第49話

 呆然としてラグの上に座っている真奈美の正面に颯太が座った。颯太は怒ることなくそれどころか、目を輝かせているようにも見える。真奈美は声を出そうとしたが、何日も水を飲まないでいたように、喉がカラカラになっていた。それも口の中にある水分をかき集め、喉を少しでも潤す。それでも声が出ない。颯太はおもむろに立ち上がると、コップに水を入れて持って来てくれた。手渡されたコップの水を、一気に喉に流し込む。


「――どうして」

「何だい?」

「どうして怒らないの?」「どうして俺が怒るんだ?」

「実家……お父さんとお母さん、どうなるの?」


 頭に浮かんだ言葉を出しているだけだった。走り続けている時のように、鼓動は全力で動いている。それなのに体は冷えるばかりだ。


「落ち着いて。俺は真奈美とは離婚しない。実家の事は、俺が家に出向いて何とかする。だから心配しなくていいから」


 しかし、その答えの中に、颯太の態度についての明確なものはない。


「どうして、どうして怒らないのよ!」


 声を荒げたのは真奈美だった。颯太が自分を溺愛しているのは、身に染みてわかっている。その妻が、他の男とセックスしている写真を見ても声を荒げないどころか、怒りもしない。おまけに別れないと言う。


「ごめん。俺はただ、真奈美のそういう顔も可愛くていいなあって思っただけなんだ。俺はね、昔から真奈美の全てを愛しているんだ。だから全てを知ってる。もちろん、悠太郎が俺の子ではないという事も。そして健吾君とメールでやり取りしている事、行き来している事もずっと知ってた」


 真奈美は怖くなった。知っていたとはどういうことなのか。


「そんな顔をしないでくれ。初めて会った頃、初恋の話をしたことがあっただろ? 俺の初恋は真奈美なんだよ。小学校の時俺は、地元の有力者の息子っていうだけで、真剣に俺と向き合ってはくれなかった。もちろん教師も友達もだ。腫れ物に触る感じだったな。だからむしゃくしゃして俺はある日、花壇をめちゃくちゃに荒らしたんだ。そしたら下級生の女の子に見つかってね……『お花が可哀そうでしょ! ダメそんなことをしたら』って怒られた」


 限りなく透明になりつつある記憶が、色を取り戻して浮き上がってくるようだった。真奈美には覚えがあった。それが顔に出ていたのか、


「そうだ。真奈美。君だよ。あの頃の真奈美も可愛かったね」


 颯太がまるで知らない人間に見えた。


「ちょっと来て」


 颯太は相変わらずにこにことしている。力の抜けた手を颯太がひっぱり、真奈美は意志とは関係なく、ただ連動するように立ち上がった。

 颯太の書斎机の前まで連れてこられた。おもむろに引き出しからノートパソコンを取り出して、起動させる。


「これは、真奈美用のパソコンなんだ」


 意味が分からず、ただ画面をぼんやりと真奈美は見ていた。立ち上がったパソコン画面には一つのフォルダしかない。それを颯太がクイックすると、いくつか数字の振られたフォルダがまた出てきた。そして一番若い番号のフォルダを颯太が開いた。この時、彼は鼻歌を歌っていた。


 開かれたフォルダには写真が入っていた。颯太はそれを、順番にみせてくれる。真奈美は目に入ってきた画像を、上手く頭で処理できなかった。そこには見覚えのある子供の顔。枚数が進むごとに成長していく。颯太がまた新しいフォルダを開く。


 今度は見覚えのある、中学の制服。また新しいフォルダには、高校の制服。そして……カメラ目線の物は一枚もない。そしてそれは全て、真奈美の写真だった。


「ずっと真奈美だけを見てきたんだ。あ、写真はプロに頼んでたから、綺麗に写ってるだろ?」


 血の気が引いた。全身に力が入らなくなった真奈美は、人形のように足を折って崩れた。


「悠太郎が俺の子じゃないよな。真奈美の生理を逆算すると、ちょうど忙しい時期で、夫婦生活が疎かになっていた期間だったし。それに彼の面影があるよね」

「――んで、そこまで」


 喉の奥が、引っ付いたように上手く声が出せない。


「真奈美の携帯でのメールやり取りとか、サイトとか、全て俺が見れるように最初に設定してるから。まあ生理については、昔から把握はしてたからね。ごめん。かなり驚いたよね。本当は言う気は無かったんだけど、見せた時の真奈美を見たくなって。でも大丈夫。俺がこれからも悠太郎を含め、幸せにするから」


 急に、体の中から波が押し寄せ、中の物を外に吐き出そうとする。思わず口元を手で押さえると、颯太がゴミ箱をあてがってくれる。吐き出して胃が空っぽになっても、颯太への嫌忌を全て吐き出そうとするように、今まで二人で積み重ねてきた思い出を出し切ろうと、嘔吐き続けた。


「大丈夫か? 真奈美」


 口元からゴミ箱に続く唾液の糸と、恐怖なのか悲しみからきたものか分からない涙がで、颯太の顔が歪んで見えた。そして颯太が言った。


「離婚はしないよ。それと母さんの事は心配ない。親父とは話を付けてるから。ただ俺から離れたいのなら、真奈美の実家が大変な事になるから。ごめん。卑怯だとは分かってるんだけどさ。そこまで深く、真奈美を愛しているんだって分かってもらいたい。愛してるよ。ずっと」


 自分でも汚いと感じているその口に、颯太は深く、深くキスをしてくる。それは酷く冷たく熱を感じない。体が体重以上に重く感じ、海に深く深く沈んでいく感覚だった。そして次第に太陽も届かない、冷たい海底にたどり着く。手を伸ばしても誰も気づかない。声も届かない。颯太の深くて暗い、熱の届かない深海から、自分は逃げられないんだと……

 悠太郎の声がリビングから聞こえてきた。



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