夢路を閉じて、この夢から目覚めましょう。そして、ゆっくり眠って休みましょう?」
「また昼まで寝過ごしちゃいますかね~……」
この夢から目覚めてからが、本当の睡眠時間だ。すでに疲労がじわじわ忍び寄ってきている身体に、白葉は首をぐるりと回して伸びをした。
「もう少し健康的な睡眠になるように、その前に起こすわ。中村が」
「俺、すでに、中村さんなしじゃ生きていけない体になりそうで怖い」
胃袋はたった一日で掴まれ済みだ。おまけに生活面まで丁寧に世話を焼かれたら、もはや後戻りできない気がする。
「大丈夫よ。中村は途中で投げ出さず、最後まで面倒見てくれるわ」
「心配してんのはそこじゃないんすよ……」
ずれた答えに、力なくこぼしたところで、地平の向こうから眩い光が投げかけられた。アスファルトの艶めく黒を濡らし、鴇色をぼやけさせ――夢の世界に、朝が来る。
「さあ、そろそろ本当に起きなくては」
朝陽の煌めきを纏って、貴子が白葉へ手を差し伸べた。
白く細い、けれど凛と力強い、美しい手。それを、静かに確かに、白葉は握りしめる。
自然、なぜか互いに零れた微笑みに、貴子の淡く色づいた唇が紡ぐ。
「おはよう、獏くん」
「ええ、おはようございます。そして――」
――おやすみなさい。よい夢を。
夢路守の巫女と獏の君 かける @kakerururu
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