雪下の契り

@asaasaasa_5han

短編小説

 寒々しいとある夜のことでした。民家のあかりだけが頼りになるこの家にひとり、男がやってきました。

雪の中、山を歩いてきたのでしょう今風のマウンテンパーカーや登山用の靴が泥にまみれていました。

男は表札を確認すると、その札をすっと幻に触れるようになぞりました。

伊佐山、と名前が書かれています。

男は玄関から少ししたところで泥を落とし、意を決して、インターホンを押しました。

「覚えていますでしょうか? 僕です。この間バスでお世話になりました森下と申します」

男はどぎまぎして言いました。返事はありません。

森下という男がふうと息をつきました。吐く息は白く、冷たい。きっと、ここにはもういないだろうと諦めたそのときでした。

家の奥のほうからがたごとと音がします。とても大きな音でしたので、森下は慌ててドアを叩いて「大丈夫ですか!」と叫びました。

どすんと、何かが落ちるとドアが少し開いて、か弱い声が森下の胸の下から聞こえました。

「来てくださったんですね、ありがとう」

出てきたのは線の細い女でした。くっきりとした鼻筋と伏した目が印象的な女でした。

「本当に来てくれるとは思わなくて、ありがとう」

女は粛々と森下に頭を下げます。森下はあわてて、手で止めました。

「僕なんて、本当に、いえ、やましいことは考えていませんが、お礼を言いたかったものですから」

そんな森下の様子を見た女は「今日子です」とふわり笑いながら、森下の服についた雪を払いました。

「ここで立ち話もなんですから、上がってください。あたたかいお茶もお出しします」

「いえ、今日子さん、あの、僕はそういうわけでは、あの」

森下は今日子に引っ張られて、今日子の家へと上がらざるを得なくなりました。

豪奢な家でした。でも、どこか影があるような、静かな感じがします。

先に続く階段も、とても暗く何がいるかまったくわからないようです。

「今は、一人で住んでいるんです。だから、ちょっと怖い雰囲気でしょう?」

と、今日子はくすくす笑いました。森下は顔を赤らめて、うつむきました。

「そうですね、なんか出ると聞いたものですから」

「少し、怖がりなんですね」

今日子は森下にスリッパを出すと、どうぞと居間に案内しました。

お邪魔します、と森下は声を出すと、どこまでも広い畳の部屋があって、そこにポツンと今日子の質素なベッドと机がありました。

これだけ、なのかと心の中が空っぽになったような気分でいると、今日子はこの部屋に続いているキッチンから顔を出し、湯気が立った良い香りのするお茶をもって机に置きました。

「一人で暮らすにはそんなにいらなくて、でもね、これだけは必要だったの」

と今日子は長い節だった指でなにかを指しました。

ベッドのすぐ横に置いてあったのは、アコースティックギターでした。

 数少ない私の大切な宝物なの、と今日子は言いますと、するりと弦を長い指で押さえ、なにかの歌を歌います。

 それはそれはうつくしい音色と透き通る声で、森下は目を閉じながら、今日子の歌を聞き入りました。

この時が永遠に続けばいいのにと森下は思いましたが、すっと今日子の声が止みました。

「ごめんなさいね、ほぼ初めてなのに聞かせてしまって。すごくうれしかったから、お返しをしたかったの」

 森下は挙動不審になりました。そうなのです。森下はお返しをされに来たのではなく、お返しをしに来たのです。


 ある日のバスでのことです。森下は暗い気持ちでバスに揺られていました。体調が悪く今にも失神して倒れそうな眩暈がしていました。

 だけれども、バスはほぼ満席で、森下は立っていなければなりませんでした。

 もう僕はだめかもしれない、と森下がうずくまりかけました。

 そのときどこからか、細くて白い手が伸びてきて、森下を支えました。

 そして、その白い手の女は何も言わずに森下に席を譲り、座らせて水を飲ませました。

 ほのかに花の匂いがします。柔軟剤でしょうか。

 森下は女に介抱されながら無事降りるところまでたどり着けました。

 森下は「ありがとうございます」といい、女が微笑んだ音がしました。

「あの、お名前は……」と森下が叫ぶと女は消え入りそうな声で「イサヤマ、終点のイサヤマ」と言いました。

 そして後日、森下は情報をもとに終点の僻地まで来て、伊佐山という家を見つけ出したのでした。


 数少ない私の大切な宝物なの、と今日子は言いますと、するりと弦を長い指で押さえ、なにかの歌を歌います。

 それはそれはうつくしい音色と透き通る声で、森下は目を閉じながら、今日子の歌を聞き入りました。

この時が永遠に続けばいいのにと森下は思いましたが、すっと今日子の声が止みました。

「ごめんなさいね、ほぼ初めてなのに聞かせてしまって。すごくうれしかったから、お返しをしたかったの」

 森下は挙動不審になりました。そうなのです。森下はお返しをされに来たのではなく、お返しをしに来たのです。

 森下は意を決したように言いました。

「今日は僕があなたにお礼をしたくて来たんです」

 今日子は優しい眼差しで森下を見ています。そして、温かいお茶を机にとんと置きました。

「じゃあ、森下くん。私のギターを受け取って」

  繊細な声がはっきりと言います。

「えっ、どういうことですか。それは大事なものでしょう?」

  森下は勢いづいて机を乗り上げようとするくらいびっくりして言いました。

  そして、今日子はうんうんと頷きます。

「そう、大切なもの」

  今日子は森下の目を見て、告げました。

「私、もうそんなに長くないの」

 今日子は語りました。原因不明の死に至る病であること。そして、その病のおかげであまり友達がいないこと、ろくに働くこともできず不労取得で暮らしていること、それに両親も兄弟も病気でなくなってしまったこと。

「だから、ここまで来てくれたあなたにこことギターを任せたいの」

 今日子は悲しそうな表情で笑いました。森下も悲しくなって、呆然としていました。知らないうちに涙が出てきます。

「もう死んでしまうんですか」

「そう」

 今日子はそう短く答えると、じゃららんとギターを手に取り、どこか懐かしい歌を歌い始めました。

「死んだところは見せたくないわ。だから春になったらもう一度来て。ここは私が育てた木や花がある。だからとても綺麗だと思うの。それをよかったら守って」

「そんな、僕は」

「……死にたがっていたもののひとり?」

 今日子は優しく微笑みました。そして、じっと森下の目を見て、頭を撫でました。

「ここへ来られるのはね、死にたがっているものだけなの」

 森下くんもそうなんでしょ? と今日子は柔らかく問います。

「私もそうだった。でも、前の人からここを守れって言われて、仕方なく。そうしたら知らない間に眠るのが多くなってしまって、どうやら死にたがっているからか老衰状態になるそうね。とっておきの場所でしょう。だから、君にも守って欲しいの」

 お願い、と今日子は森下に言いました。

 その声は震えて、今にも泣きそうでした。

「看取らせてはくれないんですか」

「……そういう決まりなの」

 今日子は立ち上がると森下のなくなったお茶をそそいで、うんと深く頷きました。

「さあ、今日はよく眠りましょう。二人で」

 確かにやたら体が重いし疲れている、そう森下は思うと知らない間に寝てしまっていました。

 丁寧に毛布と布団が掛けられています。

 でも、そこはなぜか自分の元いた部屋でした。

 あんなに遠くまでバスに乗って歩いたのに自分の部屋に戻ってきてしまっていたのです。

 魔法が何かでしょうか。

 でも、脱いでいない服には少しだけ泥がついているのと、寝ていた隣にはあのアコースティックギターがあるのでした。


 とうとう春が来ました。

 森下は、ギターと少しの貴重品を持ってバスに乗り込みました。

 バスの中は陽気です。老人たちがいろんなことを話して賑やかです。

 それを森下が楽しそうに眺めていると、老人たちに声をかけられました。

「お兄さん、今からどこへいくんだい?」

「終点です」

終点、という言葉を聞いた途端、老人たちは黙りました。

「お兄さん悪いことは言わねぇ。終点は白蛇の神様がいるイサヤマだ。あまり行かない方がいい」

「あんたまだそんなこと言ってるの〜。あそこは桜の名所でしょ?他のお花だって綺麗に咲いてるんだし。ね、お兄さんはカメラ撮りに行くんでしょ?」

 森下は「ええ、そうです」と朗らかに笑って答えました。それも嘘ではないからです。

 老人たちは途中の停車場で次々と降りて行きました。

「気をつけなよー」なんて声をかけながら老人たちも森下も大きく手を振って笑っているのでした。


 伊佐山に着くと、それは見事な桜が咲いていました。淡い色をしている花が風に舞っています。春の花々が家の周りに植えられていてどれも綺麗に咲いていました。

 森下は今日子から貰っていた鍵を取り出すと、開けて入りました。ほのかにまだ今日子の香りがします。そして、居間に向かうと相変わらず質素なベッドと遺影とそれに手紙が置いてありました。

 手紙には「森下くん、ありがとう」と書かれていました。森下は神妙な気持ちになって泣きたくなりました。あと、何か入っていると気づいた森下は封筒をひっくり返すと椿の押し花とピックが入っていました。その間に紙が挟まっていて、それは今日子が書いたコード譜でした。生前に動かぬ体で書いたものなのでしょう字がよれています。

 森下は静かに泣いて、コード譜を広げました。そして、アコースティックギターを弾き始めました。あのあと、今日子がもし生きていたら聞かせようと思っていたものを練習していたせいである程度の曲は弾けるようになっていたのです。

 最後のコードの上に何か書いてあります。

「雪下の契りいつまでも 花が咲いたらさようなら」

 そういう歌詞なのでしょう。森下は飽きるまでこの曲をずっとずっと弾きました。

 そして、森下も秋が来ると街へ出て、とある少女を助けてこの地に誘いました。もう体が動かなくなりつつあったのです。

 冬が来ました。森下は少女と契りを交わし、ここを守ることを約束しました。これで眠れる、と思いました。

 森下はベッドで目を瞑ります。なんとなく、これが最期だということがわかります。もう、少女宛ての手紙もコード譜もピックも用意しました。あとは寝るだけです。

 そのとき、どこからか、あのか細い透明な声が聞こえました。今日子の声です。懐かしくなって、森下は目を細めました。

「ありがとう、今日子さん。素敵な最期を」

「いえ、私は何もできないの。ごめんね」

そんな声が聞こえた気がしました。


 伊佐山の春はもうすぐ来ます。そして、あふれんばかりの花々に囲まれて、新しい少女が訪れ、ギターを弾き、この場所で眠ることでしょう。


おしまい、おしまい。

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