第2話 太宰と婚約者


「富嶽百景」の中で、太宰が茶屋(宿)の十五歳の娘さんに、「やはり、富士山は、雪が降らなければだめだ」と言う場面がありました。

この娘さんがなかなかおもしろくて、もしこの作品を映像化するなら、この役の子は演技のしがいがあるだろうとか、うまく演じたらぴかりと光るだろうなとか思いました。


このほかに、もっと光った人がいます。

出番は二回しかなく、セリフがあるのはそのうち一回だけなのですが、存在感がありました。それは彼の婚約者、つまり後に太宰の奥さんになった人です。

これは小説ですが、かなりの部分は真実なのではないかと思われます。


最初にでてくるのが、井伏鱒二が御坂峠の宿を引き上げることになり、太宰は甲府までお供します。その時、彼の世話で見合いをすることになり、女性の家を訪れますが、その時の文章です。


          ☆    ☆    ☆

【太宰】


母堂に迎えられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出てきて、私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、

「おや、富士」と呟いて、私の背後の長押を見上げた。

私も、身体を捻じ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真(ちょうかんしゃしん)が、額縁にいれられて、かけられていた。真っ白い睡蓮の花に似ていた。

私はそれを見とどけ、また、ゆっくりからだを捻じ戻すとき、娘さんを、ちらりと見た。

きめた。

多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士はありがたかった。



        ☆    ☆    ☆


女性が何歳だとかは書かれていないのですが、女性経験の浅くない太宰が、女性の顔を見なかったって、どういうことでしょう。この時、太宰は30歳近いはず。まさか、恥ずかしがっているのですか。

そして、長押(壁の上の横柱)の上に飾られていた富士山噴火口の上空写真を見て、身体を戻す時、その女性をちらりと見て、「この人と結婚したいと思った」と書いてあります。

見合いですから、この女性のことは聞いていたと思いますが、こんなちら見で、決めることができるものでしょうかね。

とにかく、彼女は、太宰に結婚を即決させた女性なのです。


本の中では、次に会うのは、太宰が実家からは資金援助が全くしてもらえないとわかり、縁談を断られても仕方がないと説明に行った時です。


            

             ☆  ☆  ☆


【太宰】


「それで、おうちでは、反対なのでございましょうか」と(婚約者は)首をかしげて私に尋ねた。

「いいえ、反対というのではなく」

私は右の手ひらを、そっと卓の上に押し当て、「おまえひとりで、やれ、という具合らしく思われます」

「結構でこざいます」

母堂は、品よく笑いながら、「(中略)ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで、私たち、結構でございます」

私は、お辞儀するのも忘れて、しばらくは呆然と庭を眺めていた。眼の熱いのを意識した。この母に、孝行しようと思った。


帰りに娘さんは、バスの発着所まで送ってきてくれた。歩きながら、

「どうです。もう少し交際してみますか?」

きざなことを言ったものである。

「いいえ。もう、たくさん」

娘さんは笑っていた。

「なにか、質問ありませんか?」

いよいよばかである。

「ございます」

私は何を聞かれても、ありのまま答えようと思っていた。


「富士山には、もう雪が降ったでしょうか」

私は、その質問に拍子抜けがした。

「降りました。いただきのほうにーーー」

と言いかけて、ふと前方を見ると、富士が見える。へんな気がした。


「なあんだ。甲府からでも、富士が見えるじゃないか。馬鹿にしていやがる」

ゆくざな口調になってしまって、「いまのは愚問です。ばかにしていやがる」

娘さんは、うつむいて、くすくす笑って、

「だって、御坂峠にいらっしゃるのですし、富士のことでもお聞きしなければ、わるいと思って」

おかしな娘さんだと思った。


          ☆   ☆    ☆


この娘さんがいくつで、どんな人なのかは小説の中には説明がないのですが、

この母娘は、この結婚話を進めたいと思っているようです。

それは、どうして?

この小説には書かれてはいませんが、彼がそれまで、過去に心中やら自殺未遂をしていることとかは、知っているはずですよね。井伏先生の推薦なので、すっかり信頼しているのでしょうかね。

父親の姿がありませんから、母娘ふたりなのかもしれませんが、もしかして、この娘さんは何か負い目があるのでしょうか。出戻りとか、どこかが悪いとか、何か普通のサラリーマンなんかとは結婚できない事情があるのでしょうか、なんて思ってしいました。


「もっと交際しますか」という太宰の質問に、「いいえ、もうたくさん」と答えます。たくさん?

小説では二回目の出会いなのですが、それ以外に会ってデートなんかしたのでしょうかね。それとも、当時はこんな具合だったのでしょうか。

それで、最後のところ、「何か質問ありませんか」に対して、彼女は「ございます」

太宰は過去の女性のこととか、自殺未遂のこととかを聞かれると思い、何でも話そうと覚悟するのですが、質問は富士山のこと。

ここで、この女性の魅力が現れています。


太宰は目の前に、富士が見えているのに気がついて、

「馬鹿にしていやがる」、「愚問です。ばかにしていやがる」と急にやんちゃになります。

こういう温度差に、女性は惹かれるのでしょうか。

彼女はそれに対して、恥ずかしがったのか、それとも彼の子供っぽい面が見られてうれしかったのか、下を向いてくすくす笑い、

「御坂峠にいらっしゃるから、富士のことでもきかないと、悪いと思って」と意外なことを言います。


彼女って、なんか、観音さまみたいな人じゃないですか。

太宰は「おかしな娘さん」だって書いていますが、これって、最大級の誉め言葉ですよね。


「富嶽百景百景」は久しいぶりに読み直しましたけれど、つくづく傑作だと思いました。

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太宰の富士と見合い 九月ソナタ @sepstar

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