辞書くんとスマホちゃん

鐘古こよみ

三題噺「辞書」「スマホ」「恩返し」


 学校から帰ると里子さとこさんがいて、まだ夕方にもなっていないのに、ビールの泡で口の上にヒゲを作っていた。

 ランドセルを背負ったままリビングに入る僕を見るなり、「よ、少年!」と声をかけてくる。

「こんにちは」僕は無難な挨拶をする。


 この人は母の妹で、つまり僕にとっては叔母さんだ。

 だけどたまに、おじさんと呼びたくなる時がある。

 結婚せず仕事に生きると決めたから悠々自適なのさ。と、聞きもしないのに教えてくれたことがある。

 よくわからないけど、いつも楽しそうな里子さんを見ていると、大人になるのも悪くないかもしれない、って気がしてくる。


「会社から有給消化しろって言われちゃってね。ほら、最近コンプラコンプラうるさいからさ。前は働かせたい放題だったくせに、上場でも目指してんのよきっと。あ、お姉ちゃん今買物行ってんだよね。おやつに塩辛食べる?」


 大丈夫ですと答えながら、僕はリビングと続きの学習部屋にランドセルを置き、手洗いとうがいを済ませ、おやつの戸棚を漁るより先に、本棚から分厚い辞書を引っ張り出した。


 こ・ん・ぷ……あった。コンプライアンス。里子さんが言っていたのは、たぶんこれのことだ。特に企業が法令や倫理を守ること。


 次に「じょうじょう」を調べる。上々、上乗? こっちは決め手に欠けるから、後で母に聞くことにする。里子さんは話がすぐに脱線するからね。


「お、さすが辞書くん。家に帰ってすぐに調べものとは」


 自分の発言が発端とも知らず、里子さんは機嫌良さそうに笑った。


「学校でもまだそう呼ばれてんの?」

「まあ……」

「いいよね、頭良さそうで。私なんか里芋だったよ? そこから煮っ転がしに派生して、最終的にはコロ。犬かっつぅの!」


 雑にテレビのチャンネルを変えながらガハハと笑い、盛大にげっぷをする里子さんの、竹を割ったというか踏み砕いたような性格なら、どんなあだ名でも小学生時代を楽しめたことだろう。


 僕はと言えば、正直なところ、「辞書くん」というあだ名にはじくじたる思いがある。

 ……じくじ。漢字を忘れた上に、使い方が合っているかわからない。後で調べよう。


 こんなふうに、わからない言葉があると、すぐに調べるのが僕の癖だ。

 誰から強制されたわけでもなく、好きでやっていることなのだけれど、「お母さまの教育がいいのね」となぜか母が褒められたり、「中学受験するの?」となぜか進路を予想されたりする。


 辞書ってそんなに特別なツールなのか?


 ツールって、道具のことだ。心の中ではよく使うけど、言葉には出さないよう、細心の注意を払っている。なぜなら、僕が使いたい言葉を使うと、クラスメイトが「それってどういう意味?」と聞いてくるから。

 教えてあげると、「ふーん、さすが辞書くん!」と感心してくれたりするけど、それで終わり。次の時、同じ言葉を使っても、覚えている人は滅多にいない。

 こういうの、徒労っていうんだ。


 中には、わざと変な言葉の意味を聞いてきて、ふざける奴もいる。

 クイズみたいに次から次へと問題を出してきて、何様かなって奴もいる。

 漢字のテストでは、いつも必ず百点満点を取るのが当たり前みたいに言われるし、紆余曲折を経て、僕は「辞書くん」というあだ名が、ちっとも好きではなくなった。

 とはいえ、明らかに馬鹿にしているあだ名で呼ばれるよりは、ずっとましだ。

 実例を挙げるとしたら、「スマホちゃん」かな。

 隣の席の松宮うららさんは、夏休み明けから陰で、そう呼ばれているんだ。


     *


 夏休みの間にどうやら、スマホを買ってもらったらしい。

 松宮さんが「スマホちゃん」と呼ばれるようになった理由の一端を、僕は女子たちの噂話から聞き知っていた。もちろん、自分自身が話に加わっていたわけじゃない。

 女子ってひそひそ声で話して、自分たちじゃセキュリティ万全の気でいるみたいだけど、実際には結構、聞こえちゃってるんだよな。


「スマホちゃん、本当にずっとスマホ見ててさあ」

「まりっち、見かけて声かけたのに、シカトされたんだって」

「たまに塾の帰りに見かけるんだけど、いつも違うおじさんと歩いてるんだよね」

「えーっ、それってヤバくない?」


 五年二組の教室の隅で一部の女子たちが、松宮さんの方をチラチラ見ながら、丸聞こえとまではいかないまでも、結構聞こえる声で噂話を繰り広げている。

 誰とは言っていないから、万一聞こえても、誤魔化せると思っているのだろう。

 何より集団の力だろうか。彼女たちはどことなく、強気だ。


 僕は図書室から借りてきた、アニメみたいな絵柄の『怪盗ルパン』シリーズの本を広げながら、横目でちょっとだけ松宮さんを見る。

 隣の席で松宮さんは、壁と天井の境目の辺りを見上げて、ぼんやりしていた。

 膝の上で指が小刻みに動いている。何かを数えるように、ピクピクと揺れている。


 僕はスマホを持っていないし、家のタブレットも、母の許可がなければ使えない。

 だから実際のところはわからないのだけれど、子供がスマホを持つと危険だと、大半の大人たちが考えているらしいことは知っていた。

 実際、ニュースでよく聞く。SNSで大人と知り合った子供が連れ去られたとか。

 スマホゲームに課金したくて、親のクレジットカードに手を出す子供がいるとか。


 正直、別世界の話だ。僕が今スマホを手に入れたとしても、何が楽しいかわからないだろう。僕が欲しいのは知識だから。

 ネット検索も便利だけれど、自分の手で紙をめくって調べた結果の方が、ずっと頭に残ると感じる。頭に残った知識はお金と違って、使ってもなくなることがない。本当に価値があるって、そういうことだと思うんだ。


 チャイムが鳴って、先生が教室に入ってきた。皆がガタガタと椅子を鳴らしながら着席し、僕も『怪盗ルパン』を机にしまう。

 漢字テストを返します、と先生が言った。


「今回、百点の人が一人います。今から名前を呼びます」


 先生の言葉に教室がざわめく。僕は微動だにせず待つ。

 どうせ辞書くんだろ、と誰かが言って、それに賛同する声がいくつも聞こえた。

 僕は聞こえないふりで、足にちょっと力を込めて、いつでも立てるよう準備する。


「松宮うららさん」

「……はい」


 呼ばれて立ち上がったのは、隣の席の松宮さんだった。

 教室がどよめく。僕は、足に込めた力を解かないまま、その場に固まる。

 辞書がスマホに負けたと、誰かが茶化して囁く声がした。


     *


 里子さんは連続でお休みをもらっているようで、なぜか今日もうちにいた。

 しかも、隣家の愛犬アイスちゃんの赤いリードを握っている。


「おっ、少年、いいところに。散歩に行くから付き合いたまえ」


 その場で軽くジョギングしながら言う里子さんを、柴犬のアイスちゃんが舌を出しながら見上げている。

 不思議なことに里子さんは、うちの家族の誰よりも、隣家の佐々木さんと仲が良かった。こうして時々、老夫婦の佐々木さんに代わって、アイスちゃんの散歩を担当しているくらいだ。佐々木さんは僕と里子さんを、歳の離れた姉弟だと思い込んでいるふしがある。


 ジョギングに付き合うのは嫌だけど、アイスちゃんの散歩はしたい。

 僕はランドセルを置いて、すぐにまた靴を履いた。


 九月の半ばはまだ、日中は真夏の名残のような暑さになる日も多い。

 でも不思議と、太陽が沈む頃になると、すっかり秋の顔になる。

 家の近くを流れる川沿いに、遊歩道の続く土手がある。ジョギングや犬の散歩をする人たちの列に交じり、橋を渡って運動公園の外周を巡り、高架下を通ってさっきと別の橋を渡ると、最初の土手に繋がる道に出る。

 広い場所でアイスちゃんにボールを投げたりして少し遊び、元の道を辿り始めた頃には、ほとんど夜になっていた。


 底の方に少しだけオレンジソースを沈めたぶどうゼリーみたいな空に、一番星が輝いている。綺麗だな、と僕は思い、そして前方の道を見て、あーあと思った。

 人工的な長方形の明かり。空に浮いて見えるそれは、スマホの画面だろう。

 綺麗な自然の光を見た後で、その明かりは随分とけばけばしく、暴力的に映った。

 スマホに見入っている人物は道の真ん中に立っているので、どんどんその明かりが近づいてくる。アイスちゃんと里子さんがお構いなしに突進したお陰で、その人は自分から道の脇に退いた。軽く会釈して通り抜けようとして、僕はあれっと思う。


「あれ、辞書くん?」


 相手からも声がして、僕は立ち止まった。正確には里子さんが立ち止まったから、そうせざるをえなかったのだ。

 スマホの明かりに照らし出されている顔は、「スマホちゃん」だった。


 なんだ、本当にスマホばっかり見てるんだな。

 僕は挨拶をする気になれず、目を逸らす。

 空の色があんなに綺麗なのに、きっと彼女は、気付いてもいないのだろう。


「知り合い? あ、クラスメイト? こんばんは。敦の叔母です~」


 足踏みしながら里子さんが愛想良く声をかける。あ、松宮です、こんばんは。巻き込まれるように答えた松宮さんが、もの問いたげに僕を見る気配がした。


「こんな時間にどうしたの? そろそろ帰った方がいいんじゃない?」

「あ、大丈夫です。ちょっと人と待ち合わせしていて……もう来るんで」


 曖昧に答え、「さよなら」と頭を下げて、松宮さんは僕たちが来た方向へと歩き出した。

 その後ろ姿をしばらく見送っていた里子さんも、やがて気が済んだのか前へ向き直る。


「美人だねえ。今どきの小学生はスタイルがいいわ。名前、なんていうの?」

「松宮さんです」

「下の名前は」

「確か、うららって名前です」

「山本リンダ?」

「誰ですかそれ」


 僕の反応に里子さんは、ガーン! と口に出して仰け反っている。

 昭和が滲み出てるわよ、と母によく言われているやつだ。

 僕はちょっとイライラしていたので、普段なら絶対に言わない余計なことを喋った。


「なんか、変な噂があって」


 いや私も世代じゃないのよ、本当よ、モノマネとか懐かしの映像特集とかで見たことあるだけで……と早口で喋っていた里子さんは、器用に僕のつぶやきを拾った。


「え? 変な噂って、今の子が?」

「……なんか、夏休み中にスマホを買ってもらって」


 僕は早くも後悔していた。

 こんなこと言って、どうするつもりだろう。

 でも、言葉の座りが悪いまま終わらせることもできなくて、仕方なく続ける。


「女子が言ってたけど、えーと、夜にいつも違うおじさんと歩いてるって」


 次の瞬間。

 僕の手の中にアイスちゃんの赤いリードがねじ込まれ、里子さんは、踵を返した。

 ロケットみたいな勢い。

 そう表現するしかない。里子さんはオリンピック決勝のアスリート並みにダッシュして、松宮さんの背中にぐんぐん近づいていく。


「うららちゃん!!」


 躊躇なく叫ばれる名前。

 その声にびっくりして、松宮さんが振り返るのがわかる。

 その時僕は初めて、彼女の隣に他の人影があることに気付いた。

 ――男の人だ。


 えっ。嘘だろ?


 心臓を跳ねさせる僕の手がぐいと引っ張られる。アイスちゃんも走り出したのだ。

 どくんどくんと体中が波打っている。

 夜にいつも違うおじさんと歩いてるって……さっき自分の口から出た言葉が、頭の中でゴムボールみたいに飛び跳ねる。


 まさか本当だなんて、思っていなかったんだ。

 ニュースで聞くようなことが現実に、身の回りで起こるわけがないって。

 でも、そうだとしたら、僕は里子さんに、どうしてあんなことを言ったんだろう。

 自分で信じていない噂を、吹聴するようなこと。


 アイスちゃんが里子さんに駆け寄り、その足元にじゃれついた。

 慌ててリードを引き寄せた時、僕の耳に、すっとんきょうな里子さんの声が聞こえてきた。


「えっ、俳句仲間!?」


     *


「お母さんが夏休み中に切迫早産で入院しちゃって、交流用にスマホを買ってもらったんです。それで、俳句教室と病室を私がリモートで繋いだらどうかなって。えーと、うちのお母さん、有名じゃないけど実は俳人で、その教室の講師をやっていて」


 まとまらない話しぶりで、松宮さんがしどろもどろに事情を説明する。

 セッパクソーザン。

 ハイジン。

 耳慣れない言葉をポンポンと投げられて、僕はたじろいでいた。


「最近テレビによく出ている、俳句の先生がいるじゃないですか。お母さん、あの人の孫弟子らしくって」

「あの番組の影響で俳句が流行っとるんですよ。駅前商店街の空き店舗を使って、教室をやってもらえないかと松宮先生にご相談したら、ボランティアみたいな料金で引き受けてくださいましてねえ」


 松宮さんの隣に立っているおじさんが、人の良い笑顔を浮かべて補足する。

 仕事帰りの人も寄れるように火曜の夜と、土曜の午前に教室が開かれるようになったこと。

 始まってすぐに先生の妊娠が判明したが、本人の希望で教室は続けられたこと。

 万一の時のためにと、娘の松宮うららさんが付き添うようになったこと。

 結局、切迫早産で先生が入院してしまったこと。


「切迫早産って、ベッドの上でずーっと安静にしてなくちゃいけないみたいで、お母さん、退屈なんです。それで、私のスマホを使って、リモートで俳句教室を続けたらどうかなって提案したら、みんな喜んでくれて」

「ありがたい話ですが、火曜の教室は夜ですから、うららちゃん一人で歩かせるんじゃ心配で。生徒が交代で、こうして送り迎えをさせてもらっとるんですよ」


 僕は立ち尽くして、ぼんやりと会話を聞いていた。

 いつの間にか里子さんは自慢の脱線話を始め、おじさんと盛り上がっている。

 その隙に松宮さんが、こちらに向かって小声で話しかけてきた。


「田沼くん、あんまり話したことないのに、さっきはあだ名で呼んじゃってごめんね。いいあだ名だなって思ってたから、つい」


 僕はアイスちゃんのリードに手こずっているふりをしてやり過ごそうかと思ったのだけれど、こんな時に限りアイスちゃんは大人しくしているから、仕方なく顔を上げる。


「……そうかな」

「うん。それと、ずっとお礼を言いたいと思ってたこと、言うね。覚えてないと思うんだけど、四年生の時、掃除の時間に男子がふざけて、同級生のキラキラネーム判定を始めたの。その中に私の名前も入っていて、たまたま近くにいたから聞いちゃって、結構傷付いたんだよね。そしたら田沼くんがね」


『うららって日本語だよ。漢字もあるし、辞書にも載ってるから、キラキラネームじゃないんじゃない』


 そう、去年の僕は言ったのだそうだ。

 全然覚えていないけれど、言いそうだなと思った。

 もちろんそれは松宮さんのためじゃなくて、自分の知識をひけらかすためだ。

 四年生の時の僕はまだ、そういう生き方をしていた。


「さすが、辞書くんって呼ばれるだけあるなって……あ、偉そうでごめんね。でも、そう思ったんだ。私、変な名前って言われることが多くて、昔はいちいち傷ついてたんだけど、田沼くんみたいに言えば良かったんだよね。これ、俳句の季語なんだよって」

「え……そうなの?」

「うん。春の季語で、穏やかで気持ちのいい日のこと。私が生まれた時、お母さんが作ってくれた俳句にも入ってるんだ」


 松宮さんは慣れた手つきでスマホに指を滑らせ、写真をこちらに見せてきた。

 桜の花びらで彩られた細長い板みたいな台紙に、筆で書かれたらしき文字が並んでいる。


 <うららかや 吾子抱き思ふ 恩返し>


「この『うらら』に、春の穏やかで気持ちのいい日と、無事に出産を終えて安心する気持ちと、抱っこしている赤ちゃんの温かさが全部込められているの。それで、こんな素敵な日を与えてくれた我が子に、どう恩返しをしていこうって、考えているんだよ。こんな短い言葉でいろんなことが言えるの、面白いと思わない?」


 僕は返事に詰まった。俳句について考えて生きてきたこと、今までになかったから。まさか「スマホちゃん」と呼ばれている同級生にそんなこと言われるなんて、想像していなかったから。

 なんとなく焦って、僕は言葉を探した。


「……確かに、五七五だけでそんなに意味が込められるのは、なかなか」

「あ、五七五だけじゃないんだよ」


 松宮さんの目がきらりと光った気がした。再びスマホの上で指先を機敏に動かし、先ほどとは別の画像を目の前に突き出してくる。


「これ、さっき私が作ったやつなんだけど」


 見た瞬間、あっと思った。

 夜になりかけの夕暮れ空。一番星がぽつんと輝いている。

 ついさっき見たばかりの、オレンジソースを沈めたぶどうゼリーみたいな空だ。

 僕はあの時、松宮さんはスマホばかり見ていて気付いてすらいないだろうと、軽蔑の念を抱いていた。

 違った。あれは、写真を撮っているところだったのだ。

 画像の下には白い長方形の枠があって、そこに短い文章が書きこまれている。


 <ぶどうソーダの夜銀の泡に願う>


 読んだ瞬間、口の中をぶどうの甘さと香りが通り過ぎ、ソーダ水のシュワシュワ弾ける感覚が後を追った。

 僕は衝撃を受けて少し後ずさる。なんだ、これは。


「自由律俳句っていって、季語も五七五もなくていいの。俳句って自由なんだ。言葉を組み合わせて表現できるのが楽しいこと、田沼くんなら知ってるんじゃないかな」


 何かしらの期待を込められた目で見られ、僕は、足の下で地面がバラバラに分解される感覚に突然襲われた。

 わかってしまった。松宮さんは、向こう側にいる。

 僕が知識を頭の中の標本箱に詰め込まないと気が済まないように、言葉を粘土のようにいじくって、好きな形に整えて、息を吹き込まないと気が済まない。

 一部の女子にハブられようが、「スマホちゃん」と呼ばれようが、そんなの彼女には関係ない。だからいちいち説明もしないし、自分の好きなことだけに没頭していられるんだ。


 負けた、と感じた。

 漢字テストだけじゃない。生き方が。

「辞書くん」というあだ名を疎ましく思いながら、「スマホちゃん」よりはましだと、僕は心の中で松宮さんを見下していなかったか?

 スマホばかり見ているなんて、ろくな奴じゃないと、決めつけていなかったか?

 辞書なんてそんな特別なツールじゃない。自分でそう思っていたくせに、僕は、スマホというツールに比べたら上等だと、勝手に思い込んでいたんじゃないだろうか。

 スマホ、使ったこともないくせに。


「いかん、こんな時間だ。うららちゃん、もう行こう」


 おじさんが腕時計を見てハッとする。松宮さんも慌て顔になり、こちらに小さく手を振ると踵を返した。二人は小走りで駅前商店街の方へ姿を消す。


「やあ、何もなくて良かった良かった。あんたが変なこと言うから焦ったわ」


 笑って里子さんがアイスちゃんのリードを僕の手から取り上げる。

 身軽になった僕は、何も言わずに駆け出した。


「お、やるか!?」


 アイスちゃんがワンッと吠え、里子さんと一緒に僕を瞬く間に追い抜いていく。

 僕は息を弾ませながら、ぶどうソーダの夜を飲み干した。


 セッパクソーザン、ハイジン、ジユウリツハイク……


 新しい言葉たちが銀の泡になって舌の上を転がり、喉の奥を刺激しながら、体の中に流れ込んでいった。



 <了>

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