濡れ、溺れる

桜木鈴花

濡れ、溺れる

 左手が緩んでしまった。

「割れるんだったらもっと粉々になっちゃえばいいのに」

 私は、地面に落ちた砂時計を睨みつけながら、ポツリポツリと言葉をこぼす。

 砂時計はひっくり返せば時を刻むことができる。しかし、ガラスを割って空っぽにしてしまえば、時を刻むどころか砂時計としての存在価値がない。まるで、私を見ているようだった。


 高校1年の冬、初めて年上彼氏ができた。廊下でぶつかったのがきっかけだった。

「大丈夫? ごめんね。千春ちゃんだよね? 俺、秀だけど憶えてる?」

「大丈夫です。ごめんなさい。秀先輩? あ、あの時の……」

「憶えててくれたんだね。良かった。LINE交換しない? せっかく久々に会えたんだしさ」

「は、はい。ありがとうございます」

 嘘をついた。全く憶えていない。

 秀先輩と出会ってから、毎日が幸せで嘘をついたことなんて忘れてしまっていた。先輩といると、私の感情は風に舞う花びらのように、無抵抗に動き回る。悲しいこと、辛いことがあれば先輩の胸で泣くこともある。

「大丈夫? 無理していない? 沢山泣いていいんだからね。甘えてね」

 笑顔でいるといつも心配してくれる。初めての感覚だった。初めて自分を肯定し、初めて自分の存在を認めることができた。自分の影を見つけた時に感じる安心感のようなものだ。

 しかし、その夢のような時間はあまり続かなかった。

 先輩が他の女子とキスをしている姿を見てしまった。木漏れ日の中で2人は微笑んでいる。でも、私はその姿を見ても、涙を流さなかった。

『やっぱり私は存在価値がない。私は何者なのだろう。また空っぽになっちゃったね、私』

 自分で自分に言い聞かせている。

 今日は夕方から雨とか言ってたっけ。でも傘は盗まれていた。よくある話だ。別にどうでもいい。

 雨が心地いい。雨に溺れることは今の私にとっては好都合だ。泣いているようには見えないだろう。感情なんて自分にはないはずなのに、何故か涙が溢れている。涙が流れている感覚さえわからないほど、感情というものが、私の中から消えてしまっている。

 空っぽになった私の目の前に、先輩が現れる。

「千春、ごめんな。好きな人できちゃったんだよなー。さっき見せつけたのに涙すら流さなかったな。涙を流すお前が好きだったのに。あー、ちなみに、過去に会ったことなんかないから」

 どうやら、先輩の目には、涙を流す私の姿がとても美しく映っていたらしい。思いがけない言葉に、空っぽの私でも目に溜まった雫が勢いよく流れているようだった。

「お前の悲しむ顔、苦しむ顔、泣いている顔、最高に可愛かった。大好きだったよ。最高のエンディングだな」

 こんなことを言われながら抱きしめられる。抱きしめられる時は、確かに私が辛かった時ばかりだ。笑顔のときに「沢山泣いていいんだからね」と言ってくれていたのはそういうことだったんだね。

 苦しい顔が美しく、涙を流す姿が綺麗、それが私の魅力だってこと。彼にとってはその姿が必須条件ってこと。だから今もこうして抱きしめてくれている。そんなことを考えていたら、目から流れる雨は止んでいた。

 いつの間にか先輩は私のことを置いて去っていった。傘のような人だ。雨が降れば守ってくれた。でももう雨が降っても傘はない。びしょ濡れになるんだね。自分の存在を認めてくれる場所はもうないんだね。

 晴れている時は、傘も凶器になる。私が笑っている時は、狂気的な彼だった。


 後日、担任の篠崎先生に呼び出された。セーラー服がびしょ濡れのまま帰った私を見たらしい。

「最近大丈夫か? 心ここにあらずって感じだな」

「彼氏と別れただけなので」

「そっか。そんなこともあるよ。話を聞くことしかできないけれど、今度うちに来なさい。彼女も話聞いてくれるからさ」

 正直もうどうでもよかった。可愛いと噂されている彼女を見ることができるなら、行ってもいいと思った。それに、イケメンと言われている先生に呼び出された自分に、存在価値を感じている。

 先生の家の最寄駅まで行くと、優しい笑顔で待っていてくれた。家へ入ると、白を基調としたおしゃれで清潔感のあるインテリアが並べられている。

「先生、彼女さんは? 」

「あぁ、出張で海外に行っているよ。言ってなかったっけ」

 彼女さんには内緒で私のことを呼んだらしい。いや、呼んでくれたらしい。

 空っぽだったところに、内緒、秘密といった刺激物が入るだけで、私の感情が高ぶる。哀愁漂う落ち葉が勢いよく舞うように無抵抗に動いてくれている。この感情の動きが心地いい。

 いつの間にか先生の手が私の頬を撫でている。

 愛情を奪われた私の唇に、狂おしい快楽を求める唇が重なる。自分の存在価値を感じる。もっともっと秘密を作りたくなる。舌を出し、先生をしびれさせる。先生を好きになることはないけれど、ただ刺激物が欲しいだけ。刺激物が入ればもっともっと自分の存在価値が高まる。それだけでいい。

「千春はいい子だね。抵抗しないんだ。言うことなんでも聞いてくれるよね」

 セーラー服だけを私に着せ、シャワールームへ連れていかれる。先生は何も言わず、くすぐったいくらい少量の水を首にかけてくる。水が胸元へ流れ、陰部にも流れる。冷たい水と先生のにやけた顔が私の感情を刺激する。

「制服が透けている千春がかわいい。綺麗だよ。舌出して」

 先生は、上から下までびしょ濡れになった私に言う。でも、舌を出してもキスはせずに、陰部に手が伸びてくる。

 私は卑猥な目でキスを求めて、いつの間にか、秘密という刺激物から快楽へと変わり、その快楽を与えるものに愛情が芽生えてしまっていた。

 ホームルームで、先生が結婚すると聞いた時に、ちゃんと私は悲しかった。悲しいという気持ちに気づいた時、ちゃんと私は生きているんだと少しだけ安心した。


 寄り添うように差し込んだ木漏れ日が、雪を溶かしている。地面から目線を逸らすと、幼馴染の海斗が目の前にいる。海斗は秀才で、私以外の人には優しい。クールで少しミステリアスな部分が魅力的でモテるらしい。私に対してだけ、昔から毒舌で冷たい。首から流れるあの水のように冷たい。

「なんで生まれてきたの。生きている価値とか存在価値とかなに。お前、先生の家まで行ったよな。駅で車に乗るところ見ちゃったんだよね、塾の帰り。皆にばらしちゃうー?」

 流石に怖くなった。でも、「やめて」と涙が流れるくらい弱々しい私の声は、海斗に届かないだろう。

「はぁ、お前泣いてんの。それ、なんの涙。一人ぼっちで寂しくて泣いてんの? ばかじゃないの。これからどうすんの。そういうのムカつくんだよ。なんで生まれてきたの。誰のためにここにいるの」

 飛んでくる言葉が刺激物ではあるものの、流れるはずの涙が出ない。自分が空っぽになっている証拠だ。

「分からない。そんなの難しすぎるよ。どうしてそんなに私のことだけ雑な扱いするの?」

 出てきた言葉がこれだった。どうして私のことだけ……。

「お前の口癖、存在価値だよな。存在価値ってなんなの。そんなに周りに振り回されて生きていることに価値を感じているのか? もっと自分見ろよ。もっと自分のこと大事にしろよ……。俺の許可なしで他の男といちゃいちゃするなよ……」

 初めて弱々しい声を聞いた。こんな海斗を見たのは初めてだ。今までにない刺激物が私に流れ込む。氷が溶けるように、固く縛られた私の感情が一気に解けていくのがわかる。同時に目から雨が滴り、全身の力が抜けて左手が緩んでしまった。

「割れるんだったらもっと粉々になっちゃえばいいのに」

 私は、地面に落ちた砂時計を睨みつけながら、ポツリポツリと言葉をこぼす。

 砂時計はひっくり返せば時を刻むことができる。しかし、ガラスを割って空っぽにしてしまえば、時を刻むどころか砂時計としての存在価値がない。まるで、私を見ているようだった。

 とても悲しいはずなのにとても寂しいはずなのに、身も心も粉々になりきれず、中途半端にポツリポツリと静かに涙が滴るだけ。

 目の前の海斗が背を向け、徐々に遠くなっていく。彼は私を置いて先へ先へと進んでいく。

 他の女子から声をかけられ、楽しそうに話す海斗。クールに笑った横顔が愛おしくてたまらない。嫌だ嫌だ誰にも取られたくない。寂しくて不安で目から雫が垂れる。初めてこの人に甘えたいと思った。

 海斗はこっちを振り向く。呆れた様子で私のもとへくる。涙ぐんだ私を見るや否や

「なんで着いてこないの」

 強引に抱き寄せられ、海斗の左手が私の頭に触れた。私は海斗の優しさと温かさに触れた。身体は正直だ。海斗の胸で声を殺し泣いている。

「帰るぞ」

 涙を浮かべる私の手を引っ張り、海斗の家へ向かう。いつぶりだろうか。昔はよく来ていたっけ。

 部屋に入ると海斗はまた私のことを抱きしめた。抱きしめてくれた。頭を撫でる手はどこかぎこちなくて、でもとても優しくて温かい。

 海斗の顔を見たくなり、少しだけ離れた。海斗の目には光るものが見えた。

「お前さ、なんで気づかないの……」

 愛おしくて、たまらなくて、私は海斗にキスをした。


 私は海斗に溺れた。

 心の奥に隠した彼の言葉に溺れた。

 嘘偽りのない本当の優しさの海に溺れた。

 私は、今、本当の愛に溺れている。初めて、私の目に映る世界全てを、彼に見せたいと思った。

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