第二夜 ー2(1)



 そこは、見慣れた場所だった。

 敷かれっぱなしの湿った薄い布団。埃と髪が混じって薄汚く積もり、ごみと日用品が混在したまま所狭しと散乱している。昼間も開かないカーテンの向こうは、いまは真夜中の色をしているようだった。

(ここは……うちだ……――)

 冴える意識とは別の自己が、ぎゅっと己が頭を腕で覆うように抱き込んだ。まだ少年といっていい、細さと柔らかさが残る腕だ。ドアの向こうから聞こえる、口汚く罵り合う男女の声。それを何とか遮りたいのだ。

 ここ最近、魘されている悪夢だった。

 記憶にある。こびりついている。これは、過去には夢ではなく、本当にあった悪夢だ。


 やがて言い合いが終わったのか、荒々しい音で玄関の扉が閉じられた。その閉じた扉の方へ何事か喚ていていた声が、足音となって近づいてくる。

 それは寝室の扉を開いた瞬間、なぜ寝ているのかと白葉の背を蹴り上げた。

 そのまま身を起こした白葉に、吐き捨てるように母は言い募る。こんなはずではなかった――と。少年がいなければ、もっと自由で、もっと美しいままでいられたと。

 言葉と平手で当たり散らしながら、しかし最後は、その腕は彼に縋るのだ。女として、男に縋るのだ。


 だから、彼女はそういうさがだと、諦めたふりでしのいでいた。母と子であったことは、一度もなかったように思う。

 外から見える彼女は、確かに優しく美しく装っていたと記憶しているが、夢ではいつも、顔は見えない。黒く窪んで、闇の化け物のような顔を、白葉は見上げている。


(この手を、別のどこかに伸ばしたら……――)

 この悪夢は終わっていたのだろうか。

(でも、どこに?)

 伸べた手は、取ってもらえたのだろうか。助けてもらう必要を知れなかったから、その結末はいまも分からない。

 頑張って手を伸ばしたところで、ろくでもない結果になっていたかもしれないし――

(取ってくれそうな相手も、思いつかなかったしなぁ……)

 向けられた母の問いに答えずにいて、頬をはられた。

 ぼんやりと白葉は、痛みもそのままに、何かをことさらきつく言い騒ぐ彼女を見つめ返す。

 闇のどろりと渦巻く顔。それに向き合う幼い己も、そんないつかのあくむを夢にまで見る自分も、無力をよく知っている。

 これからどうなるか分かっているのに、体が少しも動かない。


(どうせ、この悪夢の中では――……)

 なにもできやしないのだ。

 また話を聞いていないと、か黒い泥のような顔が、それでも怒りに歪むのが見えた。腕が振り上がる。

 それを、差し込んだ一筋の光が、止めた。

「こんなところにいたの? 少し、探したわ」

 ふわりと春風のように微笑む声がした。

 母だったモノの腕に、鴇色に煌めく光の糸が幾重もかかり、封じている。

 真夜中のはずなのに、朝焼けの香りがした。

 隣室へと繋がるだけだったはずの扉が開いて、眩く光が差しかかっている。白衣が翻るのが、視界に鮮やかに映った。


「夕べの傷が良くなかったわね。〈胡蝶〉にずいぶん浸食されたよう。あなたの悪夢へ取り込まれたみたい。。でも、もう動けるはずよ」

 そう、手を伸べられた。

(動ける……?)

 うつつでも、夢でも――どれほど思い描いたとて、一度として、母の前から逃げ出せたことなどなかったというのに。本当に、動けるというのだろうか。

(……夢の力――)

 思い描いた力を揮える。それを引き出せると、伸べる手の主は微笑んでいた。

 動きたいと、進みたいと、願ったのなら。そう描いた通りになるのだろうか。この囚われ続けた悪夢を振り払う、一歩を踏み出せるのだろうか。


 ――もう感覚は掴めているはずよ。そう夕べ、手を取られた瞬間が蘇る。

 そっと体の脇で握りしめた、その手の動きに合わせるように、貴子の柔らかな声が重なった。

「行きましょう? あなたの力が、必要だわ」

 当然来ると知っているような、いっそ傲慢ですらある呼びかけだ。思わず、白葉は笑っていた。

「やばいのに、別のヤバいのぶつけるって……んな、力技……」

 暴走車両を飛び越えるより、翼で空を飛ぶより、ずっと簡単で、ずっと難しかった。立ち上がって、動き出すこと。

 こんな強引に伸べられた手に、その機会を与えられるとは思いもしなかった。


「なにを笑っているの?」

「いえ、別に」

 不可思議そうに傾げられる首に、白葉は唇を引き上げる。零れた声音はもう低く、少年の甲高さを帯びてはいなかった。

 夢とうつつが、重なり合う。

「俺は生まれつき女運が悪いんだなぁと、思っただけですよ」

 立ち上がる。その背丈は、目の前のどす黒い影の塊をゆうに超えていた。

 青年の踏み出した一歩に、踏み越えられ、切り裂かれ、泥が弾けて飛ぶように、人型の黒い塊が霧散する。

「ま、今回の場合は、悪運っていうかもしれませんけどね」

 扉の向こう、光のうちで待っていた貴子へ視線をやり、白葉は破顔した。


「俺の力が、必要なんです?」

「ええ、〈胡蝶〉の夢に入り込み、悪夢と戦うには、あなたの力が必要だわ」

「そういや、いまさら聞くんですけど、あなたはなんで、〈胡蝶〉を封じようとするんです?」

「そうすれば、誰かを助けられるでしょう?」

 太陽は東から昇りますか、と問いかけられたように、光がうずくまる蜜色の双眸は、意図を掴みかねてか瞬いた。

「それを為せる力があり、それを為さねば多くの人が苦しむというのなら、為すべきだわ」


 だから彼女の手は、こうも他意なくまっすぐに、差し伸べられるのだろう。

 助けられるなら助けるという、裏表のなさ。責務と割り切り、しかしそれを燦然と為すべきと掲げられる強さが――清々しく心地よかった。

「――……いいですよ。あなたの式神、やってやりますよ」

 過去からすべてを絡めとり、悪夢のうちで縋りつく、あのじっとりと重たい腕。それを振り払い、この手を取るのは――悪くなく思えた。

「力ある者は、責務を持ちますからね」

「あら、ようやく諦めて覚悟を決めたの?」

「ええ、ようやく、前向きに諦めました」

 楽しげに微笑み見上げる貴子に笑い返す。

 首筋に光が浮かび上がった。その薄藍色が、夜が朝に染まりゆくように、鴇色に塗り替わって零れ落ちた。

「これで十全に力が奮えるから、今夜は〈胡蝶〉を封じられるわね」

「さぁ……どうでしょうかね?」

 からかいを含めていらえる。

 瞬間。二人の周りですでに朧に薄れていた家の輪郭が、煙のようにほどけて、立ち昇って消えていった。

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