弐拾参

「やあ、キラ殿。夕の分をお持ちいたしましたぞ」

 日が沈み、夕餉の香りが漂ってきた頃、コウエンが今朝ぶりにキラの元へ顔を出した。

「ああ、どうもありがとう」

「塩梅はいかがでござるか。より優れないようでしたら、分量を調節いたしまするが」

「いや、悪くはない。ただ、なんだろう。偶々かな。昼過ぎからずっと落ち着かない感じでさ」

「ほう。それは」

 コウエンは細い瞳をジッとキラへと向ける。詳しく話してほしいといった様子である。

「ずっと、横になって過ごしてる期間が、そこそこでさ。正直、俺にできることなんてもうないんだから、あとはもう、できるだけ妹やらの負担を増やさないように、大人しく寝てるのが一番だ、って。わりと納得していたんだけれど。どうも、なにかやらねえと、なにかしたいな、っていう気持ちが湧いてきちゃってね。まあ、実際なにもできやしないから、寝るしかねえんだが」

「ふむ」

 コウエンは薄いあごひげを、指でなぞった。

「まず、気持ちの方に変化が出る方は、多いと聞いておりまする。その分であれば、次第に体の方にも効果は出てくるはず。きっとまた、如何ようにもできまするゆえ、焦られるな」

「半日程度で、効き目が出るもんかね」

「もちろん、個人差はありまするが。飲んで当日のうちに、なにかしらの変化を感じられる方は、ままおりまするぞ」

「へぇ。不思議なもんだな」

 と、コウエンが障子を開けたままにしておいた庭側の廊下から、かすかなすり足の音がして、粥の椀と水入りの土瓶を持ったサラが来た。

「あら、コウエンさん。こちらにいらっしゃったのですね」

「先にお話を伺いましてござる」

「そうそう、具合はどうなの」

「ああ、もう効きはじめているらしい。今日は落ち着きがなかったが、良い兆候ではあるそうだよ」

「まあ。それはよかったけれど、早いのね」

「俺も驚いてる」

「ああ、本当によかった」

 キラに夕餉を手渡して、傍らに正座したサラは、頬を紅潮させ、破顔した。

(ガキの頃みたいに笑っちゃってさ。でも、なんだっていいや。こいつが喜ぶなら)

 まさに子供のようにソワソワとして、喜びと、今後への期待に瞳を輝かせる妹の姿に、キラもつられて笑った。


 その晩、キラは久々に体の痛みによって目覚めさせられることなく、夜明けまで眠った。

 三日目、真昼間の陽光の差すところに、キラは出てみた。眩しく滲むようになって久しかった庭園の、草木の輪郭をなぞれることに気づいた。日光に当てた肌が痛むことも、なかった。

 五日目の朝、着替える折に腰巻きを緩めたキラは、そこに血の跡がないことに気づいた。

 七日目、久々に、粥以外のものを口に入れた。荒れていた口内の血色はよくなり、舌に塩気を絡ませても、滲みることはなかった。そして、腹痛に苦しむこともなかった。

 十日目の夕時、ひと月半ぶりに風呂に浸かった。寝てばかりの間であっても、サラに手伝われながら体を拭い、可能な限り清潔さを保てるようにしてはいた。だが、いざ髪を洗い、あばらの浮いた体をこすれば、ゾッとするほどの垢が剥がれた。

 そしてこのときには、左腕を固定するものを外せるようになった。ことさら肉の削げ落ちた左腕は、右腕より一回り以上も細くなっていた。

 次第に食事量は増え、体力が戻り、キラは庭を歩いて回るようになった。皆で並び立って、夏椿の花を眺めた日から、随分と経っていた。若草色をしていた草木は、濃緑に変わっている。

(そろそろ、仕事に戻ってみようか)

 キラは太陽の下で、体を伸ばし、深く呼吸をし、穏やかな心持ちで空を見上げた。


 そして、コウエンが館を訪ねて三週めの、とある朝。

「昨日、竜骨を砕く作業を終えましてござる。こちらが全てになりまする」

 コウエンは蓋付きの鉢に詰まった、乳白色の粉末を兄妹に見せた。

「ひとまず、仕事の方は終えましたので、お暇させていただきまする。しばらくはこの街に滞在するつもりでおりまするゆえ、なにごとかござれば、お声掛けくだされ。長らく世話になり申した」

 彼はその日のうちに館をあとにした。


 翌日、キラはふた月半ぶりに、仕事部屋にいた。キラが臥せっている間、働き詰めだったサラは下がらせた。薬師の装束に身を包んだキラの姿に、久かたに顔を見せ合う客人らは、彼の復帰を喜び、祝いの言葉を口にした。

「おまえさん、具合がよくなったのかね」

 なかでも、この若者をことさら気にかけてきた馴染みの老爺は、ぼさついた白い眉の下の目玉を剥いて、大層驚いた様子だった。

「ああ、運がよかったんだ。どうも、もうしばらくは生きられそうだ」

「そ、それはなによりじゃ。よかったのう、よかったのう」

 老爺は瞳を潤ませながら、幼少からの姿を知っている青年の快気に、感激をあらわにした。

「前に話したこと、覚えているかい。大叔父の墓参りがしたいってさ。まあ、ついでに婆さんと母さんにも挨拶はしておこうと思うが」

「おお、そうじゃ。キサラの様子を聞きたいと言っておったな」

「いつなら都合がつくかな」

「おおん。近いうちなら、三日後か、七日後か、九日後かのう」

「じゃあ、九日後で。昼に墓地前に行くんで、来てくれるか」

「いいのう。わしも久々に、あれのところに行くわい。そういえば、キサラの手記はあるんかい」

「もちろん。持っていこうか」

「そうじゃのう。一度見てみたいと思っておったんじゃ。わしの前だと、強がっておってばかりだったんでなぁ」

「そうかい。わかったよ」

 そうして、改めて約束をとりつけたのだった。


「疲れたんじゃないの」

 仕事を終え、肩を回して帳簿に向かうキラの背に、サラは声をかけた。今日は一日、ミノリの屋内遊びに付き合っていたサラである。歳のわりに落ち着きのある少年は、サラを疲れさせることはなく、むしろ、彼女の気晴らしを手伝った。

「疲れたよ、そりゃあ。久しぶりだもの。でも、達成感がすごいな」

 新規の患者を受け付けなくなったため、以前に比べれば慌ただしさはない。しかし、久かたに代わる代わる客人らと顔を合わせ話をし、以前の会話を思い出しつつ、過去の記録にも目を通しつつ、キラが休んでいる間に変化したことを把握しつつの診療には、相当の神経を使わねばならなかった。

 サラは少し黙り込んから、静かな調子で呟いた。

「あなたが、その服を着て、ここに座っていると、とても安心する」

「はは。それはなにより。俺もさ。やっぱり、ここで、こうしているのが性に合ってる。つくづく、そう感じたよ。そうだ、九日後に、爺さんと墓参りに行ってくる。どうする、おまえは」

「何時頃に行くの」

「昼頃。盆にはちっと早いが、ついでに連れて帰ってこようか」

 サラは少し考えるそぶりを見せた。

「そうね。九日後なら、わたしも行こうかしら」

「薬を取りに来る人がいるんじゃないか」

「ええ、でも。そうだわ、一応、帳簿を確認させて」

「ほらよ」

 キラは記録をつけ終えた紙束を、妹に渡した。

「この人は、朝のうちに来るわ。こっちの人たちも、決まった薬の継続だから。もし、わたしたちが留守にしている間に来たら、カヲリさんに渡してもらいましょう。お薬と、釣銭用のお金を預けておけば、大丈夫でしょう」

「それで都合がいいなら、それでいいよ」

「お迎えに行くのは、お祖母様がいらしたころ以来ね」

「勝手に帰ってくるからな、うちの先祖は」

「忙しいからって、そんなことにしてしまって。申し訳なかったわね」

「いや、少なくとも婆さんの性格なら、勝手に帰ってきてただろうよ。信心深いおまえでさえ、まあいいか、って思えたんなら、間違いなく帰ってきてたぞ」

「そうかも」

 亡き祖母の見えない行動について、あれやこれやと想像し、兄妹は笑い合った。

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偽椿 天満悠月 @Tenma_Jud

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