salty memory candy

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)

第1話



 海が近づいたことに、いち早く気づくのは肌だと思う。

 まろやかな刺激が、ぴりりと走る。

 潮風。


 鼻腔まで海が届くのはもう少し先だ。なんでって、この街は車が多いから。排ガスやら、生活の香りがなかなか強い。

 そういえば、パン屋のおばさんが言ってたや。「潮風にやられて、車がすぐに錆びるんだ」って。

 海と錆はセットなのかもしれない。

 ここに居たら、僕も車みたいに錆びるのだろうか。

 今でも十分、錆びているけど。


 小腹満たしのクロワッサンと、その辺で買った缶コーヒーを手に、潮が濃い方へと進む。

 大きく開けた視界。

 空と海の色。

 コンクリートに囲まれて、ここしか進んでは行けませんと通せんぼする街とは違い、道なき海は自由の場所だ。

 まぁ、波に揉まれて行きたい方へと行けないのだろうけれど。それでも、自由に道を選べるような気がする。


 ピカっと眩しい太陽が、水面にぶつかりきらりと光る。


 潮風で肺をいっぱいにして、視界は海でいっぱいにして、お腹はパンとコーヒーで満たす。

 時間がゆっくりと流れていく感覚。

 日常からちょきんと切り離されたような、そんな気分。

 そう、あそこだ。

 あの、空と海の間――水平線。

 あそこが切り取り線で、僕はちょきんて氷山みたいに千切れてぷかぷか浮かんでる。


 地に足つけろと言われるけれど、ずっと重力に襲われながら足を出すのは、どうにも疲れてしまう。けれど、穏やかな海は、浮力で僕を癒してくれる。たとえ、実際、水に浮かばなかったとしてもだ。


 ぼぅっと、空を駆ける大きな鳥を見ていた。

 あぁ、いいな。浮かぶっていいな。

 なんで人間には、羽がないんだろう。

 鳥っていいな。

 空を飛べて。

 あぁ、鳥って海に潜れたっけ?


 飛びたい、という衝動が、僕を突き動かしていた。

 海に向かって飛び立とうとした僕の前に、トコトコと女の子が歩いてきていたことに、ぶつかるまで気づかなかった。


 うわーん、と泣いた女の子にお父さんが近づく。

 ペコリペコリと平謝りした。

 ちゃんと周りを見ていれば、こんなことにはならなかった。

 ごめんね、と謝っても、女の子は泣き止まない。

 お父さんが優しく声掛けするも、うわーんがぐすんぐすんになる程度だった。

 子どもとの接点なんて僕にはなくて、だからどうしたらいいのかも分からない。

 こういう時、親ですら宥められない子どもを、赤の他人が宥めようとすることは無謀なのだろうか。

 なにか、なにか。僕にできることはないか――?

「そのりんご飴のキーホルダー、可愛いね」

 女の子の小さなバッグでゆらゆら揺れる、赤りんごを指差し言った。

「りんご飴、好きなの?」

「……うん」

「そっか」

 お父さんが微笑みながら「前にこの子がお祭りで『りんご飴食べたい』って言ったことがあるんですけどね。『りんご飴なら私が作る』と妻が言って。それはそれは不恰好で、飴がベタベタの毒林檎みたいなものを作り上げて」

「毒林檎じゃないもん!」

「でも、ママが『これじゃ毒林檎ね』って言ってたよ」

「でも、ちがうんだもん!」

 ふたりから、まろやかで、ピリリとした何かを感じた。

「上手にできなかったからって、代わりに美味しそうなこのキーホルダーを買ってやったんですよ」

「そうだったんですね。じゃあ、今度のお祭りで――」

「ママ、今お空にいるから」

 あぁ、ふたりから感じるこの痛みのわけは――

「お祭り、一緒に行けないの」

 ポロリ、としょっぱい雫が落ちた。


「ちょっと、時間ありますか?」

「……え? あ、はい。遊びがてら散歩していただけですから」

 僕は急いで飴屋さんを検索した。

「あの! ちょっと遠いんですけど、ここ行きませんか? ぶつかっちゃったごめんなさいで、僕から君にこれをプレゼントさせてくれないかな?」

 ふたりに見つけたりんご飴屋さんのサイトを見せると、お父さんは遠慮して、女の子は飛び跳ねた。


 赤が似合う街に、赤が並んでいた。

「りんご飴! りんご飴!」

 すっかりご機嫌な女の子を見ていると、自然と頬が緩んだ。

「すみません」

 お父さんが飴屋さんに似合わぬ苦い顔をするので、

「こちらこそ、ぶつかった挙句付き合わせてしまって」

 また、ペコリペコリと頭を下げた。


「りんご飴食べたいって、この子、よく言っているんですよ。でも、手を伸ばすのがなんだか私には苦しくて。だから私からこの子に買ってあげられなかったんです。大人げないですよね。すみません。ありがとうございます」

 トロンと垂れる、飴みたいに。お父さんが笑った。


「やったー! りんご飴!」

 るんるんの女の子が、りんご飴に齧り付く。

 パリッとした飴が、割れてポロポロと落ちた。

「コラコラ」

 お父さんは女の子が飴を見るのと同じ、甘〜い目で女の子を見ていた。

「んー」

 急に難しい顔をした女の子を見て、男ふたりが凍りついた。

「ママのベタベタのやつが世界で1番美味しい!」

 ニカっと笑ったその顔を見て、男ふたりが笑って泣いた。


 僕まで泣いた。


 ふたりと別れ、海に戻る。

 潮風に頬を拭われた。

 心の錆が、取れた気がした。



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salty memory candy 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya

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