物語は続く

物語は続く

 物語を書き始めたのがいつだったか、もう覚えていない。それくらい昔の話だ。その時私は保育園に通う幼児でノートも持っていなかったから、裏面が白いチラシを集めて、お絵描きのために買い与えられた色鉛筆を握ってひたすらに文字を綴った。物語とも呼べないような、ストーリーは破綻しているしキャラクター設定はブレブレだし誤字脱字だらけの無茶苦茶なもの。けれども物語を書くことはとても楽しくて、私はあっという間にのめり込んだ。

 小学生になると、授業で使うためにノートが買い与えられた。美しいラインが引かれたノートに文字を書くと、物語としての形が整ったような気がして楽しかった。私は暇さえあればすぐにノートを広げ、そこに物語を書いた。授業中でさえ、板書を取っているふりをしてノートのすみに物語を紡いでいた。

 それが壊れたのは、小学四年生の時。

 授業中にずっと何かを書いている私を訝しんだ隣の席の男子が、休み時間に「お前のノート見せろよ」と声をかけてきた。素直にノートを渡した私に、男子は興味津々にそのノートを覗き込み、隅を埋め尽くす文章を音読し始めた。するとその声に興味を持ったクラスメイトたちが私たちを取り囲むようにして集まってくる。


「え、なになに?」

「こいつ、授業中ずっとなんかしてるなと思ったら、物語書いてんだよ」

「え、何それ、きもっ」


 かっと羞恥で顔が熱くなったのがわかった。きもっ、と言う言葉が全身を駆け巡り、体が震える。


「返して!」


 いてもたってもいられなくて、その手からノートを奪い取ろうとする。しかし男子は両手でノートを掴み抵抗した。私も負けじとノートを引っ張る。


「返してってば!」


 そう叫び力任せに引っ張って──そして、私がつかんでいるノートのページがちぎれた。その勢いのままに数歩後ろにさがり、なんとか踏ん張る。しかし全力で引っ張っていた相手の男子は踏ん張りきれなかったのか、勢いよく後ろに倒れ、机に体を打った。ガン、と鈍い音。それと同時に女子たちの悲鳴が上がる。


「何すんだよ!」


 倒れた男子はすぐに起き上がり、私を睨む。そのあまりの鋭さに私はすっかり萎縮してしまい、何も言えずそこに突っ立っていた。


「こら、何してるの!」


 騒ぎを聞きつけたのか教室に駆け込んできた先生が、散らばった机や野次馬に囲まれるようにして相対する私たちを見つけ目を釣り上げる。


「二人とも、喧嘩はやめなさい。何があったの?」

「先生! これ見てくれよ」


 そう言って男子が差し出したのは、端が破れた私のノート。先生は首を傾げながらもそれを受け取った。そのままペラペラとページをめくりながらノートを読み進める先生に、どくどくと心臓が音を立てる。顔は熱くて、それなのに体の底は冷え切っていて、今にも泣き出しそうだった。

 どれほどそうしていただろう。ノートから顔を上げた先生が、「これ、穂高さんの?」と聞いた。


「は、はい……」

「こいつ、授業中ずっと落書きしてるから何かと思ったらこんなの書いてやんの」


 先生を含め、クラス全員の視線が私に向けられているのがわかる。気分は断罪される直前の罪人のようだった。ただ黙って突っ立って、自分に罰が下されるのを待っている。でも、待って、私、そんなに悪いことした?


「穂高さん」


 そう名前を呼ばれて、のろのろと顔をあげる。先生の鋭い眼差しと目があった。あ、怒ってる。それだけで喉がキュッとなった。


「授業中にくだらないことをするのはやめなさい。授業をちゃんと聞くこと」


 ──それに、なんと返事をしたかは覚えていない。気がついたら自分の部屋の中にいて、布団にくるまり一人で泣いていた。

 自分の全てが否定されたような気分だった。

 物語を書くって、恥ずかしいことなんだ。気持ち悪いことなんだ。くだらないことなんだ。向けられた言葉の一つ一つが、鋭い刃物となって心に突き刺さる。

 そうして私は、物語を書くのをやめた。小学校にも行かなくなった。私にとって小学校は、自分を傷つける恐ろしい場所になってしまったのだ。これ以上傷つきたくなかった。人と接するのが怖かった。私は自分の部屋にこもり、布団にくるまって、本を読んで日々を過ごした。突然引きこもりになった私を両親はひどく心配し、何かあったのかと尋ねたが、「何もない」と繰り返すとそれ以上聞いてはこなかった。


 そして、それから四年の月日が経った。

 私は今日も、部屋に一人で閉じこもっている。


 ベッドの上、できるだけ隅で三角座りをして壁にもたれかかる。ベッドの横に備え付けられた机の上には本が何冊か積み重なっていて、私は一番上の本を手に取った。図書館のバーコードが貼られたそれは、お母さんが私のために借りてきてくれたものだ。

 部屋に引きこもっている間、私はずっと本を読んでいた。物語の世界に浸っている間は現実のことを忘れられるからだ。本を胸に抱えて、眠れない夜をいくつも越えた。物語は私を救ってくれた。

 栞が挟まれたページを開き、昨日の続きを読み進める。私はあっという間に物語の世界へと入り込んでいった。

 最後のページを読み終わり、余韻に息を吐きながら顔を上げる。部屋の壁にかかった時計を見ると、最後に時計を見た時から二時間が経過していた。

 本を机の上に戻す。積まれた本の背表紙を見ると、どれもすでに読んでしまったものだった。まずい、読むものがなくなってしまった。それは微かな絶望となって私の心を重くする。

 何もしていないと色々考えてしまうのは私の悪い癖だ。四年前に負った傷は今でも確かに私の心に残っていて、ジクジクと傷んではその存在を主張する。その度に私は傷を見つめ返して過去を思い出し、その恐怖で震えてしまう。時間は問題を解決してくれると言うけれど、私はいつになったらこの恐怖を忘れることができるのだろう。

 思考を振り払うように私は頭を振り立ち上がった。部屋の中をウロウロと動き回る。じっとしていれば心がどんどん良くない感情に支配されてしまうのだ。寂しい。虚しい。怖い。悲しい。どんどん感情が溢れてきて、心がどんどん重くなっていって、それに引っ張られて体も重くなるような錯覚に陥る。

 心にせかされるようにして部屋を出てリビングへと向かう。私の両親は共働きだから日中は二人とも出払っていて家には誰もいない。空っぽのリビングに足を踏み入れると、余計に虚しさが募る一方だった。

 本が読みたい。本を読めば、こんな思考などどこかにやってしまえるから。

 けれども、リビングの中を見渡してみても本はどこにも見当たらなかった。思わず地団駄を踏んでしまう。鼓動がどんどん早くなってきて、今にも泣き出してしまいそうだった。

 意味もなくリビングをウロウロと歩き回る。ふと、棚の横にかけられたカバンに目が入った。

 そこにはいくつかカバンがかけられていた。そのうちの一つ、赤いチェックの手提げカバンを手に取る。それには見覚えがあった。お母さんがいつも図書館で借りる本を入れているカバンだ。もしかしたら中に本が入っているかもしれない。

 期待に胸を膨らませてバッグの中を覗き込むが、残念ながら中は空っぽだった。……いや、何かカードのようなものが入っている。

 カードを掴み、書かれた文字を目で追う。そこには図書館利用カードと大きく印刷されており、手書きでお母さんの名前が書かれていた。

 私はまだ引きこもりになる前、お母さんに連れられて何度か図書館に足を運んだことがあった。そのためこのカードにも見覚えがあった。確か、これがあれば図書館で本を借りることができるはずだ。

 そう。これさえあれば、新しい本が手に入る。本を読むことができる。

 浮かんだ思考をすぐに否定する。たとえ借りられるのだとしても、そのためには図書館まで行かなくてはいけないのだ。人と接するのが怖くなって引きこもった私にとって、それはとても高い壁だった。

 ──でも。こうしている間にも心はまた負の感情で支配されていく。お母さんが帰ってくるまではまだ時間があり、それまでこの感情を抱き続けることはとても耐えられそうになかった。


「うう……」


 ぐるぐると悩み、無意識のうちに口から唸り声のようなものが漏れてしまう。本を読むのを諦めてこの感情を抱いたまま部屋に閉じこもるか、覚悟を決めて外に出て新しい本を手に入れるか。

 私は記憶の海の中から、昔図書館に行った時の記憶を掬い上げた。そう、お母さんは確か、本棚から本を取り出してそれをカウンターに持っていき、カードを提示してそれを読み込んでもらうことで本を借りていたはずだ。

 その過程の中で人と接しないといけないのはカウンターで手続きをするときだけだ。それだって、借りる本とカードさえ渡せばきっと話さなくても大丈夫なはず。


「……よし」


 私はひとつ覚悟を決めて頷いた。一度部屋に戻り、タンスの中から適当に大きめの黒いパーカーと花柄のスカートを取り出す。それに着替えると、マスクをつけて顔の半分を覆い隠した。これがあるのとないのとではだいぶ違う。

 リビングに戻り、赤いチェックの手提げカバンを肩にかける。カードをスカートのポケットに入れると、私は玄関に向かった。白いスニーカーを履き、ドアノブに手を掛ける。何度も深呼吸をすると、勢いよくドアを開けた。途端に差し込む日差しが容赦なく私を襲う。

 パーカーのフードを深く被ることで日光から逃れると、私は図書館に向かう道を歩き始めた。

 パーカーで半分ほどに遮られた視界を彷徨わせながら歩く。平日のお昼時だからか、あまり人影は見当たらない。人に会う前に早く終わらせてしまおうと、私は急いで足を動かした。

 記憶を頼りに何度か道を曲がり、橋を渡ると、見覚えのある大きな建物が現れる。まずは無事に目的地に到着できたことに安堵の息を吐いた私は、そっと自動ドアを通って中に足を踏み入れた。ひんやりとした冷気が私を包み込む。


「うわあ……!」


 ぎっしりと本が詰め込まれた本棚が並んでいるその光景はまさに圧巻だった。私は顔を隠すことも忘れてキョロキョロと図書館内を見回す。

 本はジャンルごとに分類されているようで、本棚の横に番号と説明が振ってあった。近くの壁に貼られた案内図によると、私の目的とする日本文学は九番で、図書館の奥にコーナーがあるらしい。私はずらりと並ぶ本の背表紙を眺めながら目的の本棚へ向かった。

 本棚を眺めるのは好きだな、と思う。世の中にはこれほど物語があるのだと思うだけで胸が高鳴る。毎日のように本を読んでいても、この世にある全ての本を読み尽くすことはできない。それはとても贅沢で、幸せなことのように思えた。

 何冊か気になった本を手に取り、カウンターへと向かう。視線を下に落としたまま無言で本を利用カードを差し出すと、司書さんは手慣れた様子でそれを受け取り、バーコードを読み込んだ。


「貸出期間は二週間となっておりますので、それまでに返却をお願いします」


 そう言って渡された本を受け取り、会釈をしてカウンターから離れる。近くの机に本を置くと、私は大きく息を吐いた。無意識のうちに緊張で体が強張っていたのだろう、肩の力が抜けていくのがわかる。今更ながらに手が震えて上手く物が持てない。

 早く帰ろうと借りた本を全て手提げカバンに詰め、出口に向かおうとすると、ちょうど出入り口の方から見覚えのある制服を着た男子生徒が歩いてきたのが目に入った。登校したことはないけれど、私が所属している中学校の制服だ。


「ひっ」


 喉から引き攣ったような声が漏れた。

 その顔が、とても見覚えのあるものだったからだ。

 ──え、なにそれ、きもっ

 今でも夢に見る、あの言葉がリフレインする。間違いない、彼はあの時の男子だ。

 手が震え、手提げカバンを取り落としてしまう。床にばさりと落ちた音で我に返った私は、落ちたカバンを拾うとその男子生徒から隠れるように本棚の影に入り、座り込んだ。カバンを抱きしめ、息を潜めて丸くなる。外界から自分を守るように。

 見つかるな。見つかったらきっとまた傷つけられる。怖い。怖い怖い怖い!

 やっぱり外に出るんじゃなかった!

 もう傷つきたくないのに!


「ねえ」


 突然頭上から声をかけられて、私はびくりと体を震わせ飛び上がった。その拍子に背後の本棚に背中を打ち、ガンッという音と共に本棚が揺れる。


「いたっ」


 背中に鈍い痛みが走って、私は再びしゃがみ込んだ。あまりの痛さにじんわりと涙が滲む。


「だ、大丈夫? ごめんねいきなり話しかけて」


 その声に、のろのろと顔を上げる。すると、私の顔を覗き込むようにしてしゃがみ込んだ人と目があった。黒縁メガネのレンズの向こう側、切れ長の瞳が心配そうにこちらを見ている。その顔は見覚えのないもので、あの男子ではないことに安堵した。

 何も声を発せないでいる私に、彼は心配そうに顔を傾ける。


「本当に大丈夫?」

「だ、大丈夫です……」

「良かった」


 ほっと安心したように息を吐いた後、彼は周囲を見回し声を潜めて言った。


「……あの男の子なら、もう向こうに行ったよ」

「え?」


 何を言われたのか咄嗟に理解できなくて、私は間抜けな声を漏らした。何度かの瞬きの後、何も答えない私に、彼は「ごめん、勘違いだったかな」と気まずそうに頬をかく。


「あの子から隠れたように見えたから」

「えっ、あっ、あってます」


 ようやく彼の言葉を理解して、私は頷いた。

 そうか、もう出ていったのか。ほっと息を吐く。無意識のうちに体が強張っていたのだろう、力が抜けていくのがわかった。へなへなと床に座り込む。


「良かった……」


 気が緩んだのか、痛みが由来のものとは違う涙が込み上がってきた。ゆっくりと瞬きをすると、涙が頬をつたい床に落ちる。図書館のグリーンのカーペットに落ちた涙がにじみ、まだらな模様を作った。

 泣き出した私に、彼は優しく背中をさすってくれた。

 中学生にもなって人前で泣くなんて恥ずかしい。泣き止もうと目元を擦ると、その腕を優しく掴まれる。突然触れられたことに驚きはしたものの、その手のひらから伝わる熱が温かかったからか、その触れ方が割れ物を触るように優しかったからか、恐怖は抱かなかった。


「目が痛くなっちゃうよ」


 そっとハンカチを差し出される。それを受け取って目元に当てると、柔軟剤の優しい匂いがした。何度か深呼吸をすると、だんだんと呼吸が落ち着いていくのがわかる。

 しばらくしてようやく泣き止んだ私は、ハンカチを顔から離しゆっくりと瞬きをした。ハンカチは涙を吸ってすっかり重くなってしまっているし、鼻水もついている。このまま返すわけにもいかないだろう。


「ごめんなさい、ハンカチ借りちゃって……洗って返します」

「気にしないでいいよ」

「で、でも」


 彼は私に気を遣って声をかけてくれたのに、勝手に泣き出してしまって、ハンカチもダメにしてしまって。……改めて思い起こすと迷惑をかけてばかりだ。

 自分が情けなくなって、せっかく止まったのにまたじんわりと涙が浮かんでくる。そんな私を見かねたのか、彼は「ならさ」と声を上げた。


「僕、毎週木曜日に図書館にいるんだ。いつでもいいから、もしまた会えたらその時に返してよ。それまで持ってていいから」


 また図書館に来る。それは私にとってとても勇気のいることだったけれど、私はその提案に頷いてしまった。彼ともう一度会いたかったからだ。

 その日は私たちはそれで別れた。

 家まで続く道を歩きながら、そういえば名前を聞くのを忘れたな、と私は今更ながらに気づいた。



 一週間後の木曜日、私はまた図書館を訪れていた。

 あの後、家に帰った私は、お母さんの目を盗んでハンカチを手洗いした。お母さんに頼んで洗濯してもらっても良かったが、このハンカチを借りるに至った経緯をうまく説明できそうになかったのだ。あの日家の外に出て図書館に行ったことを、私は誰にも言っていなかった。

 部屋に干していたハンカチを丁寧に折り畳むと袋に包んで手提げカバンに入れ、図書館に向かう。

 きょろきょろと辺りを見回して彼の姿を探していると、壁際のスペースで椅子に座りテーブルに向かって何かを書いている彼が視界に入った。その瞬間、どくりと胸が高鳴ったのがわかった。

 声をかけようとして、しかし勇気が出ず足がすくむ。心を落ち着かせるように深呼吸し、手提げカバンからハンカチを入れた袋を取り出すと、私は意を決して「あの」とその後ろ姿に話しかけた。

 机に向かって一心不乱に手を動かしていた彼は、その声に手を止めて振り向く。声の正体に予想がついていたのだろう、私の姿を視界に捉えて「こんにちは」と微笑んだ。


「こ、こんにちは」


 思わずハンカチを握る手に力が入る。くしゃりと袋にシワが入る音がして、慌てて手の力を緩めた。せっかく綺麗にしたのにシワが入ってしまっては大変だ。

 そんな私の手元に彼は視線を移す。そしてわざわざ椅子から立ち上がると、私と目線を合わせてくれた。その眼鏡越しの瞳を見つめると、緊張が解れる。


「ハンカチ、洗ってくれてありがとう」

「いえ、こちらこそ貸していただきありがとうございました」


 そっとハンカチを差し出すと、彼も丁寧に両手でそれを受け取った。そして、袋に貼られたメモに目をやる。

 それは、緊張して何も話せなかった時のために貼っておいたメモだった。可愛らしいキャラクターが印刷されたそれには、ありがとうございます、とだけ書かれている。どれほど緊張していてもお礼だけはきちんと言いたかったからだ。

 でも、メモに頼らなくてもちゃんと言えた。その事実に安堵し、体から力が抜ける。


「紡ちゃんって言うんだ」


 油断していたところにいきなり名前を呼ばれて、思わず背筋が伸びた。そう言えば、メモに名前を書いていたのだった。


「は、はい」

「まだ自己紹介してなかったね、すっかり忘れてた。僕は高柳凛太郎」

「高柳、さん」

「凛太郎でいいよ、そんなに歳は変わらないと思うから。紡ちゃんは今何歳?」

「十三歳です。中学二年生」

「やっぱり。僕は十五歳、高校一年生だよ。二歳差だね」


 二歳差。彼──凛太郎くんは歳が近いと言うけれど、私にとって二歳上、しかも高校生なんてとても遠い、大人のような印象だった。凛太郎くんは落ち着いた雰囲気を纏っているから特に。


「大人っぽいですね」


 思ったままにそう言うと、「そんなことないよ」と凛太郎くんは照れたようにはにかんだ。そうやって笑う時に目を細めると途端に幼く見えて、印象が変わるな、と思う。

 もっと話したいな、と思った。けれども不登校になってから家族以外と話す機会は少なかったので、どうすれば会話が続くのかすっかり忘れてしまっているのだ。何か会話の糸口になるものはないかと視線を彷徨わせていた私は、ふと机の上に目を止めた。

 そこに広げられていたのは原稿用紙とノートだった。原稿用紙は分厚い束になっており、一番上に置かれた原稿用紙が途中まで文字で埋まっていることから先ほどまで凛太郎くんが何かを書いていたことがわかる。横に広げられたノートにも文字がびっちり書かれていたが、私の位置からは何が書かれているのか読むことはできなかった。


「何を書いていたんですか?」


 それは咄嗟に出た質問だった。私は図書館で本を読む以外の行為をしたことがなかったから、凛太郎くんも同じように本を読んでいるものだと思っていたのだ。だから、何かを書いていたというのは意外だったし、何を書いていたのか気にもなった。高校生だというし、レポートでも書いていたのだろうか。

 そんな私の視線を追って机の上を見た凛太郎くんは、私の突然の質問の意味を理解したのか「ああ」と一つ頷いた。


「物語を書いてたんだ」


 どくり、と。自分の鼓動がやけに大きく聞こえた。震える声を抑えつけて、どうにか平静を装う。


「す、好きなんですか? 物語を書くの」

「うん、好きだよ」


 凛太郎くんはあっさりと頷いた。

 途端に私の心の中にはいろんな感情がぐるぐると渦巻いて、その中でも一番強い感情は羨望だった。物語を書くのが好きだと、こんなに堂々と口に出せる凛太郎くんが羨ましかったのだ。

 私はそうはなれない。私にとって物語を書くという行為は、心の一番柔らかいところに存在するものだった。書いた物語は私の心そのもので、つまりそれを見せるということは心の中を曝け出すのと同じだったのだ。そしてその心がズタズタに傷つけられ、私はそれ以来物語を書いていない。


「そうだ、ちょっと読む?」


 原稿用紙を見つめる私の視線を興味があると捉えたのか、凛太郎くんはそう言って椅子にかけたリュックの中から紙の束を取り出した。手渡されたその束の表紙に書かれた文字を読んで、私は目を丸くする。


「これ……」


 その表紙には【東高校 文芸部部誌 6月号】と書かれていた。コピー用紙を束ねてホッチキスで止めた薄い冊子だ。


「文芸部、って……物語を書く部活ですか?」

「そうだよ。部員が物語を書いて、それをまとめて毎月部誌にして配ってるんだ」


 物語を、書く。そしてそれをまとめて、配る。ということはその物語はたくさんの人の目に触れるのだろう。それは私にとって、想像するだけで体が震えてしまうような怖いことだった。あの日、あの小学校の教室で向けられた鋭利な言葉が、頭の中にリフレインする。


 ──えっ、何それ、きもっ


 この部誌に物語を載せている人は、そんな言葉を向けられたことはないのだろうか。自分が書いたものを人に見せるって、怖くはないのだろうか。

 この部誌には、どんな物語が載っているんだろうか。

 どくりどくりと、鼓動がうるさい。顔が熱いのに指先が冷たくて、ああ、私緊張してるのかとどこか他人事のように思った。


「僕も毎月連載してるんだ。それに一話が載ってるから、試しに読んでみて欲しいな」


 凛太郎くんがそう言いながら隣の席を引いた。促されるままにその席に座る。

 そっと、宝物を扱うような繊細な手つきで表紙をめくる。次に現れたのは目次で、この部誌に載っているのであろう物語のタイトルと作者名が並んでいた。その中に凛太郎くんの名前を見つけて、その文字をそっとなぞる。

 ここに書かれた名前の人たちはみんな、物語を書くのか。

 私は今までに、自分以外で物語を書いているという人に会ったことはなかった。だからこそ、物語を書いている人がこんなにいるというのが新鮮だった。

 次のページを捲る。そこから始まった世界に、私はあっという間に飛び込んでいった。

 主人公の少年・空は現在高校三年生。大学受験を一ヶ月後に控えていたが、将来の夢が見つからずこのままでいいのかと悩んでいた。そんなある日、わざと電車に乗らず塾に行くのをサボってしまう。すると駅で美しい少女が話しかけてきた。彼女は海に行きたいらしく、空も一緒に行かないかと誘う。全てが嫌になっていた空は少女に手を引かれて列車に乗り込み、海へと向かうことにした。月光に照らされる列車の中で、少女は月に住む宇宙人なのだと語った。殺風景な月に嫌気がさし、月から毎日見上げていた青い海を持って帰りたくて地球に来たのだという。空はその話を半信半疑で聞きながらも、少女にかぐやという名前をつけた。

 そこで一話は終わっている。

 美しい風景描写や宇宙人だと名乗る少女の存在によって幻想的なイメージを抱くけれど、その一方で将来の進路に悩む主人公の姿は酷く現実味があって重みを感じる。ふわふわとしているようで確かな手触りのある、不思議な余韻を抱く物語だった。

 読み終えた私は、余韻に息をつきながら顔を上げる。すると私をじっと見つめる凛太郎くんと目が合った。


「どうだった?」


 どこか緊張した面持ちの凛太郎くんに、興奮したまま「面白かったです!」と伝える。


「こんな物語が書けるなんて、すごい」


 それは心からの言葉だった。目の前の男の子からこんな物語が生まれたなんて信じられない。私は凛太郎くんのことが一気に好きになった。

 この感情が冷める前にと、まくしたてるように感想を口に出す。


「田舎の風景描写がとても綺麗で、頭の中に浮かんでくるようでした。かぐやの言動がとても不思議で非日常のような感覚を抱くのに、空の悩みはとても等身大のもので現実感があって。すごく、すごくよかったです」


 そんな私の言葉に、凛太郎くんは照れたように頬を赤く染めた。


「ありがとう」

「これ、続きはないんですか? 読みたいです」

「二話はちょうど今書いてるところなんだ」


 凛太郎くんは目の前に置かれた原稿用紙の束を指さす。あの物語の続きが今生み出されているのだと思うと、胸に湧き上がるものがあった。


「じゃあ、できたらまた読ませてください」


 そう言うと、凛太郎くんは「わかった」と頷いた。

 その後、凛太郎くんは原稿用紙に向かって物語を書き始め、私はというとそんな凛太郎くんの邪魔をしないように隣で本を読んでいた。それでも読書に集中できず、チラチラと横の凛太郎くんを覗き見てしまう。前屈みになって原稿用紙に向き合っている彼の視界にはきっと原稿用紙に書かれた文字とその向こう側に広がる世界しか見えていなくて、私の視線に気づく様子はない。真剣に筆を走らせるその姿に、どくどくと胸が高鳴っていくのがわかった。

 書きたい、という衝動がこみ上げる。私も書きたい。凛太郎くんのように、原稿用紙に向き合って、その向こう側に世界を見たい。その衝動は胸を満たし、身体中に行き渡り、指先に力がこもり、意味もなく動き出したくなる。

 そんな衝動が私の中に残っていたことに驚いた。もうとっくに失ったと思っていたのに。


「……凛太郎くん。その原稿用紙って、どこに売ってるんですか?」

「これ? クローバーってわかるかな、この近くのスーパーなんだけど」

「わかります」

「僕はそこの三階の文房具コーナーでいつも買ってるよ」


 クローバー。三階の文房具売り場。心の中でしっかりとメモを取る。


「ありがとうございます」


 そうお礼を言った私に、凛太郎くんは「いえいえ」と返事をした後また真剣な顔つきに戻って原稿用紙に向き直った。

 お母さんが家に帰ってくるのは六時だから、それまでに家に帰らなくてはいけない。

 チラリと壁にかかった時計を見ると、時計の針はちょうど五時を指していた。図書館から家までは歩いて十五分だから、まだ時間はある。けれどもクローバーに寄るならもう出たほうがいいだろう。


「凛太郎くん、私もう帰ります」


 真剣に鉛筆を走らせ続ける凛太郎くんに声をかけるのは躊躇われたけれど、そのまま帰るもの失礼なので一言声をかける。バッと顔を上げた凛太郎くんは、先ほどまでの真剣な顔を柔らかく崩して「うん。またね」と手を振ってくれた。

 それに手を振りかえして図書館を出る。

 頭の中に街の地図を思い浮かべながら歩いていると、クローバーにはすぐに到着した。中に入りエスカレーターに乗って三階に向かう。文房具売り場には小学生の時お母さんと来たことがあったから場所は覚えているはずだ。記憶を頼りに店内を歩くと、目的の場所を見つけることができた。

 原稿用紙はノートと同じ棚に置かれていた。凛太郎くんがテーブルの上に広げていたものと同じ、緑色の枠が印刷されたものだ。値段はノートと対して変わらないもので、これなら私のお小遣いでも買えると安堵の息を吐く。

 私は棚から原稿用紙の束が入った袋を一つ取り、レジへと向かった。

 ドキドキと胸を高鳴らせながら、店員さんに手渡す。財布の中からお金を払いお釣りを受け取ると、そっと原稿用紙を手提げバックの中に入れた。これはもう私のものなのだ。

 手提げカバンの持ち手をぎゅっと握り締めながら、帰路に着く。私ははやる気持ちに突き動かされて自然と早足になっていた。そのまま駆け込むようにして家に入り、自室に籠る。

 手提げカバンをベッドの上に下ろすと、中からそっと宝物でも扱うような手つきで、原稿用紙を取り出す。ビニール袋から束を取り出し机の上に置き、椅子をひいてその前に向かってみた。図書館での凛太郎くんの真似だ。

 勉強机の棚に置かれたペン立てからボールペンを一本手に取り、その真っ白な紙の上、緑色の枠線に囲まれた四角の中にとりあえず自分の名前を書いてみる。

 穂高紡。

 原稿用紙に書かれた文字を眺めて、ほうっと息を吐く。感動で胸が打ち震えていた。

 図書館でこっそり覗き見た、凛太郎くんの横顔を思い出す。前屈みになって原稿用紙に向き合い、真剣に鉛筆を走らせる姿。その原稿用紙の向こう側には物語の世界が広がっている。自分も同じような姿勢で原稿用紙に向き合うことで、その視界を共有できるような気がした。

 書きたい。その衝動が湧き上がるのは、とても自然なことだった。あれほど恐れて、封印してしまった感情だったのに。蓋をして、目を逸らして、逃げてきたものだったのに。一度蓋が開いてしまえば、それはあっという間だった。

 椅子から立ち上がり、服をしまっている箪笥の引き出しを開けると、その底に隠しておいた鍵を取り出した。

 勉強机の一番上の引き出し、鍵のかかった秘密の場所。四年前のあの日、私が全てを閉じ込めた場所だ。あれからずっとこの引き出しが開かれることはなく、鍵はずっとここに隠されていた。私はこの場所から目を逸らし続けていた。けれども今なら、開けられるような気がしたのだ。

 鍵をそっと引き出しの鍵穴に差し込む。恐る恐る右に回すと、カチャン、という軽い音と共に鍵が開いた。私の緊張とは裏腹に、それは実にあっさりとしたものだった。震える手で引き出しを開ける。ゆっくりと開かれたその中には、ビリビリに破かれたノートがあった。あの日破られてしまったノートだ。

 そっとノートを手に取る。その行為に、想像していたような負の感情は抱かなかった。再び小説を書くことへの恐怖よりも、書きたいという衝動が勝ったのだ。

 椅子に座り直し、破られた次のページを開く。次のページは真っ白だった。

 私はそこに、物語のプロットを書き始めた。原稿用紙に物語を書くには、まず物語の世界を構築しないといけない。

 物語を考えるのはとても久しぶりだったけれど、書きたいことは次々と浮かんできた。いや、久しぶりだからこそだろうか。この四年間、私が外に出すことなく、文字に起こすことなく、頭の中に溜め込み続けた物語がインクに乗ってノートの上に紡がれていく。固く閉ざされた扉は開かれ、その中から物語が溢れ出していく。

 テーマを決め、ストーリーの流れを考えていく。世界の骨組みを作ると、次はその世界で生きる人々だ。登場人物の名前や性格、好きな食べ物まで決めてノートに書き込んでいく。今この瞬間、私の視界にはノートに紡がれた文字と、その向こう側に広がっていく世界しか見えていなかった。


「紡、晩ご飯よ」


 ドアの向こうからかけられたそんな声にも、私は「いらない、後で食べる!」とおざなりに返事した。この迸るような衝動を止めることなんてできなかったのだ。お母さんは何度か私の名前を呼びかけていたけれど、私が部屋から出る気がないと理解したのかいつの間にかその声は止んでいた。申し訳ないことをしたとは思いつつも、その罪悪感はすぐに打ち寄せる大きな情熱の波に飲み込まれて見えなくなる。思考も感情も全てが物語に向けられる。

 プロットが完成すると、私はそのノートの横に原稿用紙を引き寄せた。名前が書かれた一番上の紙をめくると、再び真っ白な原稿用紙と向き合う。ボールペンを握り直して、一つ深呼吸をする。

 そうして、私は実に四年ぶりに物語を書き始めた。


 それから私は毎日原稿用紙に向き合った。四年分溜め込まれた情熱は私のことを突き動かし続け、私はひたすらに物語を紡いだ。時間感覚はとうになくなっていて、意識を失うようにしていきなり眠りに落ち、目を覚ませば十時間経っていた、なんてこともざらだった。睡眠をとった頭は冴え、そうしてようやく体は空腹を訴える。部屋の扉を開けるとその前には大抵ご飯が置かれているから、それを片手でかきこみながら原稿用紙に文字を紡いでいく。その繰り返しだった。

 前に図書館に行った日から一ヶ月が経っている。そのことに気づいたのは、久々に家族揃ってリビングで晩ご飯を食べていた時だった。ふと壁にかかったカレンダーを見たのだ。


「今日って何日だっけ?」

「十八日だよ」


 十八日。カレンダーによると、今日は水曜日だった。ということは明日は木曜日。凛太郎くんが図書館に来る日だ。

 一度そう思い至ると、凛太郎くんに会いたいという気持ちが強くなる。それにもしかしたら、あの続きも読ませてもらえるかもしれない。

 その日の夜、私は久々に物語を書かずにベッドの上で寝た。

 

 次の日。久々に家の外に出た私は、これまた久々に浴びる日光の眩しさに目をすがめながらも図書館へと向かった。手提げバックの中には、書きかけの原稿用紙と設定が書かれたノート、筆記用具の入った筆箱が入っている。

 十時の図書館開館と同時に足を踏み入れた私は、本棚で読む本を選ぶことなくまっすぐにテーブルへと向かった。椅子に座ると、手提げバックから原稿用紙を取り出しテーブルの上に広げる。図書館のテーブルの上で見る原稿用紙と家の自分の部屋で見る原稿用紙は違う印象がした。

 筆箱から鉛筆を取り出すと物語の続きの文字を書き始めた。

 それから何時間経っただろう。


「こんにちは、紡ちゃん」


 一度も席を立たず集中して書き続けていた私は、隣に人が座った気配を感じバッと顔を上げた。視界に入ったのは待ち望んでいた人の顔で、自然と笑みが溢れるのがわかる。


「こんにちは、凛太郎くん」

「これ、約束の二話が載ってる部誌だよ」


 そう言ってリュックの中から取り出された冊子は見覚えのあるものだった。手に持っていた鉛筆をテーブルの上に置き、差し出された冊子を受け取る。


「ありがとうございます!」

「こちらこそ、そんなに楽しみにしてもらえてると励みになるよ」


 嬉しそうに笑った凛太郎くんは、ふと私の前に視線を移して止まった。どうしたのだろうとその視線の先を追うと、そこにあるのはテーブルの上に広げられた原稿用紙。

 ゆっくりと、緊張で指先が冷えていくのがわかった。


「原稿用紙、買ったんだ」

「は、はい」


 スカートの裾を握りしめる。ドキドキとうるさい心を落ち着かせるように、ゆっくりと深呼吸をした。大丈夫、大丈夫だ。自分に何度も言い聞かせ、顔を上げて凛太郎くんと視線を合わせる。


「実は、私も今物語を書いているんです」

「え?」


 突然の私の言葉に凛太郎くんは目を丸くする。けれどもそれは驚きによるもので、昔のクラスメイトのような負の感情は見当たらなかった。そのことにホッとする。

 だから勢いのまま言った。


「完成したら、凛太郎くんが読んでくれませんか」


 それを言うのは、とても勇気のいることだった。

 物語を書くことも、それを誰かに言うことも、書いたものを誰かに読まれることも。少し前の私は、全てが恐ろしくて仕方なかった。

 けれども凛太郎くんと出会って変わった。再び物語を書くようになったし、物語を書いていることも言うことができたのだ。そして、凛太郎くんになら、書いた物語を読んでもらいたいと思うようにもなっていた。凛太郎くんならきっと、私のことを傷つけないから。凛太郎くんになら見せても良いと思えるほどには、私は彼に好意を抱いていた。

 私のお願いを聞いた凛太郎くんは何度か瞬きをした後、ぱあっと目を輝かせた。


「もちろんだよ! 楽しみだなあ」

「はい。頑張ります」


 その笑顔を見ると、より一層物語への情熱が湧き上がってくるのがわかった。

 その日家に帰った私は、早速部屋で部誌を広げる。

 凛太郎くんの連載小説『ムーンライト』の第二話は、夜行列車が終点駅に停まったところから始まった。

 空とかぐやが乗り換える予定だった海へと向かう列車の終電が出てしまっていたので、二人は終点駅で夜を越そうと街に出る。そこでラーメン屋の屋台を発見した二人。「ラーメンを食べたことがない」というかぐやの発言に衝撃を受けた空は、宇宙人にラーメンの美味しさを布教すべく屋台に入る。そこで今後の計画を話し合っていると、それを聞いていた客のおじさんが車で海へ送ると提案してきた。人を疑うことを知らないかぐやはその提案を受け入れ、渋る空と一緒におじさんの運転する車に乗り込む。第二話はそこで終わりだ。

 一気に読み終えた私は、部誌から顔をあげて息を吐いた。


「やっぱりすごい……」


 目で文章を追っていると、頭の中ではその風景が広がっていった。夜のラーメン屋の屋台。逃避行に胸を高鳴らせる二人。

 私の隣でこんなに素敵な物語が生み出されているなんて。あの真剣な眼差しの向こう側に、こんな世界が広がっているなんて。

 物語を書くって、素敵だ。

 いてもたってもいられなくて、私は原稿用紙を机の上に広げた。筆箱から鉛筆を取り出し、続きを書き込んでいく。物語を読んで湧き出た衝動は全て物語を書くことでしか満たされない。

 私の書いた物語を読んで、凛太郎くんはどんな反応をするだろう。今の私みたいに、心が動かされて、物語を書きたいという衝動が湧き上がってくるのなら、それが一番嬉しいなと思った。


 私の物語が完成したら、凛太郎くんに読んでもらう。

 その約束が果たされたのは、それからさらに五ヶ月後のことだった。

 私は凛太郎くんが図書館を訪れる毎週木曜日だけはそれに合わせて図書館で、それ以外の日はずっと自分の部屋にこもって物語を書き進めた。図書館で物語を書くときは、凛太郎くんも隣で一緒に原稿用紙に向き合う。ほぼ会話は交わさずただ隣に座っているだけなのだが、一週間に一度しかないその時間は私にとって何よりも素晴らしいものだった。

 物語を書くのが楽しくて仕方なかった。四年前のあの日からずっと重く沈んでいた私の心は、今や羽が生えたのかと錯覚するほどに軽く浮かれていた。私はひたすらに鉛筆を走らせ、心の中をめぐる感情の全てを鉛筆に乗せて真っ白な原稿用紙を埋めていった。

 そうして、約半年をかけて物語は完成したのだ。

 原稿用紙の束を抱きしめて、私は図書館へと走った。


「こんにちは、凛太郎くん!」


 図書館に入るや否や待ち構えていた私に原稿用紙を押し付けられた凛太郎くんは、驚いたように目を丸くした後おかしそうに笑う。


「こんにちは、紡ちゃん」


 そしてそう言いながら原稿用紙の束を受け取ってくれた。

 とうとう、凛太郎くんに読んでもらえる。


「早速読んでもいい?」

「えっ、えっと……」


 今すぐに読んでほしいと言う気持ちは確かにある。でも、私の心の奥底には、まだ四年前のトラウマが住み着いていた。凛太郎くんが昔のクラスメイトたちとは違うのはもうよくわかっているけれど、それでも一度刷り込まれた恐怖はなかなか消えないのだ。


「目の前で読まれるのは怖いから、家で読んでもらってもいいですか?」

「家……」


 ボソリと呟いた凛太郎くんの声が聞こえなくて、「え、なんですか?」と聞き返す。


「なんでもないよ。わかった、家で読むね」


 凛太郎くんはそう言って、大切そうに原稿用紙の束をクリアファイルに入れた後リュックの中にしまってくれた。

 そしてそれと交換のようにリュックの中から取り出されたのは、心待ちにしていた文芸部の部誌だ。毎月連載されている物語は第六話を迎えていた。


「はい、これ」

「ありがとうございます」


 宝物を扱うように、両手で丁寧に受け取る。そんな私に凛太郎くんは苦笑した。


「そんなに喜んでもらえると作者冥利に尽きるよ」

「はい。私が一番のファンですもん!」


 毎月もらっている部誌も全部大切に保管している。何度も何度も読み返して、今ではそらんじられるくらいだ。


「私、凛太郎くんの書く物語が大好きです」


 そして、凛太郎くんにも私の書く物語を好きになってほしい。心の奥底で抱いたそんな願いは、口に出さずにしまっておいた。


 それから一週間。

 私は緊張していた。

 理由は簡単。今日が木曜日であり、図書館で凛太郎君に会う日だからだ。

 この一週間、凛太郎くんに渡した原稿用紙のことを思うと気が気でなかった。気にしないでおこうとしてもどうしても気になってしまう。ご飯を食べながら、お風呂に入りながら、ふとした時にあの物語のことが脳裏に浮かんだ。凛太郎くんはもう読んだだろうか。もし読んだのなら、どんな感想を抱いたのだろうか。

 ──えっ、何それ、きもっ

 小学生の時に向けられた視線を思い出すと呼吸が浅くなる。凛太郎くんはそんな人じゃないとわかっていても、不安で胸が締め付けられてしまう。これなら目の前で読まれた方が幾分かマシだったかもしれない。少なくとも、一週間も不安に振り回されることはなかっただろう。

 そして永遠のようにも感じられた長い一週間が過ぎ、私は運命の木曜日を迎えた。

 凛太郎くんが図書館にやってくる時間まで、私はテーブルに本を山積みにし、それを片っ端から読んでいた。思考を全て物語の世界に浸けてしまいたかったのだ。少しでも現実のことを考えてしまうと、今すぐ席を立って家に駆け込みたくなってしまうから。


「ねえ」


 だから、あれほど待ち望んでいた凛太郎くんがやってきた時も、肩を叩かれるまで気づくことができなかった。


「紡ちゃん、こんにちは」

「凛太郎くん! こ、こんにちは」


 読んでいる途中の本を勢いよく閉じ、ガタガタと音を立てて立ち上がる。その弾みに座っていた椅子が倒れてしまい、大きな音が館内に響いた。周囲の視線が一斉にこちらに向けられる。


「す、すみません……!」


 萎縮してしまった私に変わって、凛太郎くんが倒れた椅子を起こしてくれた。


「ふふ、焦りすぎだよ」

「ごめんなさい。それで、あの」


 なかなか話を切り出す勇気が持てずに言い淀んでいた私に、凛太郎くんが「落ち着いて。とりあえず座りなよ」と椅子を引いた。そして自身も隣の椅子に座る。促されるがままに椅子に座った私は、何度か深呼吸をした後ようやく凛太郎くんの顔を見ることができた。


「落ち着いた?」

「はい」


 覚悟はできた。しっかりと頷いた私に、凛太郎くんも頷き返す。そして、リュックの中から原稿用紙の束を取り出した。それは、先週に私が渡したものだった。


「これ、読んだよ」


 原稿用紙の束が差し出される。恐る恐る受け取ると、一番上に正方形の付箋が貼られているのが目に入った。次のページを捲ると、そこにも同じ付箋が貼られている。その調子で最後のページまで付箋が貼られているようで、付箋の厚みのせいか原稿用紙の束は記憶にあるものよりも分厚くなっていた。

 これは一体なんだろう。不思議に思って顔を上げると、私の思考を読んだように凛太郎くんが答えてくれた。


「それ全部、僕の感想だよ」

「えっ?」

「紡ちゃんの書いた物語を読んでるとたくさんの気持ちが溢れてきてさ。全部を伝えられる気がしなかったから、付箋に書き出して貼ってきたんだ。僕は口に出すより文字に書く方が自分の気持ちを伝えられるから」


 その言葉を、私はすぐに理解ができなかった。何拍か遅れてようやく思考が追いついてくると、じわじわと顔に熱が集まるのがわかる。

 それを誤魔化すように原稿用紙に視線を落とすと、そっと一番上に貼られた付箋を剥がした。そこに書かれた文字を目で追う。


【一行目から心が鷲掴まれた】


 どくん、と心臓が跳ねた。

 次のページを捲る。そこに貼られた付箋に書かれた文字を読む。

 捲る。読む。捲る。読む。

 その度に言葉が心に積もっていくのがわかった。それは不安なんてどこかに追いやって、代わりに私の心を埋め尽くしていく。

 最後まで読み終わると、もう胸がいっぱいで窒息してしまいそうだった。


「凛太郎、くん」


 その声は震えていた。心臓の音がやけにうるさくて、図書館中に響き渡ってしまいそうで、原稿用紙を抱え込むことで押さえつける。湧き上がる感情を指先に込めすぎて、原稿用紙がぐしゃりと歪んだ。けれどそんなことどうだってよかった。

 顔を上げると、凛太郎くんは微笑んで私を見ていた。


「僕の気持ち、伝わった?」

「うん。すごく……すごく伝わりました!」

「良かった。実はね、紡ちゃんに僕が書いた物語を読んでもらった時、すごくドキドキしてたんだ。だから、君にキラキラした目で面白かったって、すごいって言われて嬉しかった。だから、君が書いた物語を読んだ時、僕が抱いたこの感情を余すことなく全て伝えたいと思ったんだ」


 もう一度、原稿用紙に貼られた付箋に目をやる。いつも原稿用紙に書かれている凛太郎くんの丁寧な字とは違う、殴り書きのような崩れた字だった。そう、心の動くままに書かれたような。丁寧に書くための少しの時間も惜しいというような。


「僕、紡ちゃんの書く物語が好きだよ。読ませてくれてありがとう」

「こちらこそ、読んでくれてありがとう」


 ああ、私。

 この人のことが好きだ。

 まさしく恋に落ちたという言い方が正しい。

 それぐらいこの恋心は突然降ってきて、しかしピッタリと胸の中に当てはまった。


 凛太郎くんのことが好きだと気づいてから、私はより一層物語の執筆に精を出すようになった。凛太郎くんと隣り合って小説を書くこの時間も、凛太郎くんに書いた物語を読んでもらうのも、感想が書かれた付箋をもらうのも、すべてが好きだった。

 お父さんとお母さんに毎週家から出て図書館に通っていることを告げると、二人はそんな私の変化をとても喜んでくれたので、改めて心配をかけていたことを実感した。


「紡ちゃんは楽しそうに図書館に通うわねえ」

「友達ができたの」

「へえ、いいわね。友達はどんな人?」

「物語を書いてる人なの」


 そう言いながら、私はそっとお母さんの表情を伺った。私のご飯を食べる手は完全に止まっていて、箸を置き両手を強く握りしめる。

 お母さんはきっと、私の伺うような視線に気づいていなかっただろう。


「そうなの、すごいわね!」


 その言葉に、全身に込められていた力がゆっくりと抜けていくのがわかった。安堵の息を吐く。

 安心した私は、だから思わず口に出してしまった。こぼれ落ちてしまった、と言った方が正しい。


「わ、私もね、一緒に書いてるの。物語を」


 言ってすぐに、まずいと思った。お母さんの顔が見れない。

 どくどくと鼓動が早まる。頭の中でぐるぐると後悔が渦巻いた。なんで言ってしまったんだろう。


「紡ちゃんも? すごいじゃない」


 バッと顔をあげる。

 お母さんは、微笑んでいた。


「趣味があるのは良いことだ」


 今までずっと無言だったお父さんも、味噌汁を啜りながら頷く。


「紡ちゃんが書いた物語、いつか読んでみたいなあ」

「ま、また今度ね」


 あっさりと受け入れられたことが信じられなくて、私は曖昧に頷いた。

 小学生の時、物語を書いていることは馬鹿にされることなのだと知った。物語を書いていることを知られるのが怖かった。もう傷つきたくなかった。凛太郎くんは特別だ、だって彼も物語を書いている、いわば仲間だから。凛太郎くんは物語を書くことが好きだから、私のことを否定しない。だから、自分が書いた物語を見せることもできた。

 けれどお母さんとお父さんは違う。二人は物語を書かない。だから、小学校のクラスメイトや先生と一緒だと思っていた。

 だから怖かった。けれど違ったのだ。

 世界中の全ての人間が、同じわけじゃない。全ての人間が、私を傷つける敵ではないのだ。


「紡ちゃんが書いた物語、いつか読んでみたいなあ」


 物語を書いていることは、必ず否定されるわけではないのだ。

 また一つ、心が軽くなった気がした。

 その日、私は確実に救われたのだ。


 お父さんとお母さんに物語を書いていることを話したこと。それを受け入れてもらえたこと。それがとても嬉しかったこと。

 それを話したかった。そして私がその一歩を踏み出せたのは凛太郎くんのおかげだとお礼を言いたかった。

 だから次の木曜日、私は図書館で凛太郎くんに会えるのを心待ちにしていた。

 けれどもその日、凛太郎くんは図書館に姿を現さなかった。

 次の週も、その次の週も、来なかった。

 最初の週は、特に気にはしていなかった。……嘘、少し気にはなっていた。けれども凛太郎くんは私と違ってきちんと学校に通っているし、図書館に来る木曜日以外は塾に通っているのだと聞いたことがある。それが忙しいのかもしれない。それに、木曜日に図書館に来る以外の用事が入ってしまうことだってあるだろう。私の世界はここが全てだけれど、凛太郎くんの世界は私の何倍も広いのだ。だから仕方がない。そう自分に言い聞かせていた。

 けれども凛太郎くんが来なくなって一ヶ月が経つと、流石に凛太郎くんの身を心配するようになってきた。何か事故に遭ったりして、怪我をして来ることが難しいのかもしれない。

 連絡を取りたかったけれど、私は凛太郎くんと連絡をとる術を持っていない。

 私は凛太郎くんのことを全然知らない。それに気づいて愕然とした。私が知っていることといえば、名前と年齢、高校で文芸部に入っていること、部誌で物語を連載していること。それだけだ。知らないことの方がはるかに多い。どこに住んでいるのか、好きな食べ物は何か、今どこでなにをしているのか。

 だから、私はただ待つしかなかった。

 そして私が凛太郎くんが図書館に来なくなった理由を知ることができたのは、それからさらに一ヶ月が経った頃だった。

 図書館の司書さんに一つのクリアファイルを手渡されたのだ。


「高校生くらいの男の子から、あなたに渡して欲しいとのことです」


 嫌な予感がした。


「それっていつですか?」

「つい先程ですが」


 それが凛太郎くんだということはすぐにわかったから、私はそのクリアファイルを受け取り駆け出した。まだ近くにいるかもしれない。自動ドアにぶつかるような勢いで図書館を出ると、その先に広がる道で立ち止まり左右を見渡す。けれどそのどちらにも凛太郎くんらしき姿は見えなかった。


「凛太郎くん!」


 人目も憚らずに名前を呼ぶ。応えは返ってこない。

 それでも諦めきれなくて、私はクリアファイルを大切に抱きしめながら当てもなく足を動かした。決して見落とさないようにと常に周囲を見渡しながら進んでいく。

 けれども凛太郎くんの姿を見つけることはできなくて、私は息を切らしながら肩を落として図書館に戻った。

 いつもの席に座り、クリアファイルの中身を取り出す。

 それは見慣れた冊子だった。凛太郎くんが物語を連載している文芸部の部誌だ。それと、凛太郎くんがいつも私の隣で書いていた書きかけの原稿用紙もあった。

 そして、真っ白な封筒が入っていた。凛太郎くんの筆跡で書かれた私の名前をそっと指の腹でなぞる。

 封筒は糊付けされていなかった。中に入った数枚の便箋を取り出す。私はそれをゆっくりと読み始めた。


   紡ちゃんへ

 こんにちは。そしていきなり図書館に行かなくなってごめんね。何も言わずにさよならになってしまったことが心残りで、でも会うと気持ちが揺らいでしまいそうだから、図書館の司書さんにこれを託すことにしました。

 どうして僕が図書館に来なくなってしまったのか、紡ちゃんはきっと不思議だったと思う。端的に言うと、毎週図書館に通っていることも、物語を書いていることも、両親にバレてしまったんだ。

 僕の両親はとても頭の良い人たちで、僕は彼らと同じ大学に進学することを望まれてる。そしてそのために、僕は幼少期から勉強漬けの生活を送ってきた。僕が高校受験に失敗して彼らの望む高校に行けなかった時から余計に厳しくなって、僕は生活の全てを管理されてた。高校に行って、塾に行って、ずっと勉強してた。その窮屈な生活の中での唯一の息抜きが、物語を書くことだったんだ。そして紡ちゃんに出会ってからは、紡ちゃんと一緒に小説を書くことが救いになった。

 ムーンライトの話、覚えてる? 将来に悩んだ男子高校生の空が、月から来た宇宙人のかぐやと出会って海に行く話。あれは理想の僕なんだ。物語の中では、主人公の空──僕は全てを捨てて逃げ出した。宇宙人の手を取って、夜行列車に飛び乗った。けれど現実はそうもいかない。臆病な僕は逃げ出すこともできない。

 物語を書いた原稿用紙が見つかって、無駄なことに時間を使うなと怒られて、捨てられてしまった時も、僕はただ謝るだけだった。

 もう物語は書くな、文芸部も辞めろと言われてそれをただ受け入れるしかできない。弱い僕に幻滅した? 僕もね、こんな僕は嫌いだ。けれど両親に逆らうなんてできないんだ。彼らに失望されるのがとても恐ろしい。ずっと管理されて生きてきた、見放されてしまったら今更どう生きていいかわからない。

 家にあった原稿用紙は全て捨てられてしまったんだけど、文芸部の部室に置いていた書きかけの分だけが無事だったんだ。けれどこれを手元に置いておくことはできない、未練になってしまうからね。でも捨てることもできなかった。これは僕の魂だから。

 だから、紡ちゃんに持っていて欲しいんだ。いらなかったら捨ててくれて構わない。

 最後に、僕と仲良くしてくれてありがとう。無駄なものだと言われた僕の物語を楽しみにしてくれていた紡ちゃんの存在が、僕にとってどれほど救いだったかわからない。

 僕の物語はこれでおしまいだ。読んでくれてありがとう。

 そしてこれからも続く君の物語を、読むことができなくてごめんね。

                              高柳凛太郎


 私は全て読み終えると、そっと手紙を机の上に置いた。

 部誌を手に取る。パラパラとページを捲り目当ての場所に辿り着くと、私はそれを読み始めた。凛太郎君の連載している物語の続きだ。

 無事海に到着した二人。夢にまで見た海に興奮して飛び込んだかぐやは溺れてしまい、空は慌ててそれを助ける。すると、かぐやは海が青くないことに気づいて驚いた。そして、月から見える海は青いのにどうして実際は青くないのかと空に問いかける。空はそれに答えられなかった。

 物語はそこで終わっている。

【僕はそれを知っているはずだった。子供の頃、僕は図書室でずっと図鑑を読んでいるような子供で、テストには出ないような、けれど世界の秘密を一つ解き明かしてしまえるような、そんな知識をたくさん持っていた。それらは確かに僕の宝物だったはずなのに、今思い出そうとしても何一つ思い出すことはできなかった。僕の心の真ん中にいた図鑑を抱えた少年は、気がつけば遠い向こうに立っていた。】

 物語の中に書かれたその文章を、何度も読み返す。私の心の中に、破れたノートを抱えた少女の姿が見えた気がした。

 私は自分が書いた物語を人に読まれることが苦手だ。なぜって、物語に書かれたものは私の心の柔らかい部分だから。心の中を読まれるのは誰だって恥ずかしいし、それを踏み躙られたら苦しい。きっと凛太郎くんも同じなのだと気づいたから、この文章も彼の心なのだと思った。きっと、凛太郎くんの心の中にも、原稿用紙を抱えた少年が立っているのだ。

 この続きが書かれることはもうない。海の青さに魅せられて月からやってきたかぐやは、海が青くないと知ってしまった。宇宙人の手を取って街から逃げ出した空は、逃げ出した先で現実を突きつけられた。二人はこの後どうなるのだろう。

 凛太郎くんはこの後どうなるのだろう。

 私はこの後どうなるのだろう。

 何もわからない。けれども、きっと私たちはもう会えない。それだけは確かなことだった。

 私たちの物語はここでおしまいだ。

 私はひたすらに泣いて、司書さんに閉館だと声をかけられるまでその場を動くことができなかった。


 私はまた部屋に籠るようになった。凛太郎くんがいないのなら意味がないと、図書館にも行かなくなった。

 物語も描かなくなった。あれほど胸の中で燃えていた情熱はすっかり消えてしまって、私は毎日ベッドの上で本を読みながらただ日々を過ごすだけの抜け殻だった。両親はそんな私を心配して一緒にご飯を食べるときなどに何度も声をかけてくれたけど、その度に「何でもないよ」と返した。

 コンコン、と部屋のドアがノックされる。


「紡? あなたにお客さんよ」


 その日も相変わらずベッドの上で本を読んでいた私は、それを聞いてバッと顔を上げた。

 凛太郎くんかもしれない!

 勢いよくドアを開ける。すると、その勢いに驚いたのか目を丸くしたお母さんと目があった。その隣に見知らぬ女性が立っている。


「こんにちは、穂高さん」


 腰をおって私に目を合わせた女性に、「……こんにちは」と返す。凛太郎くんじゃなかった。私の心はそんな失望でいっぱいだった。

 そんな私の心境を知る由もないお母さんが話を続ける。


「この人は吉田先生。新しく紡の担任になったから挨拶に来てくれたのよ」

「担任の……」


 そうか、今は四月か。ずっと家にこもっていたため日付感覚が失われて久しく、自分が三年生になったという自覚もあまりなかった。


「穂高さんに渡すプリントがたくさんあるのよ」


 吉田先生は肩にかけたカバンからプリントの入ったクリアファイルを取り出した。それを受け取り、一番上のプリントに書かれた文字を眺める。


「進路調査票……」

「そう。穂高さんは、どこの高校に行きたいとか、高校でどんなことを学びたいとか、そういう進路の希望はある?」


 そんな吉田先生の言葉に、力なく首を横に振る。進路なんて、考えたこともなかった


「特にないです」

「そう。色々な高校のパンフレットも持ってきたから、考えてみて。まだ時間はあるから」


 クリアファイルに入れられたパンフレットはそれか。一冊一冊は薄いが、束になるとそれなりの厚さになる。それを取り出して何冊か確認していると、ふと一冊のパンフレットに目が止まった。

 東高校。


「ここって……」


 なぜかその校名が引っかかった。どこかで見たことがある気がするのだ。いったいどこで。


「その高校が気になる?」

「あ、いえ、どうしてかここを知ってる気がして。でも気のせいだと思います」


 記憶を辿ってみたけれど思い出すことはできなかったため、私は気のせいだと結論づけた。テレビや広告などの何かで見かけたのだろう。

 そんな私に吉田先生は「そう」と頷いた。


「じゃあ、先生はもう帰るわね。穂高さん、これ」


 差し出された小さなメモを恐る恐る受け取る。開いて見ると、そこには十一文字の数字が羅列されていた。


「私の携帯の電話番号よ。もし何か相談があったら、遠慮なくかけてきていいからね」


 そう言って吉田先生は微笑む。その声音はすごく優しげで、この人が担任の先生でよかったと思った。


「今日はありがとうございました」


 吉田先生が帰るのをお母さんと二人で玄関で見送る。ドアが閉められたのを確認して、私は自室に戻った。

 吉田先生から手渡されたクリアファイルを机の上の棚にしまう。その拍子に隣に置かれた冊子に手が当たり、冊子は机の上に落ちた。


「あっ」


 慌てて拾い上げる。それは、凛太郎くんが小説を連載していた部誌だった。あれほど大切にして何度も読み返していたのに、凛太郎くんのことを思い出してしまうからと棚に仕舞い込んでその後一度も取り出してはいなかったものだ。

 棚に戻そうとして、ふと表紙に書かれた文字が目に入る。


【東高校 文芸部部誌】


 そうだ、なんで忘れてたんだろう。東高校って凛太郎くんが通っているところじゃないか。

 そう思ったその瞬間、天啓が降ってきた。

 私は部屋を飛び出し、廊下に固定されている電話に手をかけた。握りつぶしてしまったくしゃくしゃのメモに書かれた電話番号を見ながら、震える手でボタンを押していく。

 何度か続いたコール音が、まるで永遠のように感じた。私は焦っていた。早く出ろと何度念じただろうか。

 ぶつり、とやっと電話が繋がった音が聞こえた瞬間、私は叫んでいた。


「吉田先生! 私、東高校に行きたいです!」

「え、穂高さん?」


 電話の向こう側から吉田先生の驚いた声が聞こえる。それもそうだろう、ついさっき進路について聞かれた時は力なく首を横に振った生徒が勢いよく叫んでいるのだから。


「ええと、落ち着いて。穂高さんはどうして東高校に行きたいの?」


 吉田先生がそう疑問に思うのも当然だろう。私は答えに詰まって視線を彷徨わせた。

 けれども覚悟を決めて、口を開く。


「東高校に会いたい人がいるんです」


 東高校に行けば、また凛太郎くんに会えるかもしれない。

 それは突然目の前に現れた唯一の希望だった。

 そんな私の言葉を吉田先生は笑うでもなく否定するでもなく、「良い理由ね」と優しい声で肯定してくれた。


「じゃあ、勉強頑張らないとね」


 そして優しい声で厳しい現実を突きつけてくるのだった。


「そ、そうですね……」


 私は受話器を握りしめ、覚悟を決めて頷いた。

 東高校に行きたいとのだと言うと、お父さんもお母さんもとても驚いた顔をした。けれども不登校の娘が真剣に進路を考えているのが嬉しかったのか、二人とも私の意思を尊重してくれた。


「紡が行きたいところに行きなさい。私たちは応援するから」


 そう言って抱きしめてくれたお母さんを、そっと抱きしめ返す。


「それでね、塾に行きたいんだけど」


 それは先程の電話で吉田先生が提案してくれたことだった。

 小学四年生の時から家に引きこもっていた私は、同級生と比べると圧倒的に学力が低い。その差を埋めるために塾に通うのはどうか、というのが吉田先生の話だった。


「でも……」


 お父さんとお母さんが顔を見合わせる。

 二人の心配もわかる。私も正直怖い。けれども、凛太郎くんとの交流を通して、私は自分が少しずつ人と接することが怖くなってきたことを感じていた。世界には私のことを否定する人ばかりじゃないことを知った。信じられる人がいることを凛太郎くんが教えてくれた。

 だからこれは、変わるチャンスなんだと思う。


「お父さん、お母さん。私、頑張りたいの」


 真っ直ぐに見据える私の覚悟が伝わったのか、二人は「わかった。頑張りなさい」と頷いた。

 それから、私はお母さんに付き添われて幾つかの塾を見学した後、通う塾を決めた。その塾は個別指導で先生と生徒が一対一で授業をする形式を取っているらしく、私の記憶にある授業とは全く違うものだった。そのためか教室に足を踏み入れるときもそれほどトラウマが蘇ることはなかったし、先生ともつっかえながらも会話することができた。


「小学校四年生から学校に行ってないんです」


 先生とお母さんとの三者面談で恐る恐るそう言ったときも、先生は好意的だった。


「なら、二人で一緒にわからないところから順番にやっていきましょう。穂高さんは東高校に進学したいんですよね?」

「はい」

「大丈夫、あと一年あります。一緒に頑張りましょう」

「よろしくお願いします」


 そうして、私は塾に通い始めた。


「行ってきます」


 心配そうなお母さんの視線を背中に感じながら家を出る。庭に置かれた自転車に乗り、塾へと向かった。塾で使うための教科書やノートが入ったリュックは重く、肩紐が肩に食い込んでくる。

 小学四年生のテキストから勉強を始める。ブランクはあるものの元々勉強は好きだったので、それほど苦ではなかった。特に国語はよく本を読んでいたからか得意で、何日かすれば小テストで満点までは行かずとも良い点を取ることができた。

 けれども中学校の勉強に入ると途端につまづいた。

 このままでは間に合わない。私の同級生が三年間で学んできたことを、私は一年で習得しなくてはいけないのに。そう焦れば焦るほど余計に頭が追いつかなくて、小テストの点数はどんどん悪くなっていった。やっぱり私には無理なのかもしれない、という諦めのような気持ちが心を重くして、塾に通うのがだんだんと億劫になってきた。ただ、凛太郎くんに会いたい、という気持ちだけはどうしても諦めきれなくて、暗く先の見えない道のりをキラキラと照らしてくれた。その光がある限り、私は頑張れた。

 恋の力は偉大だ。何度挫けそうになっても、凛太郎くんの顔を思い出すだけで勇気がもらえる。凛太郎くんの声を思い出すだけで私を奮い立たせてくれるのだ。


 ある日のことだった。

 もうすっかり通い慣れた塾への道を歩いていると、突然肩を叩かれた。びくりと肩を震わせ勢いよく振り返る。そこには私と同い年くらいの少女がいた。耳の下で切りそろえられたショートの茶髪と日焼けした肌が活発な印象を与える。

 私に何か用だろうか。戸惑っていると、彼女が申し訳なさそうに眉を下げた。


「いきなりごめんね、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「えっ、なっ、なんですか」

「私、この近くにある塾を探してるんだけど、場所知らない?」


 そう言って見せられたチラシは、私が通っている塾のものだった。

 塾はビルの四階だ。この辺りには似たようなビルが立ち並んでいることもあり、私も何度か迷ってしまった覚えがある。彼女も同じなのだろう。

 私はリュックの肩紐を強く握りしめた。長い引きこもり生活はすっかり私を人見知りにしてしまって、知らない人と話すのは私にとってとても勇気がいることなのだ。一度落ち着くためにすう、と息を吸う。


「わ、私も同じところに行くから、一緒に行きますか?」


 その一言を発するのにどれほどの覚悟が必要だったか、きっと彼女にはわからないだろう。

 私の言葉を聞いた少女は目を丸くした後、「うん、よろしく!」と嬉しそうに笑った。

 二人で横並びになると、再び歩き始める。


「私の名前は伊藤菜摘。菜摘って呼んで。あなたは?」

「ほ、穂高紡です」

「紡ちゃんかあ。紡ちゃんは何年生?」

「中学三年生、です」

「わ、同じだ! どこ中学校?」

「第一中学校ってところ」

「えー私も! もしかしたら会ったことあるかもね。紡ちゃんは何組? 私は二組!」


 その質問に、私は返答に困った。自分が何組なのか覚えていなかったからだ。適当に答えようかと思ったけれど、中学校で会おうと言われてしまったらすぐにボロができるのでやめた。


「……私、中学校に行ってなくて」


 それを聞いてすぐに察したのだろう、菜摘ちゃんは驚いたように目を見開いて、「そっか」とだけ答えた。その短い返事からは菜摘ちゃんがどう受け止めたのかが伝わらなくて、思わず目を伏せる。すっかり会話が途絶えてしまって、気まずい空気だけが流れた。

 塾が入っているビルに着いた。エレベーターに乗り込み四階のボタンを押す。

 エレベーターの中に流れる沈黙を破ったのは、菜摘ちゃんの声だった。


「紡ちゃん、今日の授業って何時まで?」


 頭の中で時間割を広げる。


「ええと、七時までです」

「私もだ! ねえ、一緒に帰らない?」

「えっ」

「私、もっと紡ちゃんと仲良くなりたいな」


 ──変わりたい、と思ったのをふと思い出した。

 その明るい笑顔を見ていると緊張がほぐれていくような気がする。私がその申し出におずおずと頷くと、菜摘ちゃんは嬉しそうに笑った。

 凛太郎くん、と心の中で語りかける。

 私、久しぶりに友達ができそうだよ。


 私と菜摘ちゃんはあっという間に仲良くなっていった。

 菜摘ちゃんは中学校でバレー部に入っていたらしい。夏休みにあった地区大会で引退し、塾に通い始めたとか。部活に熱中して勉強が疎かだったという彼女は中学一年生の復習から取り組んでいて、それが私が勉強している範囲と同じだったこともよく話すきっかけになった。私は塾の授業がない日も菜摘ちゃんと二人で自習室やお互いの家で勉強するようになり、だんだんと調子を取り戻して小テストの点も上がっていった。

 それを聞いた吉田先生曰く、


「一緒にやる人がいることは心の支えになるし、切磋琢磨することでお互いに高め合うことができる。それに、たまに話すことはいい息抜きにもなるのかもね」


 ということらしい。

 その日も、私たちは菜摘ちゃんの家で勉強会を開いていた。


「うーん……」


 菜摘ちゃんの唸り声を聞くのはそれで実に三回目だった。塾で出された課題に向き合っていた私は、書く手を止めて隣の席に座る菜摘ちゃんに視線をやる。彼女は溶けたバターのように平たくなって机の上にべったりとしがみつき、微動だにしなかった。


「どうしたの。悩み事?」

「志望校が決まらないんだよ……」


 そう言って菜摘ちゃんが掲げたのは、真っ白な進路希望調査。そういえば、吉田先生が届けてくれた書類の中にそんなものもあった気がする。私の進路希望は東高校一択だから、あまり気にしていなかったのだ。


「紡ちゃんはもう書いた?」

「書いたよ」


 頷くと、菜摘ちゃんはショックを受けたように肩を落とした。その体がより一層溶けたような気がする。


「紡ちゃんはどこの高校が第一志望なの?」

「東高校だよ」

「東かあ、いいね。なんでそこにしたのか、参考までに聞いてもいい?」

「会いたい人がいるんだ」


 そんな私の言葉が予想外だったのか、菜摘ちゃんはぱちくりと目を丸くした後、ガバッと体を起こして顔を輝かせた。その表情に、私は逆に顔を顰める。これはあれだ、質問攻めされる空気だ。


「え、え、それって好きな人とか?」


 やっぱり。


「……うん、そうだよ」


 私はおずおずと頷いた。凛太郎くんのことが好きなのだと、誰かに言ったのは初めてかもしれない。東高校に会いたい人がいることは吉田先生にも言ったから、もしかしたら先生は勘づいているかもしれないけれど。

 恥ずかしくて顔に熱が集まっていくのがわかる。手でパタパタと仰いで少しでも熱を逃そうとするけれど、あまり効果はなかった。


「ねえ、どんな人なの?」


 突如舞い込んだ恋バナに目を輝かせはしゃいだ声をあげる菜摘ちゃんに苦笑する。先ほどまでべったり机とくっついていた人とは思えないくらい背筋が伸びているのだ、笑わずにはいられない。


「すごく優しい人だよ」

「高校生ってことは年上だよね?」

「うん。二歳年上」

「すごい、大人じゃん」


 私たち十代にとって、二歳差はとても大きい。さらに高校生ともなれば、中学生の私たちにとっては遥か遠くのような存在である。私の話を聞く菜摘ちゃんの表情は恋に憧れる少女そのものだった。


「高校生とどこで出会ったの?」

「凛太郎くんとは、図書館で出会ったんだ」


 思い出す。

 深く傷つき、物語を書くのをやめ、人と接するのを怖がり、家に篭っていた私。けれども凛太郎くんと出会ったことで、全てが変わった。


 部屋を出て図書館に通うようになった。


 再び物語を書き始めた。


 初めて恋をした。


 両親に物語を書いていることを胸を張って言えた。


 同じ高校に行きたくて勉強を始めた。


 友達もできた。


 この一つ一つが私にとってどれほど大きなことか。凛太郎くんはきっと、自分がどれほど私に影響を与えたのかわかっていないだろう。


「凛太郎くんは、私のことを変えてくれた恩人みたいな人だよ」

「ふふ、紡ちゃんは本当にその人のことが好きなんだね」

「うん、好きだよ。凛太郎くんに会えたら、まずはたくさんお礼を言いたいな」


 凛太郎くんに会えたら言いたいことはたくさんある。けれどもきっと、実際に会うことができたらそれらは全て頭から吹っ飛んでしまって、私は一言も発することができないだろう。なぜかそんな確信めいた予感があった。


「じゃあ、勉強頑張らないとね」


 菜摘ちゃんの容赦ない一言に、私は「吉田先生にも言われたよ、それ」と唇を尖らせた。


 高校受験当日は雲ひとつない青空だった。私は初めて中学校の制服に身を包み、一人受験会場である東高校を訪れていた。

 受験票に書かれた受験番号を何度も確かめながら、指定された教室に向かう。

 教室の扉は開かれていて、中にはもう何人か受験生が座っている。みんな参考書や英単語帳を開いて最後の確認をしているようで、真剣な目つきだった。空気がピリピリしているのがわかる。その空気に当てられて指先が強張った。

 ゴクリ、と息を飲む。あと一歩踏み出せば、教室に入る。その一歩が重かった。私にとって教室はトラウマの染み付いた場所であり、恐怖の対象だった。

 リュックの肩紐を握りしめる。リン、と鈴が鳴った。見ると、リュックにつけていたお守りの鈴が揺れたようだった。それは菜摘ちゃんと一緒に行った学業の神様がいる神社で買ったお守りだった。菜摘ちゃんとはお揃いのものだ。お参りに行った帰り道、「お互い頑張ろうね!」と笑った菜摘ちゃんの顔を思い出す。

 そうだ、私は頑張って、凛太郎くんに会うんだ。

 私はバッと顔を上げて、しっかりと前を見据えた。ひとつ深呼吸をして足を前に出す。

 一歩踏み出してしまえば、拍子抜けするほど簡単に指定された席まで歩いていくことができた。教室という空間にいることで嫌な思い出が蘇りはするものの、パニックになるほどではない。

 私はきちんと前を向けているのだと実感できて、嬉しかった。

 着席すると、周囲の受験生と同じようにリュックの中から参考書を取り出して最終確認を行う。

 しばらくすると試験官が教室に入室し、試験の注意事項を説明し始めた。

 参考書をリュックの中に直し、背筋を伸ばしてしっかりと前を見据える。

 机の上に裏向けられた問題の冊子と解答用紙が配られる。もはや教室内は沈黙に包まれていて、誰も彼もが緊張しているのが伝わってきた。鉛筆が床に落ちる音ですらここではよく響くだろう。

 その沈黙を破る、チャイムが鳴る。


「それでは始めてください」


 その声を合図に、私は解答用紙を表に引っくり返した。



 合格発表の日は、受験当日とは打って変わって大雨が降っていた。

 東高校の最寄り駅に向かう電車の中で、私は一言も喋らなかった。

 ただじっと、窓の外を見る。空を覆う厚い雲に日光は遮られて、昼だというのに窓の外は薄暗かった。受験日から合格発表までの一週間ずっと緊張していた私の心も、それにつられてどんどん落ち込んでいった。

 そんな私に付き添って一緒に来てくれたお母さんは、なにも言わずにそっと私に寄り添ってくれる。

 電車が最寄り駅に到着し、私は慎重に一歩を踏み出した。心の中はとうとう来てしまったという思いでいっぱいだった。

 今日、すべてが決まる。

 私のこの一年間の努力が報われたのか。

 私は再び凛太郎くんに会うことができるのか。

 どくどくと鼓動がうるさい。胸の奥は熱いのに指の先は冷え切っていて、少し震えていた。傘を差す手とは逆の手で隣を歩くお母さんの手を握ると、無言で握り返してくれた。その手のひらから柔らかな熱が伝わってきて、私の緊張をほぐしてくれた。

 東高校に来たのは受験当日以来だ。その校舎が目に飛び込んできた瞬間、私の緊張はピークに達した。

 正門をくぐり、所々に置かれた案内札を頼りに校舎沿いを進む。突き当たりを曲がると、そこには四台ほどの掲示板が並べて置かれていた。そこに大きな紙が貼り出されている。合格した受験生の番号だけが書かれている紙だ。

 震える手でポケットに入れていた受験票を取り出す。私の受験番号は三百三十番だ。

 慎重に、一つずつ、貼り出された紙に印刷された数字を目で追っていく。

 そして、その数字が目に入った瞬間、私の喉から「ひっ」と引き攣った声が出た。

 もう一度手元に視線を落とし、受験番号を確認する。顔を上げて紙を見る。その動作を何度繰り返しても、手元の数字と目の前の数字は一致している。


「紡ちゃん……!」


 感極まった様子のお母さんが私の肩を揺らしてきても、私はその場から微動だにすることができなかった。


「え、あ、え」


 何かを言おうとしても思考は溶けて、意味を持たない言葉がただ口から漏れ出る。

 ただ、涙が溢れて止まらなかった。


 合格発表から一週間後、吉田先生が家を訪ねてきた。

 いつものようにリビングに通された吉田先生と向かい合わせで座る。


「合格おめでとう、穂高さん。あなたの努力が報われて本当に良かった」

「ありがとうございます」


 感謝の念を込めて深々と頭を下げる。吉田先生には本当にお世話になった。


「穂高さん、今日は合格お祝いの他にも用件があるの」

「はい、なんでしょう」


 改めて吉田先生の顔を真っ直ぐに見つめると、吉田先生はカバンから透明なクリアファイルを取り出した。その中にはいくつか書類が入っている。


「今日は卒業式の話で来たの」


 卒業式。その単語に、私はびくりと体を強張らせた。

 もうすぐ卒業式だということは、菜摘ちゃんから聞いて知っていた。みんなで歌を合唱するために毎日練習をしているらしく、それを口ずさんでいるのもたまに見かける。けれども、結局中学校に一度も行くことのなかった私にとってそれはどこか他人事だった。

 でもそうか、私だって卒業するんだ。


「もし穂高さんが卒業式に来るなら学校は歓迎するし、もし来たくないのだったら後日個人的に卒業証書を渡すこともできるわ」

「出ないこともできるんですか?」

「もちろん、強制参加じゃないもの。こちらとしては、穂高さんの希望をできるだけ叶えたいのだけれど」


 私の希望。卒業式に出たいかどうかなんて考えたこともなかった。

 凛太郎くんや菜摘ちゃんに出会う前の、ずっと家に引きこもっていた私なら。きっと、即答で「行かない」と答えたはずだ。けれども私は変わった。

 それに、これはチャンスなのではないだろうか。トラウマを完全に乗り越えるための。


「ちょっと、考えてもいいですか」

「ええもちろん。決まったらまた電話ちょうだい」


 その後しばらく雑談を交わした後、吉田先生は帰宅することになった。ソファから立ち上がった吉田先生を玄関まで案内する。


「ああ、そうだ穂高さん」


 ドアを開けようとした吉田先生が、ふと思い出したように振り向いた。


「はい」

「会いたい人に会えるといいわね」


 そう言って微笑んだ吉田先生に、頬が染まるのがわかる。そうだ、吉田先生はそのことを知っていたのだった。


「はい。ありがとうございます」


 先生は微笑んで、そのまま帰っていった。

 その翌日。

 菜摘ちゃんも無事志望校に合格したということで、私たちは近くの喫茶店で二人でお祝いをする約束をしていた。塾の近くにある、美味しそうなパフェが何種類もウィンドウに並んでいる喫茶店だ。中学生のお小遣いではなかなかに敷居が高く、いつもは二人で店の外からウィンドウを眺めて美味しそうだねと言い合うだけだった。

 しかし今回は特別だ。何しろ合格祝いなのだから。ということで、私たちは今日初めて憧れの喫茶店に足を踏み入れたのだった。


「合格おめでとう!」

「おめでとう!」


 二人ともオレンジジュースを頼み、乾杯をする。ガラス同士がぶつかりカチンという軽い音が鳴った。

 ジュースを飲みながらパフェを待つまでの間に雑談を交わす。そんな中で、私はふと、菜摘ちゃんに相談があったのを思い出した。


「そういえば、菜摘ちゃんに相談があるんだけど」

「うん? 何、どうしたの」

「昨日吉田先生が家に来てね、卒業式どうする? って話をしたの」


 卒業式、という単語に菜摘ちゃんが目を瞬かせた。


「えっ、来るの?」

「うん、行こうと思ってる」


 そう、私は悩んだ結果、そんな結論を出した。学校へのトラウマを乗り越えるのは今しかないと思ったからだ。

 そんな私の言葉に、菜摘ちゃんは嬉しそうに顔を輝かせた。


「嬉しい! あのね、本当はずっと、紡ちゃんと一緒に中学校に行ってみたかったの」


 その言葉が本心だと分かっているから、私も「ありがとう。私もそう言ってもらえると嬉しい」と返した。それと同時に再認識する。やっぱり菜摘ちゃんに相談してよかったと。


「相談ってそれ?」

「そう。あのね、卒業式に一緒に来て欲しいの」


 覚悟は決めた。勇気も振り絞った。それでも、不安はある。だから菜摘ちゃんにそばにいてほしかった。菜摘ちゃんがいれば大丈夫だという安心があるから。

 そんな私に、菜摘ちゃんは「もちろん」とにっこり笑った。彼女はやはり、頼りになる友人なのだった。


 卒業式当日は雲ひとつない快晴で、絶好の卒業式日和だった。

 緊張して朝早くに起きてしまった私は、そっと壁にかかった制服に視線をやる。中学校に入学した時に買ってもらったものの、まだ高校受験当日の一度しか袖を通したことがないものだった。けれども今日はようやくこれを着て中学校に行くのだ。制服も待ちくたびれたことだろう。

 洗面所で顔を洗い、髪型を整え、部屋に戻って制服に袖を通す。全身鏡の前で何度も変なところはないか確認すると、私はリビングに向かった。


「おはよう」


 すでにキッチンで朝食の準備をしているお母さんにそう声をかけると、お母さんは料理の手を止めてくるりと振り返った。そして制服を着た私を見て、感動したように微笑む。


「おはよう、紡。制服よく似合ってるわ」

「ありがとう、お母さん」


 後から身支度を済ませてリビングに現れたお父さんも、私の制服姿を見て「よく似合ってるじゃないか」と褒めてくれた。

 私が卒業式に出ると決めたとき、二人は「紡の好きにしなさい」と言った。一見放任主義のようにもとられるその言葉が私の意見を尊重してのものだということは今までの経験からよく分かっている。東高校に進学したいと言った時も、塾に行くと決めた時も、二人は同じように私の後押しをしてくれた。きっと、私が卒業式に出ないと言った場合でも同じように言ってくれただろう。

 私が不登校になってからずっと、両親は見守ってくれていた。それに気づけたのも凛太郎くんのおかげだ。

 三人で向かい合って朝食を取り、食べ終わって制服をもう一度確認しているとインターフォンが鳴った。


「菜摘ちゃんだ」


 用意していた通学カバンを肩にかけ、玄関へと向かう。ドアを開けるとそこには予想通り菜摘ちゃんが立っていた。出会った時はショートだった髪はすっかり肩まで伸び、卒業式のために巻いたのかくるりとウェーブを描いている。


「紡ちゃん、おはよう!」

「おはよう、菜摘ちゃん」


 制服を着て立つ菜摘ちゃんを見ると改めて今から学校に行くのだという実感が込み上げて、私はそわそわとスカートの裾をいじった。三年間着た菜摘ちゃんの制服とは違いしっかりとプリーツがついたスカートは私服と比べると丈が短くて、ひどく落ち着かない。


「じゃあ、いってきます」


 玄関で見送ってくれる両親に手を振ると、二人とも感慨深そうに手を振り返してくれた。お父さんもお母さんも卒業式に出席するので後でまた会うのだけれど、すでにお母さんの目元には涙が滲んでいたから、思わず苦笑してしまった。本番ではきっと大号泣だろう。

 中学校までの道は覚えていないので、菜摘ちゃんに教えてもらいながら向かう。十分ほどで着いた正門の前には卒業式の立て看板が立っていた。

 入り口で胸元に花をつけてもらい、教室に向かう。三年二組と書かれたプレートの教室に足を踏み入れると、もうほとんどの生徒が集まっていた。思わず姿を隠すようにして菜摘ちゃんの後ろに回る。


「菜摘、おはよう」

「おはよ!」

「髪巻いたの? かわいい」

「ありがとう! そっちも編み込みしてるじゃん、いいね」


 菜摘ちゃんの明るい性格から友達が多いんだろうなと予想はしていたけれど、あっという間に女子生徒に囲まれて私は目を白黒させた。そのうちの一人が菜摘ちゃんの後ろに隠れる私に気づき、顔を覗き込む。


「あなたが紡ちゃん?」


 予想外の言葉に目を丸くしながら、私は小さく頷いた。


「そ、そうだけど」

「やっぱり! 菜摘ちゃんがよくあなたの話をしてるのよ」

「えっ? どんな話?」

「読書が好きだとか、数学が苦手だとか、一緒にカフェに行ったとか。卒業式に来るんだって聞いて、会うのを楽しみにしてたの」

「私も! 一度会ってみたかったんだ。あのね、私と紡ちゃんって出席番号順だと席が隣同士なの。だからどんな子なのかなってずっと気になってたんだ」

「そ、そうなんだ。ありがとう、嬉しい」


 矢継ぎ早に飛び出す言葉に順番に返事をしながら、私は類は友を呼ぶということわざを実感していた。初対面のときの菜摘ちゃんもこんな感じだったなを思い返し、懐かしい気持ちになる。

 そうこうしているうちに吉田先生が教室に入ってきた。途端に騒がしかった生徒たちは静まり自身の席につく。私は自分の席が分からないので戸惑いながら周囲を見回していると、先ほど隣の席だと言っていた女の子が「ここだよ」と手を振ってくれた。


「ありがとう」


 小声でお礼を言いながら席につく。前を向くと、教壇に立つ吉田先生と目があった。すると吉田先生が嬉しそうに目を細めるので、私もつられて笑い返す。

 その後吉田先生が二、三分話をし、クラス全員で列になって体育館に向かうことになった。

 卒業式はつつがなく行われた。今日が初めての登校となった私だけれど、菜摘ちゃんが卒業式の合唱の練習や賞状受け取りの練習に付き合ってくれていたためなんとか無事終えることができた。花道を歩く際に保護者席を見渡していると予想通り号泣しているお母さんが目に入り苦笑する。

 卒業式が終わると、もう一度教室に戻り、そのまま解散となる。ほとんどの生徒が友達や家族、先生と写真を撮るためにグラウンドに出るので、私も菜摘ちゃんとその友達について行くようにしてグラウンドに出た。

 お父さんとお母さんはどこにいるだろう。グラウンド内を歩きながらその姿を探していると、集まって写真を撮る生徒の中に、小学校時代に私が物語を書いていることをからかった男子生徒の姿を見つけた。私は思わず立ち止まり、その横顔を凝視した。前に図書館で見かけた時はパニックになったけれど、今はそれほど狼狽えずにすんだ。

 視線に気づいたのか、彼がこちらを向いた。目が合うと、向こうも私の正体に気づいたのか目を見開いたのがわかる。


「穂高」


 声変わりをしたのか、その声は聞き覚えのあるものよりも低くなっていた。私の記憶の中で何度も繰り返された悪夢とは違う声だ。だからだろうか、その声を聞いても私はパニックを起こすことはなかった。


「……久しぶり」


 そう穏やかに返すことだってできたのだ。

 彼は私が逃げずに言葉を返したことにホッとしたようで、強張っていた顔が少し解れたのがわかった。


「卒業式、来たんだ」

「うん。記念だしね」

「そっか。……あのさ、俺、穂高にずっと謝りたくて」


 話ながらもずっと視線を彷徨わせていた彼が、意を決したように真っ直ぐに私を見た。自然と背筋が伸びる。

 どくどくと鼓動が早まる。スカートの裾を握りしめると、一度大きく深呼吸をした。今私たちはあれほど人が溢れかえっていたグラウンドにいるはずなのに、まるで二人だけの世界に隔離されたようだった。彼の声と、私の鼓動。それ以外何も聞こえない。

 その目を見つめ返すと、彼はそっと口を開いた。


「あの時、お前が書いてた物語のこと、からかってごめん」


 ──ああ。

 手のひらが、体が、そして心が、ぶるりと震えたのが分かった。その震えをどんな感情が引き起こしたのかはよく分からない。それでも、あの時のような絶望ではないのは確かだった。

 心の中に涼やかな風が吹いて、その中に立つ少女が抱える破れたノートのページが風に乗って飛んでいった。


「あの後、穂高が学校に来なくなっただろ。それで俺、お前のこと傷つけたんじゃないかってずっと気になってた。ずっと謝りたかった。今更何言ってんだって思われるかもしれない。でもどうしても言いたかったんだ。本当に、ごめん」


 そう言って、彼は深く頭を下げた。そのつむじを見下ろしている私はとても穏やかな気持ちだった。自分でも驚くぐらいだ。


「いいよ」


 その言葉は自然と口からこぼれ落ちた。

 ゆっくりと顔を上げた彼は、「ありがとう」と微笑んだ。その顔は安堵しているようで、私と同じように彼にとってもあの日の出来事はずっと心の中に重くのしかかっていたのだろうと感じる。


「今も物語は書いてる?」

「書いてるよ」

「そっか」


 嬉しそうに笑う彼に、私も笑い返す。私と彼は、あの事件が起こるまでは決して仲は悪くなかったのだ。四年越しの仲直りを経て再び友達になれたような気分だった。


「どこの高校に進学するの?」

「東高校だよ」

「本当⁉︎ じゃあ一緒だね」


 なんて運命だろう。驚いた私は、ふとあることを思いついた。


「私ね、東高校で文芸部に入部する予定なの。入部したらそこの部誌に私が書いた物語を連載するから、読んで感想をちょうだい」

「えっ」

「約束ね」


 指切りをしようと小指を差し出すと、彼もおずおずと小指を絡め合わせた。指切り拳万、と歌って約束をする。


「じゃあまた高校で」

「うん。またね」


 そう言って手を振りながら去っていった彼に手を振りかえす。すると、入れ替わりのようにして菜摘ちゃんがやってきた。


「菜摘ちゃん」


 確か同じ部活のメンバーに誘われて集合写真を撮っていたはずだ。流石にそこにまでお邪魔するわけにはいかないから、と私は菜摘ちゃんと別行動をとっていたのだった。


「さっき彼と話してたでしょ。どうだった?」


 心配そうに眉を顰める菜摘ちゃんに、見ていたのかと思う。それと同時に菜摘ちゃんには私が不登校になった原因の事件の話はしていたのを思い出した。明確に相手が誰だったのかまでは言っていなかったけれど、私たちの間に流れる雰囲気で察したのだろう。察して、見守ってくれていたのだろう。私は本当に友達に恵まれた。


「仲直りしたよ」

「そっか、よかったね」

「うん。本当に、卒業式に来てよかった。ありがとう」


 そう言うと、菜摘ちゃんは嬉しそうに笑った。

 心は未だかつてないほどに晴れやかで、ここに凛太郎くんがいれば完璧だったのにな、と思わずにはいられなかった。

 けれども、凛太郎くんに会いたいと焦がれるのももうおしまいだ。

 来月には、私は東高校に入学するのだから。


 そして四月になり、無事東高校に入学した私は、一人で文芸部の部室にいた。

 手元にある冊子を見つめる。懐かしい文芸部の部誌だ。


「穂高紡です。趣味は物語を読むことと書くこと。文芸部に入ります」


 入学初日の自己紹介でそう宣言した私は、その宣言通り文芸部に入部した。

 部誌の一ページ目を捲ると、目次の欄に穂高紡の文字が印刷されている。それと共に書かれた物語のタイトルは、ムーンライト。

 それは、凛太郎くんが連載していた物語の続きだった。入学前から決めていたのだ、私がこれを完結させると。そして凛太郎くんからもらった書きかけの原稿や今までの部誌を何度も読んで物語の続きを書いた。

 この物語をあのまま終わらせたくなかったのだ。

 海が青い理由を調べるために図書館に向かった空とかぐや。そこで二人は海が青く見える原理を知り、かぐやは同じ原理で見ることのできる虹を見てみたいと新たな夢を抱いた。そんな中、空は図鑑から目を離せない。昔大好きだったもの、成長していくうちに失ってしまった将来の夢。それを思い出したのだ。

 その後、月からかぐやの兄がかぐやを迎えにやってくる。抵抗した二人だが、空を人質に取られたかぐやは月へ帰ることを決める。

「いつか私に会いに来て」

 そう言い残して。

 そのまま意識を失った空が次に目を覚ました時、かぐやはもうおらず、空は一人砂浜に寝そべっていた。その後街に戻った空は、宇宙飛行士を目指して勉強を始める。

 そうして、夢を叶えた空は月までかぐやに会いにいくのだ。

 部誌に掲載された物語は、再開した二人がハグしたところで終わっている。けれども私は一番最後の行に完とつけなかった。彼らの物語はこれからも続いていくからだ。

 部誌を読み返していた私は、ガラリと部室の扉が開く音がして顔をあげた。部員の誰かだろうか。

 しかし、そこにいたのは予想外の、しかし私が待ち望んだ人物だった。


「紡、ちゃん」


 懐かしい、その声音。その声で名前を呼ばれるのは随分久しぶりだった。

 私は弾かれたように立ち上がった。その勢いで椅子が倒れたが、構ってはいられない。そのまま駆け出すと、私は勢いよく凛太郎くんに飛びついた。


「凛太郎くん!」


 また会えたなら言いたいことがたくさんあった。けれどもそのどれもが言葉にならず、嗚咽に混じって消えていく。


「会いた、かった……!」


 凛太郎くんを力強く抱きしめ、そのまま大声で泣き出した私の背中に、凛太郎くんはそっと手を回した。


「紡ちゃん、どうして」


 混乱したような凛太郎くんは、走ってきたのか息が切れていた。額に汗が滲んでいる。手元を見ると、強い力で握り締められたのだろう、くしゃくしゃになった部誌があった。

 それは私の賭けが勝ったことを意味していた。

 本当なら、入学したその日に三年生の教室に行きたかった。けれども怖かった。もし凛太郎くんが私に会いたくなかったならどうしようと、今更ながらに気づいたのだ。今までは凛太郎くんに会いたいその一心で突っ走ってきた私だが、実際に東高校入学という目標が叶ってしまったことでようやく現実を直視した。凛太郎くんにとって私は二年前に一年間ほど仲良くしていただけの中学生で、ただの過去の人だ。もしかしたら覚えていない可能性だってある。

 その可能性に気づいてしまったら、凛太郎くんに会いにいくのを躊躇ってしまった。

 だから、会いに来て欲しかった。凛太郎くんも私のことを覚えていると、会いたいと思ってくれていると信じたかった。

 だって好きなんだもの。臆病になるのは仕方ない。

 そして私は賭けに出た。凛太郎くんの書いていた物語の続きを書いて部誌に乗せた時、原案・高柳凛太郎、執筆・穂高紡の文字と表記したのだ。もし凛太郎くんがこれを読んだら、すぐに私がこの高校に入学したことに気づくだろうという考えだった。

 そうして私は賭けに勝ち、凛太郎くんは私に会いにきてくれた。


「凛太郎くんにどうしても伝えたいことがあって、ここに来たの」


 涙で視界が潤んで、せっかくの凛太郎くんの顔が滲んで見える。私が涙を拭うと、クリアになった視界でしっかりと凛太郎くんを見つめた。

 凛太郎くんはあの日、物語はこれで終わりだと言った。けれども違う。物語はずっと続いていく。夢を持っていなかった空は夢を見つけ、努力してそれを叶える。私も凛太郎くんにもう一度会うという目標を持ち、努力してここに来た。


「凛太郎くん、私、あなたのことが好きです」


 私たち二人の物語は終わらない。ずっと、続いていく。


                                完

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物語は続く @inori0906

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