『同士少女よ、敵を撃て』の感想

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『同士少女よ、敵を撃て』の感想

『同士少女よ、敵を撃て』

 著者 逢坂冬馬

 早川書房 本体一九〇〇円(税別)


 本書は、第二次大戦のソ連とドイツとの戦争を描いた、女性狙撃兵の話である。


 一九四二年、モスクワ近郊の農村に暮らしていた少女セラフィマは、ドイツ軍に母親や村人たちを惨殺される。自らも殺されそうになるところをソ連赤軍の女性兵士イリーナに救われ「戦いたいか、死にたいか」を問われ、母を撃ったドイツ人狙撃手イェーガーと母の遺体を焼き払ったイリーナに復讐するため、訓練学校で一流の狙撃兵になるのを決意する。訓練を経て狙撃兵となったセラフィマは、スターリングラード攻防戦と要塞都市ケーニヒスベルクの戦いを生き抜いて復讐を果たし、戦後は愛すべき人と生きがいを得る物語。


 主人公であるセラフィマ・マルコヴナ・アルスカヤは、男性神話の中心起動で書かれている。

 狙撃訓練学校教官長のイリーナは、それぞれの人物の思いを知りながら結ばれない状況にもどかしさを感じることで共感する書き方がされている。

 ウクライナ出身のNKVD(国家保安人民委員部。赤軍と別の指揮系統で活動し、敵スパイやパルチザンの摘発、捕虜の尋問、処刑などを行う機関)のオリガは、女性神話の中心起動。他キャラはメロドラマと同じ中心起動で描かれており、個々の障害を克服するためにサブキャラが登場しては、主人公が克服することで退場、成長して前に進む中心起動が組まれている。

 また、恋愛ものでもあるので、出会い→深めあい→不安→トラブル→ライバル→別れ→結末の流れで書かれており、ラストはハッピーエンドで終わる。


 本書は第十一回アガサ・クリスティー賞の受賞作。なので、選評が書かれている。書評家の北上次郎の選評に「やや長過ぎるここと、タイトルが平板であることが気になるが」とある。

 四〇〇字詰め原稿用紙換算枚数だと一〇〇〇枚ぐらいかしらん。なかなか読み応えがある。アガサ・クリスティー賞の上限は八百枚なので書籍にする際、加筆修正されて文量が増えたのかもしれない。

 偶数章は、奇数章の倍のページ量があり、エピローグの後日談がちょっと長い気もする。戦後のことに触れないわけにもいかないので仕方ないかもしれない。

 二〇二一年十一月二十五日に発行され、二〇二二年二月二十四日、ロシアによるウクライナへの侵略が始まった。不謹慎かもしれないが、本を売る側としては実にタイムリーだっただろう。

 本書にも少し出てくるが、ベラルーシのノーベル文学賞受賞作家スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』のコミック版が出て話題にもなっていた時期。本書は今の時代に適した作品なので、関心の高さから手に取りやすいと思う。


【本屋大賞】「デビュー前夜」Vol.1  『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬インタビュー(https://kakuyomu.jp/works/16816927862276750730)にも書かれてあるように、カクヨムで先に公開されていたのがわかる。(現在は非公開)興味がある方は、本屋大賞受賞前に行われたインタビュー記事の一読をお勧めする。


 二〇二一年の秋、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領はすでに侵攻を考えており、中国の習近平国家主席にも話をしていた。中国は自国でオリンピックを控えていたため、開催国としての面子を潰されたくないから戦争するのはやめてくれと伝えていた。オリンピックが終わったからと、プーチンは侵攻を開始。パラリンピックが始まる前に攻撃を終えるつもりだったが予想外に長引き、一年経っても続いている。

 十数年前、国連で事務をしていた公務員が「為政者たちの頭の中は、第二次大戦後のままだ」と嘆いていた記事を読んだのを思い出す。

 戦争をして勝てば相手国から賠償金が得られ、戦勝国には戦争する権利が与えられる。世界五大国は戦勝国の集まりであり、ソ連は戦勝国の一つである。だから第二次大戦以降、朝鮮半島、ベトナム、中東で代理戦争が繰り広げられ、現在は自分たちの足元である西側諸国のヨーロッパで戦争が起きている。

 そんな現在の状況を学ぶためにも、第二次大戦のロシアとドイツとの戦争を描いている本書は、まさにタイムリーであり、学びのきっかけとなれる一冊だと思う。

 

 作品には大きく二種類ある。トンネルに入って中をさまい続けるのか、それとも抜け出るか。エピローグは戦後二十年以上経った話なので、後者だろう。

 前半はミステリー要素が原因で受け身になりがちな主人公が、訓練を受けてスターリングラードの攻防戦へ駆り出された後、積極的に狙撃手として敵を撃ち、ドラマを動かしていく。

 正直なところ、謎はあるのだけれども「これってミステリーなの?」と思ってしまった。ところどころモヤモヤするのだけれども、そもそも主人公が謎解きをしていない。

 起きていることが史実と合っているのか確認しようか迷った。が、手持ちの狭量の知識で読んでいくのが読書の楽しみだと思い、モヤモヤしながら読み進めることにした。

 実は〇〇でしたというのがあとで明かされ、読者としては「なるほどね」という具合に進んでいく。なので、気にする人にとってはミステリーとして楽しめるかもしれない。戦争冒険小説として楽しむこともできる作りになっているのでは、と推測する。

 たとえば、オルガがNKVDだったと明かされても、ソ連にはそういうのがあったよねと知識を思い出し、なるほどねと私はうなずいた。

 左の親指の爪を剥がされたとき、痛みを感じていないような淡々とした表現に、この作者は表面的な描写しかしないのかなと思っていると、実は予め左腕に麻酔注射してました、とあとで説明されて、なるほどねと納得させられる。

 というわけで、本作品は、女性兵士が従軍したソ連の女性狙撃手として戦いながら仲間との人間ドラマが描いた作品であり、女性が戦場で戦い、生き抜いていく冒険戦争小説の印象が強い。

 ミステリー要素は、一割くらいかしらん。

 アガサ・クリスティー賞の特徴は、本格ミステリーはもちろん、SF、ファンタジー、ホラー、冒険小説、ディストピアもの、パニックスリラー、変身譚など、型破りで独創的な作品が世に出されており、「広義のミステリー」を対象作品としている。

 なので戦争とミステリの割合が、九対一でも構わないのだ。

 第十二回に受賞する作品は、本書のような戦争を描いた冒険小説が選ばれることはないだろう。似たような作品を狙うなら、隔年を狙うべきと考える。ただし、本書とは違った切り口が必要だろう。


 そんなことはなく、充分ミステリーとして読むこともでき、「『同志少女よ、敵を撃て』のミステリー、その謎と混乱。」作者 秋山完(https://kakuyomu.jp/works/16816927862401492516)では、謎解きをされている。

 おかげで、読んでいたときに私が抱いたモヤモヤ感が晴れた気がした。なので、謎が気になる方は、秋山 完さんが公開されている内容を一読されるのをお勧めする。


 本書を読んだとき、村上龍の『五分後の世界』の戦闘描写がふと思い出された。

 果たして、どちらが生々しく描けているのかしらん。

 比較する必要はないのだけれども、たしか村上龍は戦争の映画や映像をひたすら見て文章に落とし込んだ、とエッセイに書いていた記憶がある。

『同士少女よ、敵を撃て』の主要参考文献一覧をみると、映像資料が記載されていない。なので、書籍資料からフィクションとノンフィクションを描いたところは感嘆する。緊迫感はたしかにあるし、生々しさもあるのだけれども、やや戦闘に淡白さを感じた。生々しい戦闘を描くことを主題にしていないからだろう。

 セラフィマが女性兵士として戦場を体験し成長する中で、感情面が薄れて理性的に任務を遂行していく姿を描いているからと推測する。それでも感情的になる場面はあり、後半は戦争よりも暴力的なことを描いている。戦争は暴力なのだから「初めから暴力が書かれている」と指摘されると、おっしゃるとおりなのだけれど。


 前半はじめ、自分の親を殺されソ連赤軍に助けられたセラフィマは「戦いたいか、死にたいか」とイリーナに問われ「死にたいです」と答える。すると食器を打ち砕かれ、「お前は死ぬのだから、家族は死んだ、村人も死んだ。したがって我々は焦土作戦を行う」と母親の亡骸とともに家が燃やされ、「お前は戦うのか、死ぬのか」とまた問われる。今度は「殺す!」「ドイツ軍も、あんたも殺す! 敵を皆殺しにして、敵を討つ!」と答える衝撃な場面は凄まじいし、主人公が狙撃兵として戦場を生きていく強い動機付けが描けているところはすごいと思う。

 でも私は、母親の亡骸を燃やす指示を出したイリーナは優しい人だと思った。火葬してくれているのだ。しかもセラフィマに「戦いたいか、死にたいか」と聞いた場面では、主人公は死にたいと答えたら、使っていた思い出の食器を壊して、再度聞き、なんとか生きる意志をもたせようとしている。

 セラフィマと出会う前に、同じような目に合った少女と出会ってきているはず。生きることに絶望した彼女たちに生きる力を取り戻し、救おうとしていたのだと思う。おそらく、セラフィマが「戦いたい」というまで壊し続けたはず。戦うとは「生きる」ことだから、イリーナはセラフィマに、生きたいか死にたいかを問うていたのだ。

 

 スコープとミルの単位、スコープを覗きながら距離と見え方を、頭で考えるより体で覚えていく辺りは、リアリティーを生んでいて「いいな」と思った。

 わざわざ作戦に星の名前を用いる理由も「大規模作戦に惑星の名前を付けて兵士たちに壮大さを印象付け、連続性を意識させることを志向していた」とあり、なるほどねと納得すると同時に、ソ連の影響を受けている北朝鮮がミサイルに「火星十五号」と名前を付けるのも、同じ理由からなのかと考えると、作品にリアリティーが増してくる。よくよく調べて書かれているところは見習うべき、と痛感する。

 なのに、アニメやマンガなど、コミカライズできそうな作品という印象を受ける。文量はかなりあるのだけれども、ある意味読みやすく、ラノベっぽさを感じる。


 理由の一つは、読みやすさ。

 読みやすい小説がすべてラノベなのかと言われると、そうではない。

 読みはじめた頃は硬派な作品かと思っていた印象は、読み終わって振り返ると、ラノベっぽいと思えていた。

 狙撃するときカチューシャを歌う場面から、アニメ『ガールズ・パンツァー』を想起したから、という事はない。ターニャと呼ばれる看護師が出てくるので『幼女戦記』を想起するから、でもない。

 現在のロシアが同性愛禁止であるように、当時も同性愛が犯罪とみなされていたソ連で、百合が描かれている。本書の主軸にあるのは戦争ではなく、百合の恋愛なのだ。

 ちなみに、村を焼いたのはドイツ兵だと後半以降で明らかになるので、復讐の対象であったはずのイリーナと、共にエピローグを迎えることができる。

 また、女を犯していた味方を撃ったことをドイツ兵のせいにする際、セラフィマはドイツ語を正しく翻訳しなかった。母や村人への復讐のためもあるだろうし、そうしなければ自分が軍法会議にかけられてしまう。

 そんなセラフィマの行動にイリーナは気づいているし、共犯となるから、二人で過ごすエピローグへと進めたのだろう。

 本書での戦時中、リュミドラ・パヴリチェンコが平和になったら「愛する人と生きがいを手に入れろ」と語っており、イリーナとともに暮らしている主人公のセラフィマは「私は、二つ手に入れた。二つとも手に入れられたんだ」と語っているので、百合のハッピーエンドで終わる。

 

 作品の裏テーマがあるなら、「女が男を殺す、もしくは復讐する」であろう。

 主人公のセラフィマはイリーナから、何のために戦うのかと問われて「女性を守るために戦う」と述べている。

 主人公はドイツ軍に母親と村人を殺される。当時、女性兵士がいたのはソ連であって、どの戦場でも戦っていたのは男。

 敵であるドイツ兵は男。平たくいえば、住んでいた村や街を破壊し、戦争をしているのは男である。

 しかも後半、男の兵士が女性を犯す話が出てくる。

「自分はそういうことしたくなくても、やらないと周囲からのけもの扱いされるから仕方がないんだよ、でもぼくはそんな事しないよ」と語っていた、同じ村に住み、いつかは結婚すると思っていたミハイル・ポリソヴィチ・ボルコフがドイツ女性を犯しているのをセラフィマは見つけ、タイトル回収のごとく「同士少女よ、敵を撃て」と自身に言いきかせ、教官のイリーナが「私がやる」といっているのに、カチューシャを歌いながら撃ち殺すのだ。

 つまり表向きは、母親を殺したドイツ狙撃兵のイェーガーを殺すために狙撃兵になったセラフィマの復讐劇を描きながら、裏では暴力を振るう男に対して「同士少女よ、敵を撃て」とシュプレヒコールをあげて世の女性に訴えかける作品なのかしらんと邪推してしまった。

 自分でないにしても、同性が犯されているのを見たらいい気はしないし、男を好きになれなくなるかもしれない。

 通り魔に襲われて警察に行った後、父親から「隙のあったお前が悪いんだ」と言われて男嫌いになり、同性パートナーを持った知り合いがいるので、ラストの流れは理解はできる。

 戦争は暴力であり、暴力の象徴が男だから、タイトルにもなっている主人公の「同士少女よ、敵を撃て」の敵とは「男」だと思う。


 インタビューを受けた作者は、今後の執筆方針について「ジャンルは変わっても、暴力というものが出てくると思う。それは自分が暴力を大嫌いだから。描くことで嫌いな理由が分解でき、内実のようなものに肉薄できると考えています」と答えている。

 トラウマとなるほどのいじめを受けたのかもしれないし、親や大人から理不尽な暴力を振るわれたのかもしれない。わからないけれども、暴力に対する嫌悪感から本書が生まれたと推測できるし、創作のモチベーションとなっているのではと考えられる。

 ウクライナに攻撃をしている現状で、第二次大戦のソ連を舞台にした作品を書いたインタビューなので、暴力について語っているだけかもしれない。


 二十世紀末より、戦う少女のアニメ作品が次々作られ、オタクが市民権を得てプリキュアもシリーズ化、少女が主人公の作品には男らしい男が登場しない傾向がある現在、百合展開な作品を書くのは時代の流れに合っているのではと考える。

 もし、男性主人公で戦争小説を書くのなら、NHK大河ドラマ『どうする家康』のようにBL要素を取り入れるのが世の習いなのかと考えると、本書の構成は時代に即していたから受賞できたのでは、とする見方も考慮に入れていいかもしれない。


 とはいえ、作品の根本にあるテーマは別にある気がする。

 セラフィマは、「周囲からのけもの扱いされるから仕方がないんだよ、でもぼくはそんな事しないよ」と語っていたが同調圧力に負けて犯していている同じ村の男を狙撃した。

 周りに流されて自分の考えを変えたことに対して、怒りをぶつけたのだ。

 本書でいう「敵を撃て」の敵とは、男ではなく、同調圧力に屈して自分の考えを曲げた人を「敵」といっているのでは、と推測する。いいかえれば、同調圧力そのものが「敵」かもしれない。

 いじめには、加害者と被害者と傍観者がいる。心のなかでは「いじめは悪い」「困っていたら助けよう」と思っていても、同調圧力から助けようと行動しない傍観者も敵だ、と描いている気がする。

 戦争もそうだし、最近いわれれている多様性の問題でも同じ構造がみられる。

 大多数のマジョリティ側が熱心に多様性の問題を取り上げれば上げるほど、同調圧力も高まっていく。同調圧力のなかで多様性を語っても意味がない。

 とくに日本は、自分で考えることは苦手で周りに流されやすい傾向がある社会。そんな中で多様性を語っても、ネットの広まりも手伝って同調圧力が高まって周りに流されるだけで、主体性を失うばかり。実に馬鹿げた状況になっていく。

「長いものに巻かれろ」という諺どおり、長いものが「多様性」とか「増税」とか「防衛」や「戦争」に置き換わって巻かれていくだけ。議論しているようで議論せず、自分の頭で考えているようで考えもなく流されている社会に、私たちは生きている。

 まずするべきは、同調圧力を下げることなのだ。

 なので、本書で作者が書いている暴力とは、「同調圧力」だと想像する。


 同調圧力を別の言い方で表現するなら、「つながり欲求」かもしれない。

『スマホ脳』『最強脳』など世界的ベストセラーとなったスウェーデンの精神科医、アンデシュ・ハンセンは、SNSは承認欲求ではなく生存本能であり、三大欲求よりも深い本能レベルの欲求なので、睡眠や食欲を削ってのめり込むのは当前であると語り、バイトテロなど悪目立ちする人間をとことん追い込むまでクリックしてしまうのは、理性ではコントロールできないものだという。

 人の会話の六割は自分の話か噂話であり、この比率は言語を話すようになった狩猟時代から変わっていない。噂話をすると、脳に報酬ホルモンが与えられる。なぜなら、噂話に加われば生き残れる確率が上がるから。

 原始時代、十歳までの子供の半分が死んでいる。原因は親や仲間から見捨てられて殺されたから。狩猟民族とは獲物を取れなければ生き残れない社会のため、グズやノロマのウザい人間は殺し、十五パーセントの間引きをして人間は進化してきた。

 農耕時代になると、集団で生活するようになったため殺される数は二十パーセントに増える。人間関係のトラブルで死ぬのが最大の死因であるが、むやみに殺せば今度は自分が危ない奴だとみなされて殺されかねない。だから、なぜアイツを殺すのか、噂を広めて準備をするのである。

 噂話に加わるのが、言語を得た原始時代から人間が得た生き残り方法であり、群れの中で邪魔するやつを間引きしてきたことが最新の研究でわかってきている。

 なので、自分が周りからどう思われているのか、噂を流すことが最重要課題となった。このとき、ダンバー数という一つの群れが百五十~二百人を最大と捉えるように、百万年かけて私達の脳は調整されている。

 それ以上の人数の群れの中では、周りからどう思われているのか、悪目立ちしないよう、常に気にするように脳が働き続けてしまう。

 戦争中、大勢の男しかいない兵士の間で、目立たず悪目だりしない行動をしようと、三大欲求よりも強い「つながり欲求」である、原始から受け継いできた本能に突き動かされてしまうため、周りのみんながするから自分も女を犯してしまう。それを見た主人公は、味方であるソ連赤軍の同じ村に育った男を、本能ごと撃ったのである。

 なので、タイトルにある「同士少女よ、敵を撃て」の敵とは、「つながり欲求の本能」を指しているのかもしれない。


 また別の角度から考えると、「同士少女よ、敵を撃て」とセラフィマが自分自身に言い聞かせて狙撃するのは、自分の中にあった少女心に対して命じたと推測する。

 彼女にとってはいわば、割礼の儀式である。

 一人前の大人になるための儀式が「敵を撃つ」ことだったのだ。

 一連の場面でセラフィマは左手を負傷している。まさに割礼の意味合いの裏付けかもしれない。

 しかも、「同士少女よ、敵を撃て」をタイトルにしているのは、いつまでも子供じみた憧れや夢を抱いているのではなく、さっさと大人になって現実を掴み取れと、メッセージが込められているやもしれない。

 読者へなのか、作者自身なのか。

 少なくとも作者は掴み取ったのだ、アガサ・クリスティー賞を。


 作者が百合好きなのかは知らない。

 そんなことより、世の風潮を捉えて、さりげなく作品に落とし込みながら、自分が言いたいことを描ける技量を持ち合わせた作家だと感じた。でなければ受賞などできないだろうし、作家を志すものであれば身につけておくべきものだとも思った。


 ちなみに書籍は、二〇二二年で一番売れた小説として、五十万部を突破した。

 計算しやすいように五十万部、一冊二千円とする。

 作者の印税率を一割りとすれば、二百円✕五十万部=一億円となる。

 ただし、新人賞でなおかつ出版不況なので、印税率を高く見積もって8パーセントとするなら八千万、6パーセントだと六千万くらいだろうと計算する。

 でも、一千万円を超えた部分は20.42パーセントの源泉所得税が控除されて出版社から入金されるはず。計算しやすいように20パーセントとすると、源泉所得税は八千万円 × 20パーセント=千六百万円。差引後利益は、六千四百万円。

 課税所得が四千万円超になると所得税率が45パーセント、住民税率が10パーセント、合計55パーセントもの税金が課される。復興特別税もあるし、手取りは半分くらいになるだろう。


 

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