太宰の富士と見合い

九月ソナタ

第1話 太宰と富士



太宰治の「富嶽百景」の書き出しはこうです。


富士の頂角、広重の富士は85度、文晁 (ぶんちゅう)も84度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西及南北に断面図を作ってみると、東西銃弾は頂角、124度となり、南北は170度である。

広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたっては、ほとんど30度くらい、エッフェル鉄塔のようん富士をさえ描いている。

けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさとひろがっており、(中略)決して、秀抜の、すらりと高い山ではない。

たとえ私が、インドかどこかの国から、突然、鷲にさらわれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落とされて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだろう。ニッポンのフジヤマを、あらかじめ憧れているからこそ、ワンダフルなのであって、そうでなくて、そのような俗な宣伝を、いっさい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果たして、どれだけ訴え得るか、そのことになると、多少、心細い山である。

低い。

裾のひろがっている割に、低い。あれくらいの裾をもっている山ならば、少なくとも、1.5倍、高くなければならない。


(旧字体や数字、間隔など、読みやすく描き直しました。

以後、【太宰】と記したところは、彼の文章の引用です)



           ☆  ☆  ☆



この主人公は富士山は俗だと言って、文句たらたらです。彼は今、こういう精神状態だということですよね。


太宰の文章を読んで、まず気がついたことは、読点の多いということ。

昔、読点はその人の呼吸と比例し、健康を害している人は「、」が多いと聞いたことを急に思い出しました。これって、彼の文章の特徴なのでしょうかね。


さて、「インドかどこかの人が、鷲にさらわれて」というところは、太宰でも、こういう子供っぽい(?)例を出すのかと思いましたが、「フジヤマを知っているからワンダフル」というところはさすがうまいと大笑いでした。


ところで、文章のはじめに、広重と並んで文晁の名前が出てきます。

現在、北斎や広重を知らない人はいないでしょうが、文晁はそれほど知られてはいません。

でも、この書き方からみて、この本が書かれた頃(昭和14年)には、文晁と言えば、誰もが知っている絵師だったようです。


彼は谷文晁(1763-1841)、

彼の「富士山図屏風」は近況ノートに載せてみました。

気品のあるすばらしい富士山ですね。

今回は富士の頂角に注目なのですが、たしかにとんがっています。


さて、太宰の「富嶽百景」に戻ります。

太宰は甲府の三坂峠の頂にある小宿に泊まっているのですが、そこから見える富士山はあまりに定番(今の言葉ではステレオタイプ)すぎて、恥ずかしいとまで言っています。


          ☆    ☆    ☆

【太宰】

私は、(富士山を)あまり好かなかった。好かないばかりか、軽蔑さえした。あまりにおあつらえ向きの富士である。(中略)私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも、注文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった。


          ☆    ☆    ☆



私(太宰)は井伏鱒二先生が仕事をしている宿まで訪ねてきたのですが、その時は富士を軽蔑しているぐたぐたと悩める青年なのでした。しかし、富士山と人々との出会いを通して、(これは短編小説なので)みるみる彼は変わっていきます。

富士は、のつそり黙つて立つていて、偉いなあ、と思うようになります。

「いいねえ。富士は、やつぱり、いいとこあるねえ。よくやつてるなあ」

富士には、かなわないと思うのです。

「念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い」と書きます。


ある時、遊女の一行がやって来ます。



【太宰】

私は、ただ、(遊女たちの不幸)を見ていなければならないのだ。苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない。それが世の中なのだ。

そう無理につめたく装って、彼らを見下ろしていたのだが、私は、かなり苦しかつた。

富士にたのもう。突然それを思いついた。

おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持で振り仰げば、寒空のなか、のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然とかまえている大親分のやうにさえ見えたのである。


   ☆    ☆    ☆


太宰は自分の運命も、この親分に託したような気持ちになったようです。その時、せっかく決まりかけた縁談があったのですが、家からは援助しないと言われ、意を決して、その話を断りに行きます。 (そのことは2話に書きます)

                     


最後はこのように締めくくられています。


          ☆  ☆   ☆

【太宰】


真ん中に大きい富士、その下に小さい、罌粟けしの花ふたつ(女性たちのこと)。ふたりお揃いの赤い外套を着ている。ふたりは、ひしと抱き合うように寄り添ひ、きつとまじめな顔になつた。

私はおかしくてならない。カメラ持つ手がふるえて、どうにもならなく、笑いをこらへて、レンズをのぞけば、ふたりはますます澄まして、固くなつている。どうにも狙いがつけにくいから、私はふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ。

「はい、うつりました」


そのあくる日、山を下りた。まず、甲府の安宿に一泊して、そのあくる日、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出している。ほおずきに似ていた。


          ☆  ☆  ☆


山を下りることを決めた彼は、

東京からくた女性達に頼まれてカメラのシャッターを切りながら、

「富士山、さようなら、お世話になりました」

と言います。

「お世話になりました」はよかったですね。

太宰って、この人かわいい、と思わせる部分がいくつもありますよね。



富士がほおずきに似ていたって、どういうことでしょうか。

小な富士が、ほほおずきみたいな赤かったということ?

富士が笑っているように見えたということでしょうか。


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