(仮題)灰青巡礼記

@TriggerHappyTK

星海原/オラリオ/フリュム

灰青巡礼記


◆ Ⅰ 星海原・列車内


 乗った覚えのない列車に身体を揺られて目を覚ます。

 僕はボックス席の窓側に座っていて、夜だった。が、窓外は夜とは思えないほど明るい。夜空に燦然と輝く星の光が、地上を──否、一面の水面を淡い光で照らしているのだ。月が出ていないせいで星々の明かりは一層顕著であり、海原の穏やかなうねりがその光を水面の上で踊らせた。海原からは朽ちた遺跡のようなものが突き出ていて、それが廃墟の成れの果てなのだと理解するのにそう時間は掛からなかった。

 ガタンゴトンと音を立てながら列車は進んでいく。

 やがて列車はトンネルに入っていった。ハロゲン灯が等間隔で後ろに流れていくのを、未だに寝起きの微睡から覚めない意識で追っていく。

 それにしても、自分がいま座っているシート、つり革、荷物棚、内装に至る何もかもに見覚えがないのは妙だった。列車に乗ったことは覚えているし、その理由もぼんやりとは覚えている。しかし、この列車の内装だけはどうも見覚えがない。

 やがて、車内のスピーカーから砂嵐のようなノイズが走った。それから乗務員と思わしき無機質な男の声がアナウンスで流れる。

『次は秘境駅。終点です』

 これ以上ないほど簡潔なアナウンスだった。

 しかし……いったい自分はどこに来てしまったのだろう。

 列車がトンネルを抜けた。

 改めて外を見る。依然、窓外には夜空と一面の海原が広がっている。星々の光を反射した海の水面はスワロフスキーを浮かべたように輝き──反対側の窓を見た──空と海の水平線の黒色が溶け合うその地点では、まるで炎のようなオレンジ色の光が瞬くように爆ぜたり、それが収縮したりを繰り返している。それは爆発のようにも見えたし、花火のように光が踊っているだけのようにも見えた。それは途切れることはなくとも、一定のタイミングで弱まったり強くなったりしていて規則性は認められない。それが一体何なのか、検討も付かなかった。ずっと向こうには、海原から突き出た廃墟群よりもずっと背の高いビル群が見えた。それは柱を幾重にも寄せ集めて作られた塔のようで、その巨大な塔の群からは一本の巨大な白亜の塔が燐光を放ちながら空へ伸びている。余りにも大きすぎるそれは、夜空に呑まれて先端が見えない程だった。

 窓外の景色に呆気を取られ──列車のすぐ脇で数匹の魚が銀色の光を反射して跳ねた。

 今、何時だろうか。

 腕時計を見ると秒針が止まっていた。携帯電話は──そうだ。捨ててしまった。車内にも時刻を知らせてくれるようなものはない。他に僕が持っているのは、茶色い革製の肩掛け鞄とその中身──イムコのターボライター、煙草、懐中電灯、楽譜、サバイバルナイフ、お気に入りの本一冊、現金──これだけだ。現金は全部で十万円近くあって、楽譜と本を除けば全て親の部屋から無断で持ち出してきたものばかりだった。無論、返す気もない。そして、その中に正確な時刻を知らせてくれそうなものは一つもなかった。

 そういえば、何か大事なことを忘れている。

 そうだ。彼女だ。

 彼女はどこへ行ったのだろう。

「──あ、目、覚めたんだ」その時、僕の背後で声がした。

 振り向くと、長い黒髪をした少女がそこに立っている。腕捲りしたコットンの白いボタンダウンシャツをルーズな青いタイで締めた、白いロングのフレアスカート姿。「ずっと寝てるから暇だったんだよ」

「サヤ」と僕は同級生である彼女の名前を呼ぶ。「ここは……」

「私にも分からない」彼女はさも困った様子もなしに明るく言った。「ねえ、ここは本当にどこなんだろう? 確か、私たちは旅をしていて、それから……」

 ああ、そうだ。僕たちは旅をしていた。理不尽な現実から逃避する為に親の部屋から金品を盗み、何もかもを捨てるつもりで家を飛び出してきた。幸い、僕たちは誰にも咎められることもなくここまでやってきたわけだ。もちろん、学校や両親は既に警察に連絡しているのだろうが、僕たちはまだ捕まるわけにはいかない。そして──たぶん──その果てに辿り着いたのがこの列車で、僕たちは未だなお旅を続けている。どことも知れない最終地点を目指しながら。

「サヤも目覚めたらここにいたの?」

「そう。いくら呼んでも君は起きないし、この列車の中を歩いてたんだ」

「それで、なにか分かった?」

 彼女は首を横に振った。「この列車に私たち以外の人が乗っていないことが分かっただけ」

 僕たちは互いに顔を見合わせ、眉を顰めた。

「誘拐?」とサヤが言う。

「いや……」子供二人を攫うのにこれほど大きな舞台装置はないだろう。他にも僕たちのような子供が大勢いるのなら理解もできるが……。

 うんうんと唸りながら、ふいに「記憶喪失」という単語が頭を過る。

 漫画や小説で読むのとは明らかに毛色は違ったが、彼女は「記憶喪失」という響きが気に入ったようで、この奇妙な状況は、どうやら僕たちが記憶喪失だからなのだ、という結論でいったん決着が付いた。ここに至るまでの経緯はあったはずで、どうやら僕たちはそれを忘れてしまったらしい──というのは最もな筋書きであるように思えたので、僕も一先ず納得した。

 なんにせよ、これは一方通行の旅なのだ。

 ここがどこで、列車がどこに向かっているかなんて関係ない。旅はまだ続いている。誰にも捕まらず、引き戻されることもなく──それだけが重要だ。

 やがて、先刻と同じく車内のスピーカーから砂嵐のようなノイズが走った。

『まもなくオラリオ。オラリオ。終点です。お乗りのお客様はここでお降りください』

 先刻と同じ無機質な男の声がこの列車の終着点を告げる。窓の外を見れば、小さく、鄙びたプラットフォームが迫って来ていた。

 軋みを上げ、速度を落とす列車。

 長い髪と共に身体を揺られて彼女が言う。「ま、降りてみればなんとかなるよ。きっと」


◆ Ⅱ トゥーレ市・駅舎


 列車を降りて真っ先に感じたのは生温いそよ風だった。それから波が砕ける音。ついで海鳥がどこか遠くで劈くように鳴いた。吹く風が僕たちの髪を靡かせ、無形の櫛を入れて去っていく。

 車窓から見た通り、廃墟のように寂れた駅だった。

プラットホームには屋根も柵もなかった。クラックだらけのコンクリートの足元と、駅名の記された錆びた琺瑯看板が一つあるだけだ。僅かな窪みの潮だまりには磯巾着やフジツボが住み着いている。駅舎は明かりこそ灯っているものの、見た目はまるで廃屋といった様相だった。割れて鉄筋が所々で剥き出しになったコンクリートの壁を浸食した葛が、その傷だらけの壁ごと全てを覆いつくさんとばかりに蔓を伸ばしていたし、窓のガラスはほとんどが割れているか、ガムテープで補修されていた。しかし、建物の意匠は小さいながらも大したものだった。そのおかげか、廃墟同然であっても駅舎はその体裁を依然保ったままでいる。

 僕たちの乗って来た列車が、ガタンゴトンという音と共に向こう側へと走り去っていった。車庫へ向かうのだろうか。あるいは逆側に走るために先頭車両をターンテーブルに戻しに行ったのかもしれない。

 列車が去った後のプラットホームは、まるで孤島のようだ。

 僕たちを乗せた列車のやってきた線路を振り返る。真っすぐに地平線の向こうまで伸びた線路は半ば水没していた。もう少し潮位が上がれば、この駅も周囲の都市と同じく水没してしまうのではないだろうか。

「なんか、思ったよりもすごい場所に来ちゃったね」とサヤが言う。「でも、ねえ。こんなにワクワクするのって初めてかも──さすがに、ここまでは誰も追いかけてはこないだろうし」

「確かに」苦笑して答える。当の僕たちだって、ここまでどうやって来たか分からないのだ。

 もう人目や行動する時間帯を気にして逃げるのにはうんざりだった。ここからは自由だ。まだ着いて間もない未知の土地で、僕たちはこれから始まる旅路を思って心躍らせた。

「行けるところまで行ってみようよ」弾んだ声の彼女が言って、僕は頷いた。

 これからのことも全く想像がつかないままに、僕たちはプラットホームを出て駅舎に向かう。


駅舎の改札には異形の──黒電話の頭をした駅員がいた。

 駅員はプラットホームから出てきた僕たちを認め、こちらを向いた。

 黒電話の頭に、シャツまで黒い制服。黒い手袋。鄙びた辺境の駅にあってその存在は異質だった。まるで古びた屋敷の中に、それだけ新しい調度品があるかのようだ。

「これはこれは、旅のお方。ようこそ秘境の駅──オラリオへ」駅員は胸に手を当て一揖し、駅員室の向こうからそう言った。

「どこから声が出ているんだろう……」僕にだけ聞こえるようにサヤが呟く。

「さあ……」僕も小声で答えた。どうみても被り物の類いではない。

「お客様、どのようなご用向きでこちらへ?」

「私たち、旅をしているの」とサヤが言う。

「旅ですか」駅員が頷く。「いいですね──とはいえ、私はここから出ることができないので、それがどんなものなのか私にはわかりかねますが」

 出られない──それほどここの業務は忙しいのだろうか。

 尋ねてみると、駅員はあっさりとそれを否定した。「ここへお客様が訪ねてくることはほんとうに稀で、百年に一名いらっしゃれば多いほうですね。出られないというのは単に、私はここを離れて動くことができないのです」

 電話の頭だとそういうこともあるのだろうか。僕はそれ以上深く追求することを止めた。それより「百年に一度」という言葉の方が気になって仕方がなかった。駅の様子を思い出し、通りでと思う反面、様々な疑問が浮かび上がった。しかし、そんな些末なことをこの場で一々言い出せばキリがなくなってしまいそうだった。異形の駅員然り──物の尺度を図る定規がここでは通じないのだということを、早々に理解させられた。

「ほかの人たちはどんな理由でここへ来るんですか?」

「世界の果てへ旅しに来た方、失くしてしまった螺子巻きを探しに来た方、ここの廃墟群を終の棲家にしようとやってきた方、数百年前にここに住んでいたという方、ほかにも世界の構造を取り出しにやってきた数理学者や哲学者、自分で海に流したメッセージボトルの誤字を訂正しに来た方、神を探しに来たという方もいました」

 まるで御伽噺だった。

「退屈しないの?」

「退屈ですよ」そう言った駅員の声はゾッとするほど冷たい。「気を抜くと私という存在──精神がどういうものだったのか、分からなくなります」乾ききった骸のようなその声には、隠しきれない狂気が滲んでいる。「刺激や娯楽といえばこうしてここへやってきたお客様方のお話だけなのです。貴方たちはなぜ旅をしているのですか?」

「それは……」答えたくない質問だ。わざわざ他人の娯楽の為に、僕たちの抱える傷を声に出して説明したくなかった。サヤも同じように黙していた。だから、僕はなるべく抽象的にして答えるようにした。百年に一人訪れれば多い方だというこの場所に、情報を聞き出せる誰かがこの先にいるとは限らない。なるべく、この場所を知っておく必要が今の僕たちにはあった。「嫌なことから逃げて来たんです。その果てに着いた場所が……ここだったんです」

「差し支えなければ、詳しく伺っても?」

「すみません。これ以上は話したくないんです」

「……そうですか」駅員は深いため息を吐き、ひどく落胆した様子でそう言った。「ええ、実に残念です」却って芝居のように感じるほどに露骨な態度だ。

「そういえば」これ以上この駅員とやり取りしたくはなかったが、僕は会話を続けた。「電車に乗っているときに向こう側でオレンジ色の光が炸裂しているのが見えたのですが、あれは……?」

「戦争ですよ」駅員が言った。

「戦争」

「ええ」駅員が頷く。それ以外に何があるのだとでも言うように。

「何と戦っているんですか?」

「わかりません。なにせこの世界が創造された日から行われていると言われる戦争です。誰がなんの目的で、何と戦っているのか、今では気に掛ける方もおりませんし、あの場所は聖域とされていて、我々は立ち入りを禁じられているのです」

 本当に、ここはいったいどこなのだろうか。

 僕は地理に強い方ではないが。こんな場所は見たこともなければ聞いたこともない。この駅員の風体からして、あまりにもここは僕たちの知っている現実からかけ離れていた。本当にここは現実なのだろうか。疑う一方で、冴えた五感はこれが夢や幻の類でないことをこれ以上ないほどに証明している。ゲームで言うところの裏世界や秘境という表現がこの場所には似つかわしく感じる。突飛ではあるが、夢や幻と言われるよりかはそちらのほうが受け入れやすい。あるいは、パラレルワールドだろうか。なんにせよ、推測は稚拙な妄想の域を出ない。

「ねえ駅員さん。地図はないの?」

「ありますよ。辺り一帯が水に沈んでしまったので、月夜に提灯ですが……少々お待ちください」言って、駅員が席を外す。暫くして駅員は古びた三つ折りの青図を駅員室と改札の間のカウンターに広げた。それは駅周辺の簡易的な地図だった。「ここが『オラリオ』ですね」

 駅員の指さした場所には確かに『オラリオ』と記されていた。地図によればここは『トゥーレ市』なる都市の一角らしい。が、僕もサヤも知らない地名だった。それに、駅員の言った通りそれら全ては水に沈んでしまっていて地図は役に立たない。いや、一つだけまだ水に沈んでいない場所があった。「駅員さん。ずっと向こうの方にまだ沈んでいない建物がありましたけど、あれは?」

「フリュムですね」駅員が地図の一点を指さした。「千年以上前に築かれた、高さ一キロメートル・合計百二十五ものコンドミニアムやコナプトの複合棟による、トゥーレ市属の超巨大型のアーコロジーです。水没が始まってからは、市民の避難所になっていて『方舟』と呼ばれていた記録もあります」

「そこに行く方法はあるんですか?」

「ここから行くには、無人の海中列車が改札外の地下から出ていますので、それに乗るしか方法はないですね。とはいえ、輸送用の列車でなので快適とは言い難いですが」

「でも、行ける場所って言ったらそこしかないんだよね?」

「そうですね。他は全て水の中に沈んでいますから──そちらへ向かうようでしたら、十五分後にフリュム行の便を確保しておきますが」

「よろしくお願いします」

「いえ、仕事ですから」言って、駅員は慇懃に言って一揖した。

「そういえば、切符ってどうしたんだっけ」

 確かに、ここまで来たのだから乗車券の類は持っているはずだ。

 鞄を開いてパスケースを取り出すと、表裏が真っ黒の磁気乗車券が出て来た。それは切符とは思えない程しっかりしており、大きさも定期券ほどはある。よく見てみれば、光の加減で幾何学的な模様が虹色になって淡く輝いていた。

 これが、切符なのだろうか。僕の知識にあるのとは随分異なっているが……ともあれ、僕が現在持っているのはこの黒い紙だけだった。横を見ると、サヤも同じものを持っていたらしい。

 僕たちはその紙を駅員に渡して見せた。

 駅員は受け取った切符を見て、少し驚いた様子を見せた。

「これは……三次空間の方からお持ちになったのですか?」

「わかりません――なにか特別なものなんですか?」

「ええ。とても」駅員は頷いて、その切符を回収するでもなく、貴重品を手渡すようにして僕たちに返した。「駅員としてここで幾星霜もの時間を過ごしましたが、私も実物を見るのは初めてです。この切符があればこの世界のどこにでもいけます。あるいは、神様のところにだって行けるかも知れません」

「神……」それは、どこにだって行けるということの比喩なのか。

「ええ」しかし、駅員はごく真面目な声音で頷いた。「貴方がたは、何か特別な祝福を受けているのでしょうね」

「──まさか」少女が自嘲するように口元を歪ませ、駅員の言葉を唾棄する。彼女の中に蜷局を巻く真っ黒な闇が、その冷たい双眸の奥で激しく渦巻くのが見えた。「神とか祝福とか……そんなものあるわけないじゃん。ねえ?」

「……そう、ですか」一種異様な彼女の変わりように、駅員が狼狽の様子を見せる。

「とにかく、行きます」僕が言う。

「ええ」彼は頷き、胸に手を当てて慇懃に腰を折った。「貴方たちの旅路が良いものであるよう」

「ありがとうございました」

「お気をつけて」そう言う駅員に、すっかりいつもの調子に戻ったサヤが手を振る。「バイバイ、駅員さん」

 そうして僕たちは改札を出て、駅舎を後にした。


 まるで孤島のようだと駅舎を出て改めて実感した。

 駅の全貌はこうだ。まず、僕たちが乗ってきた列車の線路沿いに短冊形のプラットホームがある。駅舎はプラットホームの長手方向に密接しており、駅舎を抜けるとプラットホームより少しだけ広い空間に出る。とはいえ、まるで堤防の上に立っているようにその場所は狭く、周囲には海が広がっているばかりだ。駅員に見せてもらった地図に記されていた地名や建物は、フリュムというアーコロジー以外すべて水の中に沈んでいた。

 堤防の下を覗き込んでみる。淡い青をした水は空気よりも澄んでいて、障害物がない限りずっと下の様子まで見ることができた。見たこともないような色や形をした磯巾着や珊瑚、アスターやスターチス、エリカ、シラーやカンパニュラの花が水に沈んだ都市の残骸に根付いて──果たして、水中にこれらの花が根付くのかどうかという疑問はあったが──美しい花弁を開かせ、淡く発光している。そして、その隙間を縞模様をした魚や海蜘蛛や蝦が忙しなく動き回っていた。

「綺麗だね」海を覗き込む僕の隣で、同じようにしゃがみこんだサヤが言う。

「うん」僕は海を覗き込んだまま目を逸らせずにいる。夢を胡蝶のように渡って、綺麗で透き通った欠片を集めれば、こんな世界になるのかも知れない。この景色をレジンで固めて切り取ることができれば、きっとそれはどんな宝石よりも美しいだろうと思う。

 その時、フリュムを背に、鯨が跳ねて水面に身体を打ち付けた。その飛沫が星々の光を受けて輝きながら舞う。まるで月の鱗粉のように。幻想的な光景だった。

「知ってる? 鯨って歌を唄うの」

「知ってる」昔、気になって調べたことがあった。歌というよりも僕には鳴き声に聞こえたのだが、どうやらそれは一定の音階とリズムという秩序の下に成り立っているものだという話だった。それでも、海の中で聴けばそれは美しいものなのだろうなという思いはある。ただ、僕は海洋恐怖症のきらいがあって、実際に海に潜ることはできそうになかったが。

 もっと見ていたかったが、発車時刻のこともある。僕たちはそろそろと駅から地下へ続く階段を下りた。

 地下には幅員のある通路が伸びていた。くすんだ銀色をした金属質の壁と天井、剥げたり罅割れたりしている白いタイル。白い光を放つダウンライトが、機械的な、温かみのない無機質な通路に僕とサヤの影を落としている。様子からして、もう長いこと人の手が入っていないことは明らかだ。しかし駅員によると、ここに人が居たのは少なくとも千年前だ。だというのに、俄かには信じられないが、この場所は依然として過去の風体を優に保っていた。普通なら、もっと致命的に風化しているはずだし、ライトだって灯っていないだろう。外で見たフリュムというアーコロジーもそうだが、この都市を築き上げた人々の技術というのが如何に異様だったのかということが分かる。それとも、誰かが今もここを整備しているのだろうか。例えば、あの駅員のような人以外の何かが。それならあり得る話だ。

 歩を進めるたびに足音が通路に反響した。地上の物音は聞こえてこない。代わりに、機械の駆動音だろうか、鈍い音が壁の向こう側で鳴っているのが微かに聞こえてくる。基本的には静かな空間だった。

「なんか、寂しい場所だね」歩きながら、サヤは通路の壁や天井を見回している。

 僕はSF小説が好きなのだが、もしかしたら人がいた頃にはこの壁や床にホログラムの装飾があったのかもしれない。

 そんなことを思いながら進み、通路から広い空間に出た。見たところそれは改札口であるようだった。枠の細い門型のゲートが横並びに五つ並んでいて、その向こう側も広い空間がある。エントランスロビーだろう。ロビー正面の壁一面に大きなガラスが嵌められている。何か店のようなものもあるが、看板の電気が灯ったままシャッターが下ろされていた。持っていた切符を読み取り口に翳してみると、軽快な電子音が鳴った。駅員の言った通り、この切符があればどこでも行けるようだった。

 がらんとしたロビー四隅のそれぞれにプラットホームへの降り口がある。正面奥のガラスから、その下に走っている線路と、プラットホームの様子を見下ろすことができた。六つある路線の中で一つだけ列車の停まっていた。貨物車だ。光沢のある黒いフレームで覆われた先頭車両の一両から後ろには工業的なコンテナが積まれている。その列車は見たこともないような形をしていた。それは僕たちの知る新幹線のような流線形や、あるいは窓の並んだ箱型をした物とは違って、ずんぐりとした皿型をしていた。光沢のある黒いフレームに黒いスモークガラスの窓。

「かっこいいね」サヤはガラスに両手を当てて覗き込むにして列車を見下ろしている。

 エントランスロビーから五・六番のホームに下りる。驚くべきことにエスカレーターはまだ生きていた。

 ここまでの通路やロビーが無人であったように、ホームで電車を待っている人影はなかった。

 列車の側面には電光で『フリュム下層・中央駅』と行先表示されていて、僕たちが近づくと先頭車両の扉がスライドして開く。中へ入る。暖色の照明に、四つしかないが、蛇腹のカーテンの仕切りのある広々としたボックス席。運転席とは濃灰色のスモークガラスで隔たれている。後部車両へ通じる扉はない。窓もない。品の良い夜行バスみたいだった。

「貸し切りだ」

「トランプ持ってきてないの?」サヤはまるで遠足気分だ。「それかウノ」

 首を振る。流石に持っていない。それに、持っていたとしても気分ではない。

 座ってから暫くして機械音声が発車を告げる。

 全く未知の土地での新たな旅の始まりに期待や不安が綯交ぜになる。列車が進んでいくにつれてその気持ちはじわじわと高まっていった。これから向かうのは、天を衝く白亜の塔を中心に、巨大な建築物が矢のように括って束ねられたような見た目の、かつて方舟と呼ばれた廃都だ。

 最初は、ただの逃避行のつもりだった。それが、気が付けばいつの間にか未知の世界へ迷い込み、今では冒険へと変わりつつある。

 駅員は僕たちを旅人と言った。そのことを思い出し──身震いした。何か自分が大きなことに挑んでいるような気がした。あるいはそれは間違っていないのかもしれない。分かるのは、状況的に異常だということ。保証されているものが一つとしてないこと。しかし、不思議と引き返そうという気にはならなかった。冒険とはそういうものなのかもしれない。


   ◆ Ⅲ 階層都市・フリュム

 

 ヴァニタスという静物画のジャンルを思い出す度に、いつしかサヤとした話を思い出す。それは放課後のことだった。空に溶けるように光を飽和させた斜陽が住宅街をあんず色に染め、物の落とす影を黒く、奇妙な形に伸ばしていた。学校からの帰り道だった。残暑の季節で、まだ蝉が鳴いていた。道に転がる乾いた死骸の数はそう多くはない。この一週間がピークだろう。僕の嫌いな向日葵は疲れ切ったように萎えて俯き、一足先に夏の酷暑からリタイアしていた。僕たちは学校指定の白いシャツの袖を七分の位置までまくり上げている。半袖のシャツでは腕が出過ぎて落ち着かない──とにかくそんな季節だった。

 夏の日差しは物の輪郭を際立たせる。くっきりとした木立の影に踊るちらちらとした光を僕は意識的に避けながら赤いインターロッキングの舗装道を歩いた。

 その日は取り立てて何があったという訳ではなく、サヤはふいに、自分の人生を静物画にするのなら小さな丸机の上に何をどう並べるかといった話を閑話に持ち出してきたのだ。

 質問自体は面白いと思ったが、僕に静物画の造詣はない。絵も描かなければ、観賞もしない。物の寓意など分からないし考えたこともなかった。

 暫く黙考する。猫足の、黒い色をした木の丸机。そうして僕はメタファーについて思索しようとする。しかし、僕は何についてのメタファーを用意すればいのだろうか。前提材料が足りない。音楽や内向的な性格やモラトリアム──クロノメーターがまず空想の机上に置かれた。それから、象牙と木材と鋼──いや、それではあんまりにも直截的過ぎるだろうか。

「机の上に白い布が敷いてあるの」サヤが言った。いつからか分からないが、彼女はこの話題を切り出す前に答えを用意したいたのだろう。「そこに頁がビリビリに破られた薄い本が広がっていて、本の上には豪華な花束みたいに置かれた腐った果物と火の消えたランプ、それから水瓶が横倒しになって机の上の物を濡らしているの」

 僕は、その一つ一つのモチーフの意味するものを尋ねなかった。彼女も喋らなかった。何かしら言わなければなるまいと思ってはいた。しかし、薄々答えをしっているだに、寓意を尋ねる気にはならない。

「ランプは机の右? それとも左?」結局僕はどうでもいい問いを返す。多分左だろうな、そんなことを考えながら。

「右かな」

「……」外れた。歩いていた舗装道に並ぶ木立の影が途切れる。行く先にはここらでは大き目の公園があって、僕たちはいつもそうするように、公園の上にあるテニスコート横の道へ向かった。遠回りの道だった。公園の方から子供の劈くような叫び声が響いた。

 引き続き、僕は彼女に与えられたテーゼについて考え始めた。

 歩く道の横にあるテニスコートには誰もいない。土鳩や雀が地面を空しく突いているだけだ。一体そこに何があると言うのだろう。人間の目には見えない何かがあるのか、あるいは地面を突くことで体制を保とうとしているのか。僕は鳩が怖い。昔の話だ。真っ赤な目をした鳩がギョロリとした目を剝いて地面を一心に突いている姿に生物の持つ純粋な狂気を感じたからだ。それ以来、僕は鳩が怖くなった。近づこうとすら思わない。

 依然、僕は考え続けていた。

 そのとき、何の前触れもなく一つのイメージを掴んだ。「──果肉のそぎ落とされた果実だ」僕はそう呟いた。声に出したそのとき、僕は僕の輪郭を見つけ出したような気がした。そして、机の上にはそぎ落とされた果肉が腐っていて、端っこに鋭い光を放つナイフが転がっている……。

 

 サヤに肩を揺すられて目を覚ました。また眠ってしまっていたらしい。最近、ふいに眠り込んでしまうことが増えた気がする。列車のアナウンスがフリュム到着間近であると告げていた。

「すぐ寝るよね」向かいに座るサヤが言う。「省エネモードのスイッチでもついてるの?」

「いや……」どうだろうか。実は付いているのかもしれない。

 列車は直ぐに停車し、フリュム下層の到着を知らせる。どうやらここが終着駅らしい。

 まだ少し眠っていたいような気持ちのまま席を立ち、開いたドアの方へ向かう──数秒後に眠気を根こそぎ吹き飛ばされることも知らずに。

 嘘だろ──列車の出口に立ち、一番に出て来た感想がそれだった。

 列車の外に広がっていたのは、大量のゴミに埋め尽くされた真っ暗なプラットホームだった。散乱し、山になった鉄くずや廃プラや瓦礫。衣類や硝子片、家電や使途不明の機械──中には玩具も見られた。それらはもはや悪臭すら放たないほど朽ち、心を閉ざしたように黙している。フィリップ・K・ディック的に言えば、キップルに支配されたキップル的な空間。本当にこんな場所で降りなければいけないのだろうか。

 何の説明もしなかった駅員を思わず恨んだが、あの駅から出ることのできない駅員がここの状態など知るはずもないことに思い至る。

『終点、フリュムに到着致しました。お乗りのお客様はここでお降り下さい』入り口でまごつく僕たちをアナウンスが急かした。『なお、当列車は折り返しを行わず、回送へと──』

 どうやら、この旅は楽観的に考えるようにはいかないようだ──

「行こう」先に進むしか選択肢はない。そこは殆ど暗闇と言っていいほど明かりがないので──鞄から懐中電灯を取り出し、開いたドアの外へ僕たちは足を踏み出した。

 周囲を照らすと、暗闇の中でぼんやりと輪郭を浮かばせていたものの凄惨な姿が明らかになる。

 多種多様なゴミが投げやりに投棄されて小山を築いていることは言うまでもなく、駅構内の白い壁や天井には何かが争った跡がそこら中に見られた。何か黒いものがこびりついているのは──血や肉片の成れの果てのように見える。

 トンネルから獣の唸るような風の音が聞こえて振り向く。いつの間にか列車は行ってしまっていた。懐中電灯の光でも払うことのできないほど深い闇が、目のない顔で僕たちのやって来た線路の向こうで大きな口を開けている。もう簡単に戻ることはできないだろう。

 刹那、戦慄が喉から下に落ち、それはすぐに諦念交じりの覚悟に変わった。

「進もう」はぐれないよう、僕はサヤの手を取って歩き始めた。隣にいる彼女は平気な様子で辺りを左見右見している。僕なんかよりもよっぽど肝が据わっていた。

 なるべく周囲に目を向けないよう進んだ。壊れたエスカレーターを横目に階段を上り、エントランスロビーへ出る。空港のターミナルのように開けた場所だ。トラスに一部硝子張りされた天井から下がる大きなシーリングライト。精緻なルーバー格子の壁面。剥がれたり穿たれたりしている白い石張りの床。壊れたりひっくり返ったりしている待合の椅子やソファ、机や看板。行き先や時刻を表示するモニターが至る所に据え付けられ、プラットホームへの降り口が片側の長手に並んでいる。ロビーをコの字に囲繞する二階や三階には飲食店や土産物の店が肩を揃えていたのだろう。そこに伸びるエレベーターは中から折れてロビーに落ちたり、突き刺さったりしている。今ではそのすべてが色のない廃棄物に沈み、あるいは破壊され、暗い目をして死んでいた。そして積み上がったガラクタとガラクタの小さな隙間に──あるいはガラクタの上に、ぼろになった衣服のような物が捨てられているのが目に付いた。痕跡からは少なくない誰かが住んでいたのだと分かる。

 キップル──キップル、キップル。ここにはそれ以外のものはない。

 キップルに満たされた空間──キップルはキップルでないものを駆逐する。

 あの駅も、地下通路も──ここと比べれば可愛いほどまともだったのだ。

 ずっと、こんな場所が続くのだろうか。今もなお増大するキップルが僕の心を飲み込もうとしていた。はっきりと、隣のサヤを意識する。そうでもしないと正気を持っていかれてしまいそうだった。いざとなれば、トンネルを歩いてでも引き返すしかない。現実的ではないが。

「ここは下層って言っていたから……上に繋がる道を探そう」

 とはいえ、容易なことではない。

 ここは広かったし、辺りは暗い。そのうえ山になった廃棄物のせいで見通しが効かない。ある場所など、天井のパネルが下地ごと剥がれて床までしな垂れて道を塞いでいた。

 とにかく進むしかなかった。

 頼りない懐中電灯の光だけが導だ。

「ハル!」そのとき、サヤが僕の手を引いた。僕と真逆の方を見ている。「あれ」

 そちらに目を向けると、来るときにオラリオで通過したものと同じゲートが遠目に見えた。オラリオと同じく、ロビーから出るにはゲートを抜けていく必要があるというわけだ。

 サヤの見つけたゲートにはA-10と記されていた。その記号が何を表しているのかは分からないが、もはやオラリオの時のように切符を翳す必要もない。

 ロビーからシャッターの下り切って荒らされた売店の並んだ通路を進む。ロビーより争いの形跡は少ない。

 長方形のホールに出る。ロビーより多少狭いくらいの広さ。ここはよく使用されていたのか、廃棄物が少ない。大きな扉のエレベーターが三機、長手側に並んでいる。ボタンスイッチの光は消えていて、上の表示板には「ロックアウト中」と記されている。ダメ元で押してみるが、カチカチと空虚な音を立てるばかりで動く気配はない。

「でも、これだけ広い場所に出口が一つだけなわけないよね」とサヤが言う。

 ロビーに戻る。

 彼女の言った通り、ゲートは彼女の見つけたものだけではなかった。

 一つ見つけた後は早かった。暗さと障害物のせいで分かり辛いが、ロビーの作り自体はかなり簡単なものだったのだ。外に出るために二階や三階に行く必要はない。ゲートのある場所はプラットホーム降り口と反対側の長手で、必ずモニターと受付カウンターがある。これだけ壊れていると何か一つが欠けたり隠れたりしていたし、必ずしもそうであるとは限らなかったが、大体はそうだった。しかし、どのエレベーターも「ロックアウト中」と表示されていて動く気配はない。

「もし、ひとつも動いてなかったらどうする?」

「歩いて引き返す……しかないね」少なくとも、エレベーターの表示板や僕たちを乗せて来た列車からするに、フリュムは完全に死んでいるわけではなかった。何かしら打開策はあるはずだ。

 しらみつぶしにゲートの先へ進んでいく。

 A-11 A-12 A-13 A-14 A-15……。

 Aの記号が終わり、B-01へ。

 ガラクタと血生臭い痕跡の残るロビーから売店の並ぶ通路を通ってエレベーターホールへ。心なしか、A記号の場所よりも作りが良い。

 果たして、エレベーターは稼働していた。オレンジ色に点滅する上矢印のボタンを押すと、すぐに扉がスライドして開く。

 小さな空間に灯る光が、すっかり暗順応した目に眩しい。僕は思わず目を細める。

「よかったあ」サヤが言う。

 いつの間に、痛いほど握りあっていた手が自然と解ける。平静なようで、彼女も不安だったようだ。そのことが少しだけ嬉しい。

 エレベーターへ乗り込んだ僕たちは上へ向かった。その途中、表示板にはここにまだ人がいたころのニュースが流れ続けていた。そこには暗いニュースが細い帯状の表示板の右から左へと流れていく。

 ──水没区域から逃れて来た市民により治安が旧悪化・相対的に衣食住のリソースが逼迫。暴動やテロが頻発中。中・下階層の警備ロボットが住民の手によって鎮圧。犠牲者二百名余り。下層階の完全な水没により、エレベーター封鎖中。中~上層へのインフラ完全切除。深刻な資材不足により、プラントからの供給物資の品質低下止まらず。

 それはニュースであり、都市の梗概だった。

 そこに流れているニュースが何年前のものなのか僕には知る由もなかった。ただ、下で見た血生臭い痕跡の理由が分かっただけだ。恐らく、A記号のエレベーターが使えなかったのは下層行のものだったからなのだろう。Bは中層。上層行はCだろうか。いずれにせよ、上層までのインフラは切除されているらしいので使用はできなかっただろう。

 チン、という音を立ててエレベーターの扉が開いて、ようやく僕は表示板から目を離した。

 どこでもエレベーターは同じ音を立てて開くのだなと感慨を抱きながらエレベーターを出ると、下の駅よりずっと明るい空間に出た。壁の一面がまるまる刳り貫かれたように外と繋がっているのだった。室内の方は外と直接繋がった壁の開口ともう一つ、同じ建物内の別の空間に繋がる出口があり、相も変わらず壊された機械が倒れ、ガラクタが積まれ、ゴミが風化して散乱して荒れている。下に比べて足の踏み場があって秩序だってはいたが。

 暗く、廃棄物の散乱する建物内には行かずに外へ向かった。フリュムという都市──それがどういう場所なのか改めて把握したかった。それに、見通しも効かないほど暗い場所はもういっぱいだ。懐中電灯の明かりがいつまで持つかも分からない。

 壁の開口から建物の外に出る。

 その先に広がっていたものに、僕たちは揃って息をのんだ。

 人の消えた無数の廃墟に、鋼鉄の糸を吐く蜘蛛が巣を縦横に張り巡らせているのだと言われても、僕は疑わなかっただろう。

 建物の外では中空に張り巡らされた足場が廃墟と廃墟を繋ぎ、もう一つの地上を作り上げていた。下を覗けば夥しいほどに交錯した足場が階層になって重なり合い、最下層まで見通すことができない。見上げると足場や継ぎ接ぎされた配管や、小屋へ繋がる架空線の隙間から辛うじて夜空が見えた。

 ここで暮らしていた人たちは異常に上昇する水位から逃れ、増えた市民のインフラを確保するために気が遠くなるような時間をかけてフリュムを改造し、ここで過ごしてきたのだろう──鉄骨と鉄板の足場の上に並ぶ鶏小屋を思わせる粗野な小屋や屋台がその証拠だった。地上を失ってここに逃げて来た人々が作り上げた第二の大地。張り巡らされた足場で作られた空中都市。それがフリュムというアーコロジーの全容だった。

 オラリオや下の駅の様子から、どうしてこうなると予測できようか。

 そこはまるで別世界のようだった。

 精緻さと野蛮さが組み合わさった都市の景観はひどく歪だが、同時に壮大だ。ある種で神話的とも言えるほどに。

 足場の上にはかつてここで暮らしていた人々の痕跡が確認できた。拉げて崩壊した屋台や小屋、あるいはまだ形を保っている廃屋、散乱する瓶や缶、分解の進んだプラスチック容器、壊れた椅子やテーブル、至る所に打ち付けられた琺瑯看板、倒れて割れた電光看板……駅の凄惨な様相とは異なり、ここにはまだ、人が人らしく生きていたと思えるような生活の跡があった。それに、人が居なくなって長い時間が経っているだろうにも関わらず、足場と同じく縦横無尽に走る電線やダクトや配管はまだ生きていて、鈴蘭灯やネオンサインの明かりが生きていた。

 廃墟はカーテンウォールのガラスパネルが壊され、外壁材が剝ぎ取られていた。足場から行き来し易くするためだろう。中には開口に合板や鋼板を打ち付けて、開閉扉を設けるといった風に手が加えられているものもある。当然、建物の開口の高さはまちまちであるから、足場上には最寄りの建物の出入り口に合わせた三から六段の小さな階段があり、更にその階段から派生した道がある。この都市に張り巡らされた足場は、こうして枝分かれを繰り返すことによって非常に複雑な螺旋を描きながら層状に積み重なっていた。

 僕たちは上を目指して歩き始めた。

 エレベーター出口の部屋を出て、幅の広い道から狭い道へ。階段を登って分岐路を選び、少しずつ上へ向かって進む。

 カツン、カツンという靴音が都市に響く。空虚な殻を踏んでそれが反響するように、いくら静かに歩いても音は鳴った。

「……あれ、行き止まりだ」立ち止まって辺りを見回す。

「こっちの道は?」サヤの見つけた道を進んでみるが、袋小路になっていた。

 そうして、たかだか数段の階段を登るために僕たちはあみだくじのような複雑な道を進んだ。中には、そもそもの道が崩壊して途絶えていることもあり、そのときはまた別の階段を見つけて行かなければならなかった。

 都市はその複雑さに加えて、半ば崩壊していた。そのせいで思う様に進むことができない。外の足場を諦めて建物内部を進もうとすれば、中は暗く、廃墟同然といった様子で、廃棄物が積まれていたし、階段や通路には隔壁が下りていたり、打ち付けられた板で塞がれていたりしていて歩けたものではなかった。エレベーターに関しては壊れているのか、電源を落とされているのか動かない。結局、上に行くには、百二十五もの棟と共に複雑に絡み合った足場を進んでいくしかないようだった。

「それにしても、随分壊れてるね……ほらあそこ、見て」サヤの指さす先では足場が大きく崩れ、まるで鋼鉄の怪物が頭を擡げるようにして下方向にアーチを描いていた。腐食や劣化で脆くなっていそうな箇所には十分気を付ける必要がありそうだった。しかし、どうして脆弱部分を見抜く方法があるだろうか。僕たちの荷重で大勢に影響があるとは思えないが……。

「ここ、やっぱり誰かいたりするのかな」

「どうだろう」こればかりは分からない。駅員によれば今のフリュムに住民はいない。が、他人の存在には少なからず警戒を払っておくべきだろう。

「まあ、居たとしても、まともだとは思わない方がいいかもね」僕は道に転がっているガラクタの一つを一瞥した。銃火器だ。さっきからライフルや拳銃が放られたように転がっているのが目に付いていた。銃火器の落ちている近くには必ず赤黒い染みや弾痕が刻まれていて、特に建物内では激しく争ったと分かるような場所もあった。その中に、古くない痕跡が見当たらないことが今のところの救いだ。

「そうだね。攫われちゃうかも」言って、サヤは落ちていた拳銃を屈んで手に取った。見るも無骨なそれは、笑ってしまうほど彼女に似合っていなかった。「持っておく?」

「……いや、いい」

「私もいらない」サヤは手に持った拳銃を置いて立ち上がった。その手には銃把に浮いていた錆びが移っている。「重いし」

「でも、上まで登ったところでどうしようか」

「それはその時に決めようよ」サヤは楽観的に言って、なにを憂うこともなく無垢に笑う。「ゆっくり行こう? どうせなにもないんだから」

「そうだね」そうだ。どのみち僕たちにはなにもないのだ。すべて、ここに来るまでの道のりで捨ててきてしまった。どう生きるのか、生きてどうするのかではない。どう破滅するのか。それだけだった。残っているのは、鞄の中に入ったちっぽけな金品と、サヤ一人だけなのだから。


 生き延びていくことを考えるのを止めた──ある時にサヤは言った。生きることを考えるのではなく、どう破滅するのかを考えたら楽になった──と。

 まだ中学生で、自分で決断してこの先の道のことなど一つも考えたことのない僕に、それはまだ実感のない話だった。生きていく苦しみを僕はまだ知らないし、考えたこともなかった。そういうことは大人の考えるものだと思っていた。その点、サヤは僕よりも生きていく苦しみやその果てしなさを理解していたと思う。それも一般的とはとても言い難い環境の中で。

 旅が始まり、こんな場所に至ってもなお僕には彼女の気持ちは理解できないままだ。


 僕たちの思っているよりもこの都市は壊れている――そう思い知らされたのは。それから暫く歩いたところで絶望的な障害にぶつかった時だった。

「うそ……」その光景に、僕はそうつぶやいたきり立ち尽くしてしまった。

 そんな僕の横でサヤが「うわあ……」と言って唖然とし、僕たちは互いに思考を止めてその光景に心の空白を預けた。

 唐突に下から大きく吹き上げてきた風が、僕とサヤの髪を踊らせる。

 僕たちの目の前には、陥没するようにして大きく拉げた空間があった。それも、フリュムの上から下まで、まるで巨大な爪に引き裂かれたような断裂だ。並大抵のことではこうはならないだろう。ましてや、人の手が入らずとも千から数百年以上もの時間を耐えることのできる建物が、こうまでして綺麗に崩壊するだろうか。

 上を見れば空が細長く見えた。下を見れば、瓦礫の山が見える。

 まるで地割れだ。ここに来るまでも虫食いのように足場が崩れていることはあったが、その比ではなかった。

 向こう側に渡るには迂回して崩壊していない道を探すか、下に降りて山のように積み上がった礫を渡っていくしかない。

 僕たちは引き返して別の道から上を目指すのだが、その先でも、また更に別の道でも大きな奈落が口を開けて僕たちを待っていた。それらは最初に出くわした断裂よりも小さく、部分的なものであったが、その度に僕たちは迂回路を進むことになった。やがて、迂回することが徐々に難しくなってきて、方向感覚などとうに失っていた僕たちは、下に降り、崩落個所の礫の上から向こう側に渡る選択を余儀なくされたのだった。

 足場と視界は下層に行くほど悪くなっていった。下層は潮の浸食がひどく、上よりも鉄部の腐食が進んでいた。足場や配管は錆びつき、建物の外壁は著しく劣化している。

 ある場所は廃棄物や、破壊されたであろうロボットの残骸が足場の上で山になって朽ち、都市の景観は貧民崫へと変化していった。上の方で見た、かつて賑わっていたであろうその形跡すらそこにはなかった。ここに住んでいたのは、この都市で最も貧しく、虐げられていた者たちなのだろう。その荒れようは、僕たちに地下駅で見たホームやエントランスロビーを思い出させた。

 僕たちは更に下層へ降りていく。先刻までが貧民窟だとして、下層は廃棄区画だろうか。どこを見ても廃棄物の山が積み上がっている。足の踏み場すら怪しい。そのゴミの山に垣間見るスラムの残骸は、まるで巨大な怪物の骸のようだ。

 降りていく。

 鉄に浮く錆びと潮の饐えた臭いが鼻を衝いた。

 しかし、最下層に近い場所に来ると都市の様相は変化した。

 それまで懐中電灯を点けながら歩いていたのだが、なぜかその場所は仄明るく、青白い光が崩壊した都市の景色を淡く照らし出していた。

 懐中電灯の明かりを消して、光の元へと下りていく。

「すごい!」今まで口を重く閉ざしていたサヤが歓声を上げる。

 そこには花園があった。

 廃棄物にアスターやスターチスの花が花を咲かせていたのだった。その花弁が青色の光を放ちながら淡く下層の景色を照らし、錆びて饐えたこの都市の死臭を甘く包んでいる。海底に沈んだ鯨の骸は生物群集を作り上げるというが、ここはそういったものとよく似ているように感じられる。

 美しい光景だった。

 こんな場所に花園があるなどと、誰が予想できようか。

 どこから摘んできたのか、サヤの手の中に花がある。カンパニュラの花だった。花の放つ光が僕たちの周囲を仄明るく照らした。

「感謝・節操、それから、不変」とサヤが言う。

「花言葉?」

「うん。ギリシャ神話では、守れなかった命の花って言われてるんだって」

そういえば、彼女は植物に詳しかった。「守れなかった命の花、か……」

 花園は目的地である崩落個所の直下に到着するまで絶えることなく都市を照らし続けていた。瓦礫の山を渡り、崩落箇所の向こう側へと進む。

 廃棄区画から貧民窟、それからフリュムの中層へと戻っていく。心なしか、僕たちが渡ってきた向こう側よりも、こちら側の方が栄えているような気がする。

 進んでいくうちに、ブールバールのような場所へ出た。一本の道がずっと向こうの方まで続いていて、この大通りを挟み込むように様々な施設――足場材や住宅設備を製造する工場や物流施設、資機材の倉庫、宿舎や事務所、再利用待ち廃棄物の集積場、飲食店や生活用品店など──がある。トゥーレ水没後、人口が爆発的に増加したフリュムはこの場所で支えられていたのだろう。通りで、町並みが向こう側よりも栄えているはずだった。

 なにか有用なものが見つかるかも知れないと思い、辺りを探検することにした。通りに並んで建つ、コンテナを改造して作られたプレハブ小屋の中を改めていく。大体の小屋は出入口が壊されていて侵入が容易かった。しかし、中にあるものの多くは工具や資材、それから使途不明の道具ばかりだった。銃や弾薬の類もあった。フリュムを歩く中で銃火器を見かけるのは珍しいことではなかった。なんにせよ、僕たちには必要のないものだ。結局、使えそうなものは見つけられなかった。

「これだけ色々なものがあるのにね、残念」

「まあ、必要そうなものは大体僕が持ってるから。今のところ出番はないけど」

 僕は上を見た。「確か、高さ一キロあるって駅員が言ってたっけ」

「今どのくらいなんだろうね」

「分からない……」しかし、かなりの道のりであることは間違いないだろう。

 そのとき、ふと、吹いてきた緩やかな風の中に幽かな旋律を聞いた気がした。

「……?」

「どうしたの?」

「いや──いま、何か聞こえた気がして」耳を澄ませ、空気の中に溶け込んだ旋律を探った。サヤも同じように集中し、周囲の音に傾注した。

「――ほんとだ。聞こえる」とサヤが言う。「歌声?」

 僕は頷いて答えた。「たぶん」 

 最初は鉄の軋む音かとも思ったが、サヤにもそれが歌声に聞こえたというのなら間違いない。今にも擦り切れそうな毛羽立った弦を弓で弾いたような、そんな歌声が微かに聞こえてくる。まるで、音を通じて遠い故郷の情景を思い出そうとしているような、あるいは、風化して崩れていく記憶の情景をなんとか繋ぎ止めようとしているかのような抒情的な歌声だった。

「こんな場所でいったい誰が歌っているんだろう」サヤが言う。

 ここまで人の気配は一切なかった。この都市に住んでいた人々の生き残り──というのは考えにくい。あるいは僕たちと同じ旅をしている人か、秘境駅の駅員のような、人ならざる者か……。

「どうする?」

「……どうしようか」もし何かあったときに、僕ではサヤを守り切ることができる自信がない。僕たちにできるのは逃げることだけだ。

「行ってみようよ」サヤが言う。

 逡巡する。間違いなく、これは危ない橋だった。

 道の端に落ちている拳銃に目を向ける──使えるかどうかはわからないが、僕はそれを手に持って鞄の中に仕舞った。そして僕はサヤの方を見て頷くのだった。

 声のする方向へ向かう。耳を澄ませ、旋律を探りながら大通りを出て足場の道を進んだ。徐々に歌声が明瞭に聞き取れるようになっていった。明らかなのは、それは人の声でないということだ。何か動物の鳴き声のようだったが、それが何の動物なのかは分からない。猿でも犬でも猫でも鳥でも、あるいはロボットでもない。確かなのは、明らかにその声が意思を持って旋律を奏でてるということだった。     

 声を辿っていく内、僕たちは工業地帯のある大通りから少し外れた円形広場──の直下に到着した。音はその真上の広場から聞こえてくる。僕たちは足場と建物を行き来しながら上って行き、それから、広場の見える場所で僕たちは足を止めた。

「なにかいる」サヤが言って、僕は頷いた。

 気球船に似た楕円形のシルエットが、かつて住民たちの集会場となっていたであろう憩いの場に横たわっているのが見えた。十から十五メートルの全長。まさか──と思う。

「鯨──だよね、あれ」傍白として僕が言った。

 サヤが横で頷く。

 黒い背中に、線状の模様の走った白い腹部。袴袖のような胸鰭に、半月のような尾鰭。背中には僕の背丈よりも少し小さいくらいの大きさのゼンマイが付いている。ゼンマイはくすんでしまっていて、金色の光を僅かに鈍く放ちながら、今にも止まってしまいそうな速度で回っている。目は白い睫で閉ざされていた。そして、鯨の周囲には死化粧のような青い花が咲き誇って広場中を淡い光で満たしている。最下層で咲いていた花たちだった。

 僕たちは暫くの間、歌う鯨を唖然と見ていた。

「……行ってみようか」言ったのは僕だった。全く怖くないと言えば嘘になるが、それが僕たちに危害を及ぼすような何かには到底思えなかった。

 サヤが僕の服の裾を掴む。が、顔を見るに彼女も過度にそれを恐れるといった感情はないらしい。僕はサヤの手を取って進んだ。

 なるだけ警戒心を煽らないよう、自然体を装いながら広場に入っていく。目の前には鯨の、黒い丘のような巨体が横たわっている。一歩、二歩、三歩──花を踏み分ける音が鳴り──歌が止まった。鯨の白く長い睫に閉ざされた瞳が開かれていく。背中で回るゼンマイのように緩慢な動作だった。そうして開かれた双眸には、生命の息づきのようなものが全く感じられなかった。それはまるで命の灯が消えかけ、静かに死を見つめているかのような眼差しだった。初めて会った時のサヤも、少し違いはあれど同じような目をしていた。

「……」生気のない鯨の瞳が、白い睫毛越しに僕たちを見ていた。

「こんにちは」サヤが言う。

「ああ……」嗄れ声で呻くようにして声を上げる鯨はまるで老衰した老人のようだ。彼はひどくゆったりとした口調で喋った。「旅人か?」

 僕たちは頷き、それぞれに応えを返す。

「……主たちの名は」

「ハルです」

「私はサヤ。鯨さんは?」

「わしはエミール──遥かなる海を渡る者……という意味だ。その名の通り、遠く故郷を離れこんな場所までやってきてしまったが」

「ここにいるのはエミールさん一人なんですか?」

「ああ……そうだな。ここにはわし一人だ」

「歌声が聞こえたので、来てみたんです」

「ああ……そうか、主たちはわしの声を辿ってここまできたのか」

 僕たちは頷く。

「それより主ら、何故こんなところにまで来た?」

「駅から来られる場所がここしかなかったの」

「それで上を目指していたんですが、途中で足場が崩落していて、それを迂回していたらここまで来てしまったんです」

「……ああ」その嗄れた呻き声とも嘆息とも取れない吐息に、彼はいったいどれほどの言葉を含蓄させているのだろう。「今、この都市はどれくらい壊れている?」

「大きかれ小さかれ、そこかしこで崩落しています。幸いこの辺りはまだ持ちそうですが、時間の問題だと思います」

「……そうか。この都市も、そう長くはないのだな」

「鯨さんはいつからここにいるの?」

「……とうに月日の流れる感覚など喪ってしまったな」

「逃げないの?」

「サヤ、だったか……ここはわしの終の棲家なのだ。群れを離れ、長い間この世界を彷徨し、畢竟、辿り着いたこの世界の果てが」言って、老鯨は大きく息を吐いた。喋ることすら漸くという様子だ。「わしが逝くか、この都市が崩壊してわしを潰してしまうか。どのみち、わしももう長くはないだろう。ねじまきが回転を止めれば、わしも眠るようにして逝けるのだ。永い生を、やっと終えられる。……それに、ここを離れてどこかに行く気力も体力も、わしにはもうないのだよ」

 それは諦念か、あるいは安堵か。

 なぜこの鯨は、群れから離れて孤独に死ぬことを選んだのだろうか――尋ねるのはあまりにも無粋と言えた。しかし、鉄をも腐らせる深潭の底で朽ちたいと、果たして本当にこの鯨は願っているのだろうか。暗渠のような老鯨の瞳が湛える昏さが、語られぬ真の答えを写しているように思えて仕方がない。とはいえ、僕たちだって暗い理由で旅をしているのに変わりはなかったが。

「この辺りで、僕たちと同じように旅人を見ませんでしたか?」聞いてみたのは単純な興味本位だった。「あるいは、この都市の生き残りとか」

「わしが最後に人の姿を見たのはもうずっと前……わしの故郷、エウロスと呼ばれる東の海域を回遊していた頃だ。あそこの水は穏やかで、温かかった……」言って、老鯨は過去の思い出に浸るようにして目を閉じた。「今となってはもう、戻ることも叶わないが……なんにせよ、この都市には人間はもう残ってはいないだろうな」

「故郷に、戻りたいの?」

「そう思って、一度だけ戻ったことがあるのだ……が、もうそこにわしの知っているかつての海はなかった。主らは……どこから来た?」

 僕は老鯨に、僕たちの住んでいる場所のことを伝えた。「──気が付くとオラリオの電車に乗っていたんです。僕たちが住んでいた場所について、何か知っていますか?」

「いや……聞いたことがない地名だ」

 それを聞いて、前々から可能性として考えていたことが確信に変わりつつあった。ここが、元々僕たちの居た場所とは異なる世界、という可能性だ。突飛だが、それが今僕たちにとって一番受け入れやすい考えだった。

「……ところで、主らはこの頂上を目指しているのだろ?」僕たちが頷くのを見て取るや、老鯨が言った。「白い塔へ行くつもりなのか?」

「白い塔──」オラリオで見た、フリュムから天に伸びている白亜の塔のことだった。

「知らないでここまで来ていたのか……」

「いえ──ここに来る途中で一度だけ見ましたが……あれはどういうものなんですか」

「そうだな……あれについてわしが知っているのは、今や神話にも近しい昔話みたいなものだが……それでも知りたいか?」

「おねがいします」

「いいだろう……」言って、老鯨は白い塔について僕たちに話した。それは、神話の時代からそこに聳え続ける人類最古の建築物なのだという。そして、資格ある者がその塔に触れると、塔はその扉を開き、次の世界への扉を開く──らしい。「過去にその塔の扉を開いた者も存在したという話は聞くが、資格というのがなんであるか、未だ解き明かされていないのだ。一説によれば、彼らは幾何学模様を浮かべる黒い紙のようなものを持っていたらしいが……まあ、伝説みたいなものだ」

 僕とサヤは顔を見合わせた。

 老鯨の昔話が、途端に現実の色を帯び始める。

 僕たちはそれぞれ、黒い切符を取り出して老鯨に見せた。駅員曰く、あるいは神のいる場所へさえも行けてしまうという切符。その表面には幾何学模様が踊り、それは光や見る角度で変化し、同じ模様は二度と現れない。

 老鯨は、信じられないものを目にしたというように言葉を失い、僕とサヤの手の中の切符を静かな眼差しで見ていた。

「駅員さんも言っていましたが、そんなに特別なものなんですか?」

「……ああ」嘆息し、老鯨は頷く。「それさえあれば、この世界のどこへでも行ける。まさか実在していたとは。ハル、サヤ──それをどこで手に入れた?」

「わかりません……」

「いつの間にか持ってたの」

「……主らは、塔の扉を開くつもりなのか?」

 サヤを見ると、彼女は僕に頷きを返した。「開くよ。行けるところまで、私たちは行く」

「その果てで、主らは何を成す?」

「何も」サヤが無機質な声で言う。

「そうか……」老鯨は沈思するように目を伏せた。「旅は、急いでいるのか?」

「ううん」サヤが首を振る。ここに来てから、僕たちは急ぐ必要がなくなった。彼女の言う破滅へ、ゆっくりと向かっていくだけだ。

「……一つ、頼みがある」

「頼み、ですか?」

「ああ。わしと共に、最上階まで行ってもらいたいのだ。そこで、主たちの力を借りたい。急いでいない旅を急かすようで悪いのだが……どうか聞いてもらえないだろうか」

「いいよ」とサヤが言った。

 もちろん、僕も賛成だった。

「最上階までは、わしが乗せていく」渡りに船だった。急いではいないが、このまま僕たちの足で最上階を目指したとして、辿り着けるかどうかも怪しいところではあったのだ。しかし、問題は老鯨が目に見えて衰弱していることだ。どう考えても、今の状態で僕たちを背に乗せて動けるとは思えなかった。

「でも、エミールさん、動けるの?」

「……問題ない。ハル、わしのねじを巻け」

「ねじ、ですか」

「いかにも」言われ、老鯨の背中から突き出たねじ巻きに目を向けた。くすんだ真鍮色の、僕の背丈ほどある大きなねじ巻きだ。今にもとまってしまいそな回転を微かに続けるそれは、まるで彼の命の灯の短さを比喩しているようだったが、そうではなかった。それ自体が彼の命そのものだったのだ。しかし、そんな彼が僕に再度そのねじを巻かせ、願いを一つ聞いてもらいたいという。それが一体なんなのか、尋ねるのは野暮だろうか。

 僕は老鯨の尾鰭を足がかりに背中へ上る。

 老鯨の背は広く、まるでなだらかな丘のようだった。とはいえ、高さはそうでもなく、着地点に気を付ければ飛び降りられる程度だ。

「ずいぶん長い間回していないが、まだ壊れてはいないだろう……」僕は彼のねじまきに手をかける。「三回も巻けばそれで十分だ。あまり巻きすぎると、また長い時間を過ごさなければいけないことになるからな」

「わかりました」僕は頷いて答えた。

 ねじまきを時計回りに回す。長い間手入れされていないそれは、初め、凝ったように固かったが、引っ掛かりのようなものが取れると容易く回せた。ねじを巻くたびに鳴るカチカチという音と振動はまるで大きなオルゴールのねじを巻いているみたいで、緩やかに死へ向かっていた彼の魂が再び動き出すのを感じる。

 老鯨の言った通りねじを三回巻く。

「……よし、十分だ。サヤ、わしの背に乗れ」

「なんだか、いよいよ冒険っぽくなってきたね」上ってきたサヤが笑って、後ろから僕の腹に手を回した。「ジェットコースター乗る時って、こんな気持ちなのかな」

「どうだろう……」僕はアトラクション系の乗り物が大の苦手だ。

「二人とも、掴まったか?」

 僕とサヤはそれぞれに答えた。

「──よし。落ちないよう、しっかりと捕まっておくことだ」老鯨がそう言うと、今にも回転を止めてしまいそうなほど弱々しく回っていたねじまきが、ジリジリと音を立てて回転を早めていった。僕は振り落とされないよう、彼の背中のこぶに掴まって身構える。

「いくぞ」言うや否や、持ち上げた鰭を一振りした老鯨の巨躯が宙に浮いた。サヤが「おお」と歓声を上げる。周囲に積もっていた錆びや塵芥、それから彼の周りで咲き誇っていた花の花弁が勢いよく舞い上がり、周囲の空気が渦を巻く。「こうして泳ぐのは久しぶりだ……それも、人の子を乗せることになるとはな」相変わらず彼の声は嗄れていたが、その声音には先ほどまで僕が感じていた重苦しい響きはなかった。あのねじは、身体的な部分だけでなく、彼の精神的な部分にも関わってくるのだろうか。

 老鯨は自転車より少し速いくらいの速度で、中空に張り巡らされた蜘蛛の巣のような足場を躱しながら器用に泳いだ。彼の背に乗ると今まで見えなかった景色が見えた。工業地帯の全景と、それを取り巻くようにしてフリュムに張り巡らされた赤黒い病巣のような鋼鉄と灰色の廃墟群。それらは、俯瞰してみると思っていたよりもずっと壊滅的な様相を呈していた。

「ここには、列車に乗って来たと言っていたな」

「ええ」乗った、というよりも、気が付いたら乗っていたという方が正しかったが。

「あそこの駅員はまだ健在か?」

「彼を知っているんですか」

「古馴染みだ。……もう百代と会うていないが」

「元気かどうかは分からないですが、駅員としての仕事は全うしているようでした。それから、ひどく物語に飢えていました。……それも、ちょっと病的なほどに」

「アレはそういうヤツだ。昔から変わらない」

「エミールさんは、駅員さんとは仲良かったの?」

「古馴染みだというだけだ。アレとはこの土地に来た時に知り合ってな。以来、時折あの駅に行っては、ここまでの旅路やこの都市周辺の出来事を話して聞かせていたのだ。しかしか……そうか、アレはまだ健在か。よもや、わしの方が早くに逝くことになるとは思わなんだ」

「鯨さんも列車に乗ってきたの?」

「まさか。旅の途中で果てへ向かう列車があると知ってな。偶然見つけた線路を辿っていたらヤツと出会ったのだ」

「鯨さんも旅してたんだ」

「ああ……最初から死に場所を求めて旅を始めたわけではなかったが……話すと長くなる」

「聞きたいな」とサヤが言う。

 僕も興味があった。

「そうか……上に着くまでの暇潰しか、老いた者の戯言だと思って聞いてくれたらいい」

 そうして老鯨は訥々と喋り始めた。

「旅を始めたのは、群れから離れたからだった。とはいえ、群れからも離れようと思って離れたわけではない。全てが偶然で、気がつけばわしはこの世界を旅していた。妻や子はいたが、もう互いに心配するような歳でもなかった。だから群れという単位に未練も固執もなかったのだ」

 僕たちを背に乗せた老鯨は、足場の間を潜り、崩壊した穴を抜け都市を上って行く。そのうちに、いつか僕たちが最初に遭遇した巨大な断裂が現れ、彼は都市にできたその空白をぐるぐると円を描くようにして上って行った。

 老鯨は己の半生を語り続けた。

「わしは一人で旅を続け、数多の者に出会い、訪れ、見た。道すがら同族に出会ったり、親しくなった者にねじを巻いてもらうこともあった。人間に出会うこともあった。が、行動を共にすることはなかった。その頃のわしはもう一人に慣れきっていたし、一期一会というのを楽しんでもいた。ちょうど、主たちと出会うのと同じようにな。

 さるほどに、わしは数百年この世界を旅した。しかし、それだけ長い間旅をしていると、生の納め時というものを考えるようになる。泳ぎ、出会い、別れながら死について考える時間が増えた。わしらはねじが止まらない限り死ぬことはない。多くの場合、死は訪れるのではなく、生を納めるものなのだ。そうして自らの生を納めた同族をわしは何匹も見てきたし、わしもいよいよその時が来たのだろうと思った」

「やがて辿り着いたのが、ここだったんですね」

「ああ……静謐な、神話の時代から続く塔の聳える最果ての都市だ。死ぬ場所には、ちょうどいいと思わないか?」

「うん。すごくいい場所だと思う」僕の腹に回された彼女の手に力が籠るのが分かった。

 ああ、と思う。僕たちは死に惹かれた同胞なのだ。

 生い立ちや、死生観、姿形が違くとも、僕たちはこんなにも分かり合えている。

「なんだか、喋りすぎてしまったな──さて、与太話もここまでだ。そろそろ上に出るぞ」

 僕は頭上を仰いだ。

 いつの間にか、夥しいほど星を湛えた夜空がすぐそこまで迫ってきていた。

 間もなくして、閉ざされた大穴から外界へ、視界が一気に開ける。僕たちを取り囲んでいた大気が、ざあっという音を立てて軽くなって僕たちの髪を躍らせた。薄暗いところに慣れていた僕は、一瞬だけ外の明るさと顔に押し寄せてくる風に目を細め、それから視界いっぱいに一面の星空が広がる。海と夜の闇が溶け合うその最果てでは、オラリオで見たオレンジ色の光の炸裂が夜を裂き続けていて、首を巡らせると白亜の塔が夜空を衝いて聳えているのが見えた。それは星空の光を受けて白い光を放ち、都市で一番背の高い棟よりずっと高く、僕たちのいる高さからでは終端を見ることができない。真っ白で無機的なパネルで覆われた多角柱をしているそれは、まるで縮尺を誤った巨大な塩の柱が世界に突き刺さっているようにも見える。あるいはそれはオーパーツじみていて、この世界にあって明らかに異質だ。

「塔は見えたか?」と老鯨が言う。「まずは中央棟──一番背の高い建物の屋上に向かう。そこが塔の入り口であり、わしの目的地でもあるのだ」

 老鯨の頭が塔の方へ向く。

「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう」ノアが言った。「そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」

「なんだ、それは」

「人が神の住む天へ向かって塔を建てるという話です。結局、その塔は神様の怒りを買って、罰として言葉を取り上げられてしまうんです」

「もちろん、それには教訓があるのだろ?」

「──傲慢は破壊を招く」

「なるほどな」

 それにしても、死んでも神に祈らないし、奇跡の存在も信じていないサヤが創世記を引用するとは思わなかった。この超常的な眺望に何か思うところがあったのか……あるいは、バベルの教訓とこの都市を重ねたのか。

 塔が近づく。

 塔は中央棟の屋上から空へ突き出るようにして伸びていた。本当は中央棟が塔を巻くようにして建っているのだろう。中央棟は塔の外径よりも大きい。塔に真ん中を刳り貫かれたドーナツ型の屋上には四角いペントハウスと、それに匹敵するサイズのアンテナが据えられている。

 しかし、僕の目はそのどれにも留まらなかった。あるいは神話の遺物であるとされる白い塔でさえ、その時の僕の注目に値しなかった。それよりも、もっと奇妙なものが──あるはずのないものがそこにはあった。

「……気づいたか」と老鯨が言った。「頼みとは、アレのことだ――」

「ピアノ、ですか」

「ああ……アレを、一音だけでもいい、鳴らしてほしいのだ」

 僕とサヤは老鯨の背から降り立ち、ピアノの前へ進み出る。静謐に、幽玄に、抒情的に、ピアノは中央棟屋上の一角に毅然として座っている。それは完璧に磨き上げられた黒い宝石のように妖艶だ。その艶やかな筐体に頭上の星々の光が踊っている。一体、どのような経緯で、いつからここに在るのか。ここはホールでなければ、講堂でもない。そこに在るピアノを、いったい誰が弾き、手入れをしているのか。それら全く推測のしようがなかった。が、理由はどうであれ、そのピアノは毅然としていて気高く、在るべくしてそこに在るのだという説得力のようなものを放っていた。

 僕はそこに宿る魔力に惹かれるようにして、黒い宝石の閉ざされた蓋に触れ、開けた。象牙と黒檀が音階という絶対の秩序の名の下に整列している。完璧に設計された都市のようだと思う。楽器はこの世界に数あれど、ここまでに洗練され、完成した楽器はピアノ以外に知らない。

 並べられた音階の一部にそっと触れた。『ド』の鍵。フェルトが鋼の弦を打ち、澄んだハイトーンが静謐なフリュムの星空に響く。

「……おお」老鯨が呻くようにして声を上げる。

 促すように、サヤが僕の肩をピアノの方へそっと押した。

 椅子に座り、鞄から譜面帳を出して台に置いた。空想交響曲第一番。

「リルの子供たち、ね」言って、サヤは僕の左側に座った。

 鍵盤に指を乗せる。

 序奏は僕──プリモのアルペジオから始まる。そこにセコンドのベースとハーモニーが徐々に絡められ、音が徐々に厚みを増していく。

 弾きながら、僕は老鯨の紡いでいた郷愁と孤独の歌を頭の中で思い浮かべていた。彼の歌った旋律の情景と、この曲で僕とサヤが描きたかった世界は、奇しくも似ている。

 僕は音を紡ぎながら、頭の中で糸をイメージする。

 絡み合う糸が縺れないよう、それが美しい一枚の絵を織りなすよう、僕は音を編む。

 空想交響曲第一番『リルの子供たち』──それは、僕とサヤが出会って最初に作った連弾曲だった。放課後の時間を使って、僕たち以外誰もいない緋色の音楽室で作り上げた、僕たちだけの交響曲。僕の方が手が大きいという理由で、僕がプリモを担当することになったのだ。とはいえ、彼女の手だって女の子にしては大きな方で、合わせた僕たちの手はあまり大きさが変わらなかったことを覚えている。その時に触れた彼女の滑らかな手が、異様に冷たかったことも。

 空想交響曲第一番『リルの子供たち』は序奏を終えて主題へと入っていく。

 イメージするのは、海の底で孤独に窒息していく最中、その様子を小さな蝦や魚に見守られ、死ぬ間際に少しだけ優しくなれるような、そんな情景だ。

 サヤが海の持つ深潭を描き、僕がそこに差し込む光や綺麗な生き物たちを描いていく。その音の折り重なりの中に、老鯨が力強く、しかし切なげにハーモニーを重ねる。僕たちの作り出す海が、更に繊細な情景を描き出し、その青さと黒さを深めていく。

 編むようにして紡ぐ音と共に、僕たちは深い場所へと沈んでいくようにして音を奏でた。


 終奏──最後の一音がサヤの手によって奏でられ、豊かに伸びるサスティンが消え行って僕たちの演奏は幕を閉じた。

「──ハル、サヤ」心地のよい沈黙が胃の底へ落ちた頃、老鯨が僕たち呼んだ。声は相変わらず嗄れていたが、彼の表情はフリュムの広場で出会ったときより、ここまで僕たちを背に乗せながら会話していたときよりも親密に感じられた。「礼を言わせてくれ。……ありがとう」

「いえ……」なんと返すべきか、言葉に詰まってしまう。「その、僕こそ楽しかったです。まさか、ここに来てピアノが弾けるとは思っていませんでした。それに──エミールさんがいなかったら、この曲がここまで良くなることはなかったと思います」

「最高だったね」

「それはよかった。わしも、主らと出会えたことは僥倖だった」

「僥倖、ですか」それを言うなら僕たちの方だ。曲もそうだが、きっと、彼がいなければ塔のことを知ることもできなかったし、ここに辿り着くこともなかっただろう。

「わしらは」と老鯨は続けた。「わしらは音と共に生きる。歌を作り、歌い、そして回遊する。わしらにとって音とは生きることそのものなのだ。だから、こんなにも素晴らしい音に巡り会えたことを嬉しく思う」

「あなたの歌が無ければ弾けなかった」

「それでもだ」

「弾いてよかったね」サヤの言葉に僕は頷いた。

「謙虚なのだな。余計、気に入った」

「それにしても、どうしてこんなところにピアノがあるんだろう」とサヤが小首を傾げる。

「わからん。しかし、それはずっとここにあるのだ。どれだけの月日が流れても姿を変えないままここに在り続けているが、音を聞いたのは今日が初めてだ。わしではこの楽器を鳴らせないし、一度だけ何とかして鳴らそうと鍵を押してみたこともあったが、何も鳴らなかったのだ。やはり、ヒトという生き物は不思議なものだ……」

「エミールさんは、この後どうするんですか」

「ここで、星でも見ながら死を待とうかと思う」そう死を語る彼の表情はやはり穏やかで、今では昏かった彼の双眸は憑き物が落ちたかのように澄んでいた。ともすれば宗教的とも思える彼の希死念慮は、とても清らかだった。

 ああ、と思う。僕たちが彼の最後の心残りを叶えたのだ。 

 これで良かったのだろうか。問われれば、僕はわからないと答えるだろう。否定や肯定という二元論は、ここにあっては最も相応しくない。僕にできることは、彼の死が安らかにあるものであれと願うことだけだ。

「さて、後は主らを見送るだけだな」と老鯨が言った。

 僕たちは鍵盤に蓋をし、譜面を鞄に仕舞ってから椅子を立つ。

 次の世界への入り口であるという白い塔は、絶対的な質量を持ってそこに聳えて空を穿っている。老鯨は白い塔の前まで僕たちに付いていてくれた。

「なんか緊張するね」とサヤが言う。「どんな感じなんだろう」

「話によれば、その表面に黒い切符を翳せば扉が開くというが……わしにも分からん」

 とりあえず、その話通りに切符を翳してみた──次の瞬間、塔の表面に幾何学的な模様が光となって走る。次いで鳴った重低音は僕の耳でやっと聞き取れるほどのサイン波で、その一連のプロセスはまるで電子機器の起動シーケンスのようだった。

「おお……」と老鯨が感嘆し、「動いた!」とサヤが声を上げる。

 それから「中層へのアクセス権を確認しました」と機械っぽい声が告げ、のっぺりとした塔の表面に線が入るとパネルがスライドして開くと、小さな四角形の空間が現れた。

「なんか、エレベーターみたいだね」とサヤが言う。

「いや……実際そうなのかも」だとすれば、塔という形状にも納得がいく。塔は空の上の見えない高さまで伸びていた。「これで、上に行くんじゃないかな」

「宇宙とか?」

 まさか、と言いかけたが否定できない。

「エミールは何か知ってますか?」

「いや……わしも正直驚いている。だが、そうだな……古くからの言い伝えがある。この世界は幾つもの層になっていて、白い塔がその世界を一直線に貫いているのだ──と」

「ってことは──」

「それはきっと、上の層へ行くための装置なのだろうな」

「なんとなく納得できるような……そうでないような」

「とりあえず、乗ってみない?」

「そうだね」頷く。「エミールさん、僕たちそろそろ行きます」

「ああ……」

「バイバイ。素敵な鯨さん──楽しかった」

「わしも楽しかったよ。最期に会ったのが主らでよかった」

「じゃあ、エミールさん。ここまで本当に、ありがとうございました」

「ハル、サヤ──主らの旅が実り多く豊かで、そして美しくあることをここから祈っている。願わくは、その旅の帰結が安らかであらんことを」

 僕たちは踵を返し、塔内部の空間へと乗り込んだ。

 扉が閉まる直前、老鯨の嗄れた呟きが風に乗って僕の耳朶に届いた。

 ──なんだか、神話の一頁に立ち会ったような気分だ。彼の声は、夢を見ているように満ち足りたような響きを伴っていた。


 塔内部の白い空間は、僕たちが乗り込んで暫くすると、フリュムの海中列車の車窓と同じく壁面に外の様子が映し出されるようになっていた。

 どうやら、それは本当にエレベーターだったらしい。壁面に映る景色で分かった。まずフリュムが遠ざかって海が見えた。やがて都市が小さな点になっても、地上には海と廃墟の残骸以外のものが見えることはなかった。海は、その濃紺の下に全てを飲み込んでしまっていた。そして、その地平線の遙か彼方では、依然としてオレンジ色が――曰く、戦火が炸裂と収束を繰り返している。

 音も、重力による慣性も振動もなく、なにか透明な糸で真っすぐに引かれているかのようにして塔は僕たちを上へと運んでいく。

 一体、このエレベーターを上がりきった先にはどんな景色が広がっているのだろうか。

 僕は黒い切符を取り出して見た。

――これは三次空間の方からお持ちになったのですか。

 ふと、電話頭の駅員の言葉を思い出す。

 電話頭の駅員、喋る鯨、水没した都市、僕たちが乗るエレベーター、各地に点在する不可思議なピアノ――この世界のあらゆる現象が僕の知る世界とかけ離れていた。僕たちは本当に、元いた世界とは違う場所に来てしまったのだ。

 夜空が近づいてくる。

 それから僕は、今まで僕が星空だと思っていたものが、さかしまに生えた巨大な機械の集合体と、それが放つ信号的な光だということを知った。天蓋から無秩序に生えた機械はまるでさかしまな都市のように見えた。それがなにがしかの信号を受けているのか、あるいは状態を表しているのか、先端に取り付けられた光球から光を放って明滅している。そして、僕はその機械で作られた天蓋を夜空だと思い込んでいたのだった。

 これにはサヤも驚いていて「なんか──すごいね」と、言ったきり茫然として外を見ていた。ここに来て、やっと老鯨の言っていた、別々の世界が層になってそれを塔が貫いているという話に納得できた。この天蓋が、世界と世界の区切り目なのだろう。

 塔から見える景色が暗く覆われる。機械群の辺りへ差し掛かったのだ。

「そろそろだね」と僕が言う。

 この先には一体なにが待っているのだろうか。

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(仮題)灰青巡礼記 @TriggerHappyTK

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