第二夜 ー1
◇
逃げ出す機会はいくらでもあった。拘束されていたわけでもなし、扉に鍵があったわけでもない。なんならば、合鍵を渡され、「ご夕食は七時です」と送り出されたぐらいだ。
しかし、ぶらっと外を出歩き、珍しく真昼の太陽を浴びて、大型書店や家電量販店を冷かしてから――なぜか自分のマンションではなく、合鍵の方に戻ってきてしまった。
そして帰宅した貴子とともに豪勢な夕飯をいただき、お先に広い風呂場を堪能し、ビール片手にリビングでくつろいでいる
「あっれ~……?」
快適さに流されて、脳が思考と反抗を放棄したようだ。
「すっかり契約してくれる気になったみたいで嬉しいわ」
「いやいやいや、成り行きですからね、まだ。行きがかり上、ここにいるだけなんで」
向かいから薫るカモミール。そして、かすかなシャンプーの匂い。白葉のビールと違い、眠る前の健康的な一杯を楽しむ貴子がそこにいた。
「というか、『してくれる』って、させられてるでしょ、もう」
「ほぼ成立しているけれど、まだ完璧ではないの。一応、契約だから。あなたからも許諾があって、初めて契約の力が完全なものになるわ」
「それ先に言って! 契約書の下の阿保みたいにちっさい文字か! 破棄可能ってことじゃないですか!」
「破棄可能とまでは言ってないわ。力が不完全なままなだけ」
「そこらへんの細かいとこはどうでもいいんですよ! つまりまだ、契約完全成立じゃないってことなんでしょ?」
「それはそうね」
身を乗り出す白葉の意気込みにも、貴子は泰然と微笑むだけだ。実に手応えがない。
「けれども、今日はひとまずは付き合ってちょうだい」
カモミールの最後の一口を飲み干して、貴子はそっとティーカップを受け皿へと置いた。
「今夜こそ、〈胡蝶〉を見つけなければ」
蜜色の瞳の底、ふわりと甘く揺蕩う色の奥に、抗しがたい強さが閃いた。逸らせない眼差しだ。首筋がちりりと焦れた気がした。
「……――今夜だけですよ」
昼間のニュースの光景もちらついて、ぼそぼそと威勢を削がれて白葉は応える。
「では、眠りましょうか。私の寝室にする? あなたの寝室にする?」
「ここでいいですか?」
なんのてらいもない問いかけに、真顔で白葉は返した。真実、眠る以外の意図がないのは分かっているが、もう少し躊躇ってほしい。
もし昨夜のように昼まで寝過ごしたら、また中村に寝室に運んでもらおう。老体に鞭打つようで悪いが、己が精神の安寧には変えられない。
ここでいいならいいのだけど、と、貴子もまるで頓着なく、白葉の要望のまま、彼にソファへ腰かけるよう促した。
「目を閉じて。ゆっくりと息をついて」
両瞼を覆う白くしなやかな手。先まで飲んでいたカモミールティーのおかげか、今日はほんのりと温かく、それが心地いい。
昨日とは違いゆるゆると、蔦這うように眠気が意識と閉じた瞼の裏を這っていく。
「さあ、夢路を開いて」
歌うように囁かれた。
茫漠と五感が
夢と
(あ……――)
まずい、目覚めなければと本能的に悟ったのに、もう身体は眠りに落ちていた。指先が、瞼が、動かない。
そのまま体に引きずられるように、一瞬覚醒しかけた意識も、ずるずると抗えぬまま、闇の奥底へと急速に落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます