第二夜 ー1



 逃げ出す機会はいくらでもあった。拘束されていたわけでもなし、扉に鍵があったわけでもない。なんならば、合鍵を渡され、「ご夕食は七時です」と送り出されたぐらいだ。

 しかし、ぶらっと外を出歩き、珍しく真昼の太陽を浴びて、大型書店や家電量販店を冷かしてから――なぜか自分のマンションではなく、合鍵の方に戻ってきてしまった。

 そして帰宅した貴子とともに豪勢な夕飯をいただき、お先に広い風呂場を堪能し、ビール片手にリビングでくつろいでいる現在いまに至るわけである。


「あっれ~……?」

 快適さに流されて、脳が思考と反抗を放棄したようだ。

「すっかり契約してくれる気になったみたいで嬉しいわ」

「いやいやいや、成り行きですからね、まだ。行きがかり上、ここにいるだけなんで」

 向かいから薫るカモミール。そして、かすかなシャンプーの匂い。白葉のビールと違い、眠る前の健康的な一杯を楽しむ貴子がそこにいた。


「というか、『してくれる』って、させられてるでしょ、もう」

「ほぼ成立しているけれど、まだ完璧ではないの。一応、契約だから。あなたからも許諾があって、初めて契約の力が完全なものになるわ」

「それ先に言って! 契約書の下の阿保みたいにちっさい文字か! 破棄可能ってことじゃないですか!」

「破棄可能とまでは言ってないわ。力が不完全なままなだけ」

「そこらへんの細かいとこはどうでもいいんですよ! つまりまだ、契約完全成立じゃないってことなんでしょ?」

「それはそうね」

 身を乗り出す白葉の意気込みにも、貴子は泰然と微笑むだけだ。実に手応えがない。


「けれども、今日はひとまずは付き合ってちょうだい」

 カモミールの最後の一口を飲み干して、貴子はそっとティーカップを受け皿へと置いた。

「今夜こそ、〈胡蝶〉を見つけなければ」

 蜜色の瞳の底、ふわりと甘く揺蕩う色の奥に、抗しがたい強さが閃いた。逸らせない眼差しだ。首筋がちりりと焦れた気がした。

「……――今夜だけですよ」

 昼間のニュースの光景もちらついて、ぼそぼそと威勢を削がれて白葉は応える。

「では、眠りましょうか。私の寝室にする? あなたの寝室にする?」

「ここでいいですか?」

 なんのてらいもない問いかけに、真顔で白葉は返した。真実、眠る以外の意図がないのは分かっているが、もう少し躊躇ってほしい。

 もし昨夜のように昼まで寝過ごしたら、また中村に寝室に運んでもらおう。老体に鞭打つようで悪いが、己が精神の安寧には変えられない。

 ここでいいならいいのだけど、と、貴子もまるで頓着なく、白葉の要望のまま、彼にソファへ腰かけるよう促した。


「目を閉じて。ゆっくりと息をついて」

 両瞼を覆う白くしなやかな手。先まで飲んでいたカモミールティーのおかげか、今日はほんのりと温かく、それが心地いい。

 昨日とは違いゆるゆると、蔦這うように眠気が意識と閉じた瞼の裏を這っていく。

「さあ、夢路を開いて」

 歌うように囁かれた。

 茫漠と五感がほどけて流れていく。

 夢とうつつの間をとろとろと行き交う、その波打ち際のまどろみの安堵。ゆりかごに揺られるような感覚が、突如――ぶつりと途切れた。

(あ……――)

 まずい、目覚めなければと本能的に悟ったのに、もう身体は眠りに落ちていた。指先が、瞼が、動かない。

 そのまま体に引きずられるように、一瞬覚醒しかけた意識も、ずるずると抗えぬまま、闇の奥底へと急速に落ちていった。





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