夢をみる少女 ⑷

「旅の第一夜で、弟子は早速おかしな感情を知ってしまったようだね」

 ほうきは拗ねてしまった。

(失礼だな、素敵な感情さ。心が重たくなったような気がするもの。きっと、新しい心を手に入れたからさ。)

 客人から頂いた肉にナイフを沈める僕に、ほうきは変わらず素っ気ない。

「調子いいこと言ってさ。しゃきっとしてよね。アレッタ様に叱られちゃうよ」

 ロココはそっぽを向いて言った。いつものようにランプで食事を照らしてはくれなかった。こんなことは初めてだ。これはもしや、と僕は思いたつ。そしてソースが付いた唇を指で拭うついでにニヤっと笑い、僕は可愛いほうきに、

「ヤキモチってやつか? 僕が女の子に夢中なものだから」

 言ってやった。

「口から言葉を吐くなよ」

 そしてすぐに怒られた。やらかしてしまった。ふざけた顔を引き締めた。

(わるい。食事中は口を塞いでいないから。つい。)

「全く先が思いやられるよ」

 ほうきは機嫌が悪い。そんな時は、臍を曲げたこの子を優しく撫でて笑ってあげればいい。

 僕のほうきは甘えんぼう。精神的な成長は僕とさほど変わらないだろう。けれども、どこか幼稚さを感じる時がある。僕よりも賢いことを言う時もあれば、幼い子供のように甘える時もある。

 アレッタ様のもと、共に育ち、知恵をつけてきた。しかし、僕だけがひとりで育ってきたように思う時もある。

 ともあれ、僕とロココは一心同体なのだった。ほうきの寂しさは、僕の寂しさ。僕の喜びは、ほうきの喜びのように。

 だから僕には、ロココのことが手に取るようにわかるのだった。

(僕の旅の行方が心配かい?)

 にこりと訊いてみる。

「心配しかないよ。弟子が女の子に恋だなんて。おうちに帰りたいよ。アレッタ様のおうちへ」

 よしよし。いいこ、いいこ。

 けれども、恋は人を成長させるものだと、本で読んだことがある。僕の成長のため、一人前の魔術師になるために、心がどうしても必要だった。

 知らなかったものを知り、見たことがないものを見て、感じたことがない感情を手に入れて、心は成熟する。魔術師を志す僕の心の成長は、魔法を生む糧である。

 恋というものは、どのみちこの旅の中で手に入れなければならないものなのだろう。

 それに、

(アレッタ様は、きっと今の僕を叱らないさ。)

 きっと。そうなのだ。

「どうしてさ」

 眠りかけの僕に、やはりステーキは重かった。食事の大半を残し、僕は再び足を組む。膝上に目を瞑った赤い魔術書を置き、ロココを抱きしめた。

 そして、静かに、そっと囁いて、教えてあげた。

(アレッタ様だって、僕が知った感情を知ったことがあるからだ。)

 そうなのだ。きっと。だから、一人前の魔術師になったのだ。きっと。

 ロココは気がついたように、膝の上で眠るモルスを照らした。

「アレッタ様とモルスが、恋人だというの?」

(きっと違う。)

「じゃあなんなのさ。アレッタ様の恋のお話なんて、聞いたことないじゃない」

 アレッタ様は、どんなことも、いつだって、僕には答えを教えてはくれない。それはおそらく、答えは教わるものではなく、自ら思考して導き出すものであるから。

 しかし、答えに導いてくださったことはある。それは、モルスを僕に授けてくださった時だった。

(モルスは悪女さ。怖い女だ。)

「いやだよ。悪口を言わないで」

 アレッタ様は確かに仰った。

 モルスは本。私の大切な赤い魔術書、と。

(モルスはアレッタ様を誑かし、アレッタ様に恋を教えた女だもの。)

 はるか昔、アレッタ様を誑かした悪い女がいて、魔術書を装丁をする際、その表紙に女の顔を封じ込めたのだとか。

(アレッタ様はモルスと出会ったその時、新しい心を知ったのだろう? 今の僕のように。)

 だから、アレッタ様の赤い魔術書は、語ることができる。

(その心はきっと、アレッタ様の美しい魔法となったのだろう。)

 百万個の流れ星のように、綺麗な魔法になっただろう。アレッタ様のそれはおそらく、星よりも月よりも輝き、虹をも超越する美しい色彩であっただろう。あのアレッタ様の恋……見たかった! 初めて恋を知った初々しいアレッタ様をおそばで眺めていたかった! さぞお美しかったことだろう!

 恋とは素晴らしい! 僕のこの胸の痛みが是非とも恋であると願いたい!

「……アレッタ様の恋のお話を想像して感極まっているところ悪いけれど、モルスが泣いているよ」

 感極まった。天を仰ぎ、僕は両腕を掲げていた。なにせアレッタ様の恋だ。仕方がないことだ。

 しかし、おやおや。ご本が泣くだなんて。

 この涙を流す赤い魔術書が、この世で唯一、魔術師アレッタ様の心を射止めた女性なのだ。彼女もまた、言うまでもなく美しい。見惚れるほどに美しい本だった。

 落ち着きを取り戻し、僕は美しいモルスを撫でた。そして、ひとつ囁いた。

(泣くほどに、いい思い出だったのかい。)

 感極まるほどのその感情を、僕は手に入れたい。

「どうやら涙というものは、苦い思い出を巡らせた時も流れるものらしいよ。弟子は知っていたかい?」

(感情に疎いもので。僕はそんなものは知らないさ。)

 膝上のモルスはひととき、涙を流す語らずの本となったが。本の表紙という名の監獄に、静かに閉じこもり涙を流すのみだったが。

 それほどの歓喜を是が非でも手に入れたいと願い、僕は夕刻まで深い眠りについたのだった。

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嘘つき魔術師アレッタの償い @nel_3

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