欲しいのは、深紅

暇崎ルア

第1話

冬の日暮れは早い。夏場なら十八時ぐらいでも、まだ空の色がオレンジ色だったりするのに、十二月の十七時はもう暗闇だ。

 いつもだったらこんな時間には家にこもってるのに、今日まだ町中にいる。

 しかも、履きなれないパンプスなんか履いて。私、なにやってるんだろ。

 そんなので速足になったりするから、街中で人にぶつかったりする。

 横断歩道の上で、私より何十センチも背が高い人、多分男性とぶつかってしまう。顔を上げられないからわからないけど、上から視線が刺さっているような気がする。

「……すみません」

 咄嗟に小声で謝ってそそくさと逃げるように去る。

 何しろ今は急いでいるし、何があっても向かわないといけないところがあるんだから。

 隕石が降ろうが、血の雨が降ろうが私はそこに行かなくちゃならない。会いたい人がいるから。

 こんな気持ちが掻き立てられる人にそれまで出会ったことはなかったけど、私はとうとう出会ってしまった。

 赤信号にぶつかって立ち止まる。

 大丈夫なんだよね、と確認したくてコートのポケットに入っている携帯を取り出し、メッセージアプリを開く。

 一番上のトークルームを開いて、今日届いたメッセージを読み返す。

 メッセージは三件。

『今日、会えるかな』

『月曜日はちょっと、大学にも行く気がしなくて。今まで連絡しなくてごめん、心もきまらなくて』

『今日の夜六時頃にいつもの場所に来てほしい』

 信号が青になる。携帯を閉じて私はまた歩き出す。

 細いパンプスに抑えつけられたつま先はもうじんじん痛みだしているが、そんなことどうでもいい。邪魔になったら脱げばいい。

 この信号を渡ればもうすぐだ。

 約束の時間まであと五分に迫っている。

 私はきっとまた、橋田玲に会える。


 他人は昔から苦手だった。

 クラスのみんなとワイワイ騒いだり、関わることを楽しいと思えたことがない。

 気を遣ってくれた子がグループの中に私を誘ってくれたとしても、私は上手く話すことができず、場の空気を気まずいものにしてしまう。むしろそれが私の特技だった。そのうち私は一人で過ごすようになった。

 そうなるとするようになることは一つ。一人で過ごす術に頼るようになる。

 私の場合、本を読むことだった。

 本を読んでいれば、誰も私に話しかけないから気を患うこともない。小学校高学年から大学二年の今まで私を助け続けたライフハック。

 しかし、それを軽々と破ってきたのが橋田玲という男だった。

「何、読んでるの」

 夏休みが明け、新学期が始まってすぐの講義の一回目。

 次の講義が始まるまで、他の人間が教室の一番後ろの端の席で悠々と一人でいたかったのに、空気を読まず邪魔をした茶髪の男。

 それが橋田玲に対した第一印象。

「あ、ごめん。隣空いてる? って聞こうと思ったんだ」

「……空いてます」

 何でそれと言い間違えたんだか理解できないと内心でぼやきつつ、渋々頷く。

 現実に引き戻されて私は相当機嫌が悪かった。

 そんなことをわかっているんだかいないんだか、そのときの橋田はありがとう、と座った。

「で、何読んでるの」

 とうとう本の表紙を横から覗こうとし始めた。

 にらみつけそうになるのを必死にこらえながら、表紙をめくるとすぐに見えるタイトルを見せつける。

 ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』。イギリス吸血鬼文学の永遠の金字塔。

「聞いたことある、読んだことはないけど」

 そんなことは聞いちゃいない。

「そうですか」

「ねえ、なんか怒ってる?」

 本気で目の前の男を殴りそうになった。

「本読んでるときは、話しかけて欲しくないんです。申し訳ないんですけど」

 ショックを受けたのか、ひゅっと息を呑むのが聞こえた。

「あ、そうなんだ。気づかなかった、ごめん」

 しゅんとしたように俯いてしまったのを見て、少し言い過ぎたかなと後悔し始めた瞬間、講義開始を告げるチャイムが鳴り、先生が入ってくる。

 わずかにもやもやしたものを抱えながら、授業に集中せざるを得なかった。

 さっきはごめんなさい、と謝れたのは講義が終わって解放された学生たちがガヤガヤとし始めたときだった。

「ん、何が?」

 すっかりけろっとしているのを見て、気にしていたのが恥ずかしくなる。

「話しかけないでほしい、とか失礼なこと言ったと思うので」

「あー、いいよ。オレの方も失礼だったし」

 気にしている様子もなく、爽やかに笑うのを見てなぜか心がざわついた。

「そうだ、名前何ていうの? オレは橋田玲」

 急に聞かれて自分の名前も言えなくなったのは、今まで人付き合いを避けてきたツケだ。

 授業後に提出する授業のまとめペーパーの名前欄を見せる。

「芹沢栞、ね。オレと同じ二年だ。今後も授業で会うかもしれないから、よろしくね」

 白い歯を輝かせて、橋田玲がまた笑った。


 その後なぜか、橋田玲とは授業以外でも会うようになった。

 打ち解けたと思われたのか、ある日、連絡先教えてよと言われ、断ることができなかった。

 一緒の講義がある日は、終わった後もキャンパスのベンチに並んで座り、お弁当を食べる。でも、それ以外の日は会わない。週に一度の定期イベントみたいになっていた。

「なんで今日ばっかり会うんですか」

 食後開いた本に目をやりながら、一度だけ聞いたことがある。

 そうだなあ、と抜けたような声が聞こえた。

「何か落ち着くんだよね、栞の側にいると」

 こういうことを言われたときどういう反応をすればいいのか。

 横を見ると、微笑む橋田の横顔が見えた。

「ずっとそばにいるのは、良くない気がして」

 何それ、と思ったけど黙っていた。

「でも、週に一度は会いたいんだ。本当は毎日顔が見たいんだけど」

 嫌なら断っていいよ、と橋田が寂しそうに呟く。

 私はその時にはもう、嫌だとは思わなくなっていた。


 秋学期の授業も終盤を迎えた十二月のある日、橋田は授業に来なかった。

 いなくても全然平気なはずなのに、胸の冷える思いがした。

――嫌われたのかな。

 一瞬よぎった言葉を慌てて打ち消す。別に、嫌われてもいいじゃん。初めて会ったときは邪魔だと思ったんだから。

 その次の週、二回目となった橋田不在の講義後に、私は個人トークルームにメッセージを打っていた。あと二回休んだら彼は学期末の試験を受けられない。

『最近来てないけど大丈夫ですか』

 送信し終わって、何やってんだろと自分に呆れたけど、送信取り消しをすることもなかった。

 何週間か前に送られてきた『明日の講義後にお昼一緒に食べない?』という橋田のメッセージに宛てた返信にはすぐ既読がついたのに、なかなかつかなかった。

 やきもきしながら数日を過ごし、やっと返事があったのは四日後だ。

 金曜日、大学は一日全休でお昼の十二時から十七時までカフェのバイトがある日。

 準備を済ませて出ようと思った矢先、携帯が通知を告げた。

 待ち受けに写った名前は「橋田 玲」。

 慌てる必要もないのに、慌てて通知欄を押す。

『今日、会えるかな』

『月曜日はちょっと、大学にも行く気がしなくて。今まで連絡しなくてごめん、心もきまらなくて』

『今日の夜六時頃にいつもの場所に来てほしい』

 何の前置きもなく、「今日会えるか」だなんて唐突すぎるのもいいところだ。

 だけど、あの男は最初から唐突だった。だから、これでいい。

 すぐさま返信を打つ。

『わかりました、大丈夫です』の文字だけを打つのにも、手が震えて時間がかかった。

 その日のバイトは、なかなかに散々だった。

 お客さんの元に届けようとしたコーヒーをこぼしそうになって心臓が縮みそうになったのはその日が初めてだったし、オーダーも間違えたり。

 何もかも橋田のせいだ。

 バイト中はずっとその言葉が頭の片隅にあった。


 十七時十五分過ぎ、カフェの裏口から出る。

 バイト用のパンプスを履き替える時間も惜しく、そのまま大学に向かう。何でこんなに急いでるのか自分でもよくわからない。

 駅のホームまでの距離も、電車に揺られている時間もいつもより長く感じた。

 やっと目的の駅につき、地上への階段を上がり切った瞬間、足の力が抜けてしゃがみこんでしまう。

 冬の十七時三十五分、地下鉄入口の階段の横でしゃがんでいる女を通行人がじろじろと見る。

――本当、私何してるんだ。

 橋田の言葉を信じて、キャンパスに向かうなんて馬鹿みたいだ。

 違う場所かもしれないのに。そもそも、橋田は来ないかもしれないのに。

 携帯を開いてメッセージを再確認する。

 読み返せばむちゃくちゃだと思う。

「いつもの場所」ってどこだよ。確認しないで大学のある駅まで来てしまう私も私だが、普通どこかは書くだろう。

 これでも通じると確信があるのか。あるんだろうな、彼はそういう男だから。

 画面を眺め続けているうちに、十分が過ぎていた。

 約束の時間まであと十分。そろそろ行こう。慣れ親しんだキャンパスのあのベンチへ。

 人にぶつかり、痛む足を抱えながら大学前の長い横断歩道を渡り切り、大学にたどりついた。

 夜間の講義もあるから、まだ空いている。

 息を切らせてキャンパスへのベンチへと歩く。誰の姿もない。十八時から講義が始まるからか。

 あと五分。固いベンチの座面は当然冷たかった。

 何も無理に来ることはなかったかもしれない。

 それに、来週になったらまた来るかもしれないのに。

 でも、「心がきまらなくて」という言葉がなぜか不安にさせた。だって、どうしてわざわざそんなことを。

 今日会えなかったら、もう会えないんじゃないか。そんな気がした。

 第一印象最悪だった男は、いつの間に一番愛おしい人になっていた。身も心も引き込まれかけていることに今更気づく。

 今日が最後でもいい、また会いたい。

 私は貴方のような人を探していた。

 いつも顔を見たい、と言ってくれる人を。

 コートの中の携帯が震える。メッセージアプリから通話が来たことの通知。迷わず通話画面を開いた。

「……もしもし」

『オレだよ、玲』

 そんなこと言われなくてもわかってる。

「今、どこにいるの」

『キャンパス内にいる。栞がどこにいるかも見えてる』

 嘘、と口に出して立ち上がる。

 立ち並ぶ学舎、食堂、イチョウの木、見回しても人影は見当たらない。

「何で来ないの」

 一瞬の間。自分の心臓の音だけが大きく響いている。

『……オレ、君が好きだ』

「知ってる」

『でも、会ったら栞のこと、傷つけそうな気がして』

「……意味わかんないんだけど」

 わかんなくていいよと橋田が続ける。

『今までも会う度に辛くなってたんだ。オレはきっと君の隣にいないほうがいいって』

 ごめん、でも好きなんだと吐き出すような橋田の声は暗い。

 はあ、といろんな感情が混ざったため息が出た。

「はっきり言うよ、私も橋田が好きだ」

 携帯の向こうから、息を呑む音が聞こえる。驚いたときの橋田の癖だということはもうわかっている。

「なんかさ、もう、どうしようもないくらい。傷つけられてもいいよ。あなたになら構わない。来ないなら、もう会わないから」

 よくもまあ、こんな歯が浮くようなセリフを、私は。馬鹿だな。

 自嘲したとき、後ろから足音が聞こえてきた。

『……わかった、今行く。でも』

 ざわ、っと風が木を揺らす音。

「どうしても栞の血が欲しくてしょうがないんだって言ったらどうする?」

 左耳から熱い吐息と声がかかる。

 振り返った冬の夕方の闇には、真っ赤な両目が二つ輝いていた。


『吸血鬼ドラキュラ』の世界はファンタジーだと思っていたけど違ったようだ。

 橋田の声が遠くで聞こえる。橋田の膝の上を枕に横たわっているから遠いはずないのに。

 橋田なりの告白をされてから、私は幸福感で満たされていた。

「最初から、私の血が欲しくて近づいたの?」

「……最初は普通に仲良くしたかった、本当だよ」

 ふっと橋田が苦々しく笑う。うるんだ赤い瞳が私に向けられていた。

 口元を見ると、乾いた私の血がこびりついている。

 もう私は身も心も橋田のものだから、そんなところも愛おしく思える。

「でも日が経つほど、どうしても好きな人の血を吸ってみたいっていうのが抑えられなくて。ごめん、そういう好きなんだ、オレの好きは」

 首筋綺麗だね、と言いながら私の首筋の傷を橋田の冷たい指がなでる。さっき彼が作ったものだ。

 閉じ始めた傷をなでられるとじんわりと熱くなる。

「……何でもいいよ」

「どんな結末でも」という言葉を飲み込む。そんなの今はどうでもいい。

 膝の上から起き上がると、すぐに橋田の唇が私の唇を塞いだ。

 いつかこの恋を後悔するかもしれない。

 それでもいい、誰かを好きになるってきっとこういうことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

欲しいのは、深紅 暇崎ルア @kashiwagi612

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ