夢をみる少女 ⑶

「やあ弟子。気分はどうだい」

 黒い夜空が色づきはじめた頃、ロココは眠りかけの僕に声をかけた。

(気分はいいよ。目を瞑ったばかりだけどもね。)

「それはなにより」

 いつだったかこの空の色を眺めながら、アレッタ様から不滅の魔女のお話を聞いたことがある。それは、数少ない僕の記憶の中、大切な思い出として刻まれている。

 あの日、アレッタ様は仰った。あの魔女たちは、皆美しかった――と。

 今はひとりになってしまったけれども、アレッタ様はたしかにお美しい魔術師だ。しかし顔をあらわにすることを嫌い、街に出る時は、刺繍でいっぱいのローブのフードを深くかぶっていた。

 美しさは時に、人を惑わせ狂わせると教わった。そうしてアレッタ様は、僕の顔に布を巻いてくださった。けれども僕は、アレッタ様のお美しい顔をそばで眺められる幸せ者。

(ロココ、眠れないのかい。)

 ひとり森で帰りを待つアレッタ様を想い、ロココを撫でてあげた。アレッタ様がいないのだから、ロココも不安なのだろう。

 確かに、森の中のベッドが恋しくなるような寂しげな夜だった。今日の寝床は、古めかしいクロックタワーの三階の一室。壁に穴があいた、あの汚らしい埃まみれのお部屋。そこに一脚だけ、猫脚の立派なチェアがあった。

 役目を失ったクロックタワーにふさわしく、このお部屋もまた人に捨てられたのだろう。時を止めたように、静かだ。

 一掃したチェアを拝借し、足を組み、肘を立てる。組んだ足の膝上に赤い魔術書を置き、そばにロココを立てかけてあげる。この年季が入ったチェアを、僕の寝床にさせていただいた。

「ねむりかけなのに、声をかけてしまって申し訳ないね」

(いいんだよ。僕の眠りは浅い。)

 ローブと他所行きのジュストコルを、崩れかけの壁に飾らせてもらった。お気に入りのそれが壁にあるだけで、素敵なお部屋になる。そして、眺めて痛む心臓を労る。知らない痛み。なんとももどかしい。痛む心臓をどうにもできず、僕の眠りは浅かった。

(ところで、なにを見てる。)

 眠ったばかりのロココが、目を覚ましていた。僕の旅が心配すぎて、やはり心労が絶えないのか。ロココは先っぽを壁の穴から出して、何かを見ていた。

「あの子がここへ来るよ。何か持っているみたいだね」

(リティアかい? 仕事に出かけるのだろう?)

「そうだね。ボロの街並みに相応しくもない、見栄っ張りで豪奢な馬車が来ているよ」

 朝靄に紛れ込む、馬の筋肉の躍動、息遣いを感じた。

(仕事に行く前に僕に会いに来るのかい? 可憐だね。)

 ロココには見えなくとも、僕は微笑んだ。

「ああ、可憐さ」ロココのランプが僕を照らす。振り向いているらしかった。「何かくれるのかな。とにかく落ち着いてよね」

(僕は取り乱しているかい?)

「いや、落ち着いているように見えるね。ただ、」

(ただ、)

 ロココの心労などつゆ知らず、トン、トン、トン。

「余計なことは、しないことだね」

 ドアだって半分は腐っているのに。ノックをする必要もないだろう。けれど客人は、お上品に三度鳴らした。

「開いてるよ。鍵なんか壊れているよ」すぐにロココは振り向いた。

「まあ、うちと同じね?」朝にふさわしい、太陽のような声が聞こえる。「入ってもいいかしら?」

(どうぞどうぞ。僕は半分眠っているけれど。)

「おいで。何を持ってきたんだい」

 僕やロココは朝に眠り、夕陽が沈む頃に目を覚ます。彼女はきっと違う。まだ、目を覚まして間も無く。

「朝食をどうぞ、旅人さん」

 古臭い猫足のチェアに鎮座する僕に、客人は深々と頭を下げた。

「……弟子のためにわざわざ作ったのかい? 魔法が暴発するよ」

 リティアは細い両手に、ヒビが入ったお皿を持っていた。腕にはカゴを下げていて、バゲットが僅かに見える。何を作ったのだろうか?

 僕はいい香りに誘われて、猫脚のチェアから身を乗り出した。

「だって、旅人さんがこの街で食べ物を用意するのは大変よ? 高いもの。これは大したものじゃないの」

「ステーキに、キッシュに、バゲットもあるよ? とても貧乏人の朝食とは思えないお料理だよ。破産しなかったかい?」

 破産の朝なのに、気分はいいものだ。

「本当に大したものじゃないのよ。私は仕事に行くから、よかったら食べて?」

(朝から僕にステーキを食べさせるのかい? 生臭いし、重たいね。食べるよ。)

「弟子は朝から脂っこくて生臭いステーキも食べるよ。君からの貢物ならば」

 果たして、なんの肉か? どのように手に入れたのか? 買ったのか、狩ったのか?

「どうぞ召し上がって。お皿もボロだから、捨ててしまって構わないの。それじゃあね」

 小さい頃、アレッタ様は仰った。知らない人からものを頂いてはなりません、と。ましてや、もらったものが食べ物であるなのなら、その場で捨て去った方が賢いと。

 しかしながら、万が一受け取ってしまったのなら、その時はお返しをするのが礼儀だと。

(待って。)

「待って」

 僕は彼女の去り際に、細い腕を掴みとった。こんなに脂っこくて生臭くて重たい朝食を差し出してくれたんだもの。その気遣いにはもちろん、其れ相応の礼をして差し上げる。

「……なにかしら」

 彼女は、僕の心臓が三つ鳴ってから、静かに振り向いた。

(仕事に行くというのに。顔を赤くさせてしまって、ごめんよ。)

「弟子は余計なことをしたいみたいだね。お礼さ」

「……おれい? ……これは、」

 それは、この世で最も美しい宝石だ。見るものを魅了し、艶やかに輝く涙だ。

 僕は、小さな小さなそれを一粒、リティアの手のひらに置いた。

「綺麗……」大きな青い瞳の中に、その涙が映っていた。「でも、……こんなに高価なもの、だめよ?」

 その価値は、見る者によって変わるのだろう。喉から手が出るほど欲しい者もいれば、必要ない者もいるのだろう。

「そのボロ布で仕事に行くのかい? 馬車とはいえ、そのボロで乗っていたら奴隷と見間違えられるよ」

「でも、」

 人が魔女の涙を欲しがることがあるのだと、アレッタ様は仰った。その涙を手に入れて強く願えば、僅かながら魔法の力を得ることができるからだ。

「それは魔法の宝石さ。強く願えば、他所行きのドレスに着替えられるよ」

 魔女の涙を欲しがり、嘘のような話を信じ、アレッタ様がいる愚者の森に足を踏み入れる者もいる。しかしアレッタ様のお姿を見て、生きて帰った者はいない。そこは愚者の森。愚か者だけが、足を踏み入れる森。

 この出会いが、素敵な出会いになることを願い、アレッタ様の涙を一粒、リティアに授けた。永遠の力とはならずとも、せめて今だけは他所行きのドレスを身に纏うことはできるだろう。

(いてててて、)

 赤い魔術書には、手を噛まれたが。

「ありがとう。……でも、美しくて勿体無いわ。きらきらしていて」

(家宝にでもするのかい?)

「街をひとつ消し飛ばすほどの力はなくとも、一度だけ魔法が使えるよ」

(どう使うかは、君次第さ。)

「夢みたい……ありがとう。きっと大切にするわ」

 宝石を握りしめたリティアの青い瞳は、また輝いた。その瞳を見ると、僕は思う。

(ああ。僕は、余計なことをしたようだ。)

 一度その瞳の輝きを見て仕舞えば、二度と忘れることなどないだろう。確かにこの子は、その美しい瞳さえあれば、ボロ雑巾の服だっていいのかもしれない、と。

「じゃあね、行ってきます。さようなら」

 去り際に優しさと、美しい青い余韻を残すほど、あの瞳は美しいのだから。

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