1日で壊れた人生

白鷺緋翠

第1話

 いつもと変わらない日だった。いつも通り起きて学校行って授業受けて、友達と寒いのに外でお弁当食べて部活して。帰って寝る支度して寝て。

 明日も同じような日が来ると思っていた。


 私は10歳超えた辺りから腰が悪くなり始めていた。何が原因か分からないが、痛くて。でも湿布を貼って体育も見学していれば1週間ほどで痛みは引いた。それを3ヶ月おきくらいに繰り返す慢性的な腰痛生活をかれこれ10年近く続けている。

 病院にも何回も行った。レントゲンを何回撮っても異常なしと言われ、最初にもらったコルセットをつけて重いランドセル背負って学校に行っていた。

 小1のときからやっていた剣道に励んで、筋トレの時間も増やして運動して筋肉つければよくなるという考えで生きてきた。

 小さい頃から床に座ると痛かったし、重いもの持つのも腰が痛くて困難だった。でも、みんなも痛いと言うから私が特別腰が悪いわけじゃないと思い続けてきた。いつか気づかぬ内にぎっくり腰をして腰を悪くしてしまったのかもしれない。家ではそういうことでひとまず区切りをつけていた。


 少し話が変わるが、私が幼稚園生の頃、引っ込み思案で早生まれだったから言葉も上手く喋れず友達もできずの生活で、ずっとピアノの足に座りながら本を読む子だった。そんなとき、私の大好きな先生がずっとお喋りしてくれた。読めない文字は教えてくれて、大好き歌を歌うためにたくさんピアノを弾いてくれた。当時からピアノを習っていたから先生が一緒に弾いてくれたりもした。

 先生のおかげで性格も少しずつ明るくなって、今は明るいとかポジティブ超えてアホになった。

 そんな先生に憧れて、小さい頃から幼稚園の先生とか子供とたくさん関われる仕事をしたいと思った。そのために苦手な裁縫も得意にしてやりたくない勉強もして、童謡の伴奏はまるで私が作曲したかのように弾けるようにして、何かあっても対処できるように医療も勉強してきた。

 腰痛いのは少し厄介だったけど、鍛えとけば子供の2人だって抱っこしてやれるだろう!と思って。

 行きたい大学も決めて、あとは試験のために必要な専門的な知識を学ぶだけだった。


 高校2年生のある日、授業中座っていられないほどの腰痛を感じた。今まで座って痛むことはあったけど、その日は何かが違った。痛みのあまり教室を黙って出ていって誰もいないトイレで泣いた。座れないから壁に寄りかかって痛い痛いって言いながら。

 その後、保健室に行って養護の先生も私が腰痛持ちなのを知っていたから心配してくれて、早退して病院に行くよう薦めてくれた。

 その日、いつも行く病院ではなく他に家の近くにあった病院に行ってレントゲンを撮る。またいつものように異常はないと言われる。でもおかしいのだ。座れないくらい痛い。こんなこと今までになかったからきっと何か原因はあるはずだと言うと、大きい病院の紹介状を書いてくれてそこで診察することとなった。

 薬を飲んでも痛みは変わらない。横になっても痛い。痛みは悪化していくだけの地獄の日々。学校にはとても行けるような痛みではないから、そこから休み始めて寝たきりの生活が始まった。病院の予約もすぐ取れたわけではなかったからそれまでは湿布と飲み薬を飲んで我慢した。その薬はまあ強くて吐き気がすごく、ろくにご飯が食べれなくなって5kgも痩せた。

 それでもテストは1ヶ月前に控えていたし、早く治して授業に出ないと単位も取れないし点数も低ければ留年が確定してしまう。そのときはそんな恐怖だけが頭にあった。


 いつも1週間あれば治ったはずの腰痛がよくならない。1週間分の薬もなくなった。

 予約の電話をして多分10日後だったと思う。初めて大きな病院に行って紹介状と医者にもらったレントゲンのデータを渡して順番を待つ。

 何年も異常なしと言われ続けてきたから、ここでもまた何もないと言われたらどうしよう。何をしたら良いのだろう。何をしたら良くなるのだろう。と不安が募る。

 病院に来てからおよそ1時間後、番号が呼ばれて診察室に入ってすぐ言われた。

 関係ないけど、先生がガチでイケメンだった。家の近くの整形外科医はおじいちゃんだったから若いイケメン医師が担当になって内心フィーバータイム。非常に良い顔をお持ちでした。


 右の5番目の背骨。骨ないね。


 私はその言葉を聞いて思わず目を見張った。大きな画面に出された自分の骨の画像をよく見てみると確かに左右対象ではない。白い部分が確かに右にはなかった。レントゲンじゃ分からないからMRI撮ってきたらいい。そう言われて紹介状書いてもらったのだと言うと先生は言った。


 これはMRI撮らなくてもレントゲンでも分かるレベルだよ。ここ、左右で形が違うのが(本名)さんでも見て分かるでしょう。


 先生はレントゲンを左右で比較したものを見せながら説明する。先生曰く、小学生の頃に腰椎分離症という腰の疲労骨折をしていて、放置していたから悪くなったんじゃないかという考えだった。でも本当のことや詳しいこと、原因はレントゲンじゃ分からないようだからCT検査をして、後日MRI検査をすることになった。

 レントゲンの撮り方はまじで生きてきた中で1番痛かった。本当に。


 歳の離れた弟が2年前、サッカーのしすぎで腰椎分離症になっていたから姉弟して同じことになって、と笑われた。

 私があまりにも痛がってるからお母さんは、弟もあまり言わなかったけどこんな痛かったのかな、と心配していた。確かに私みたいにこんなに痛いと悲鳴をあげることは一切なかった。弟は強いんだなとしか私も思わなかった。

 でもスポーツ大好きな弟と違って私は体を動かすのは嫌いだし運動音痴だし。自信持ってできると言えることは剣道と縄跳びくらいだった。放課後も遊ばず、小学生のときは偉くて自主学習なんてものをしていたので、腰を疲労骨折させるほど使った記憶はなかった。むしろ剣道なんて姿勢の良いスポーツで……と。


 腰椎分離症と言われたら、まず体育はできないしバイトもしばらく休ませてもらわないとな。学校も電車通学か、と考えていた。弟も2ヶ月ほどで治ったから初期より不安は消えていた。

 そして検査の日。30分ほどの大きな音がする中、ヘッドホンでオルゴールの曲が流れるという大変眠たい環境で検査が終わった。

 いつ治るんだろうね。コルセットしても治らないけど何をしたら治るんだろうと、そんな話をしながら待っていたら土曜日だったこともあってすぐに順番になった。


 腰椎分離症でしたね。


 そう言われるかと思っていた。私もお父さんも。その日は仕事のお母さんの代わりにお父さんが来てくれてた。


 MRI見たら腰椎分離症ではありませんでした。生まれつき、関節がないかと。


 そう言われた。成長段階でなぜかそこの骨だけが成長しなかったらしい。私は小4頃に身長が20cm近く急に伸びたから、時期的には痛くなり始めた10歳頃と合う。予想もしなかった答えに私は思わず笑ってしまった。生まれつき関節ないってどういうことやねんって。


 先生はわざわざ論文を読み漁ってくれたらしい。それでも前例があまりにも少ないことだった。手術をして成功した例まで少なく、特に若いほど失敗する確率は高い。この歳で手術をしてしまえば10年後、そのまた10年後、また10年後……と手術を繰り返さねばならない。そしていつか歩けなくなる。しかし、手術せずに放っておいても近いうちに歩けなくなってしまう。それでも自分はあまり腰の手術をしたくない。と先生は私とお父さんに説明した。

 あまりにもドラマの一場面のような話で、本当にこれは自分の体の話をしているのだろうかと思った。普通の人生送ってた。一般的なごく普通の10代。どこにでもいるような、そんな人間。

 部活のない日は友達と遊びに行って。

 部活がある日はお菓子食べながら同級生と後輩と一緒に銃で撃ち合うゲームをする。吹奏楽部なのに。

 土日はバイトして好きなことするための金を稼ぐ。

 何もない日は友達と渋谷行って原宿行って。結局マックとかダイソーとかマツキヨ行って終わる。プリ撮るためだけに池袋行った。約200円無駄すぎる。

 何もしたくない日は好きな漫画読んでゲームして、気まぐれに英単語帳見て、1単語覚えて満足して。

 良い感じにJKしてた。私の理想のJK生活。

 その話を聞いてて何か悟った。ああ、もうこんな普通はできなくなるんだ。夢も叶えられないんだ。将来結婚して子供ができて……っていう生活もきっと難しいんだ。


 とりあえずその日は注射をすることになった。ストロイドを打つと言われて一瞬頭にバイオハザードが駆け巡る。

 先生が注射の説明をしていると、急に耳がぐんっと痛み聞こえずらくなる。視界も狭まり過呼吸になる。何年か前、1回目のコロナワクチンを打ったときアナフィラキシーショックになっちゃって死にかけたから、知らぬ間にトラウマになってたみたいでこういった発作起きてしまったみたい。

 今日は打つのやめようか。と先生は言ってくれたが打たないと良くはならないし、いつかまた日を改めて打つことになる。だったら今日打った方が良いと思って我慢して打つことを決めた。

 病院の四角い枕ってなんか紙が敷いてあるんだけど、麻酔が思ってた何十倍も、すごく痛くてその紙をビリビリに引き裂きながらわんわん泣いて神経に注射されて……とにかく痛かったことしか覚えてない。看護師さんと先生が頑張ったね、偉いねって褒めてくれてニヤつく元気はあった。

 先生はこの注射であわよくば痛みがなくなれば手術もしなくて済む。だから治って欲しいって言っていた。私もそう思った。手術なんてしたくないし、できれば早く治って欲しい。

 でも、長年私に住み着いた腰痛はそう簡単に消えてくれやしなかった。注射してもまともに歩けない。


 痛みは増していくばかりで眠ることすらできなくなり、先生はまず薬で痛みをとろうとした。腰の手術はあまりにもリスクが大きすぎるようだ。

 当然美味しくはない。副作用で気分が悪くて汚い話、体に入れてる量よりも吐く量の方が多かった。その上で2週間おきくらいにブロック注射をして、体は既にボロボロだった。

 自分でまともに歩けないから車椅子に乗って、院内を行き来する。診察室の外で待っているおばあさんやおじいさんが走っていたりするのを見ると、何だか笑えてきてしまった。

 ブロック注射の後は先生が付き添って看護師が2人もついて車椅子で移動する。そんな私は目立っていたのだろう。院内で待つ人や歩く人は皆注目した。若い子が何事だろうかと思っているのだろうか。それが何だか惨めになって、私は注射を打ったばかりで痺れる右足を捨てたくなった。


 学校に連絡をすると単位も足らず、テスト受けられないと留年が確定すると言われた。何とか説得してせめて留年を免れる課題などを作ってくれないかと言う。お母さんや先生とも話し合って学校側に伝えても、難しいの一点張り。


 ああ、そうですか。


 そう言って失礼します、とぶっきらぼうに告げて電話を切った。

 先生に頭を下げてお願いをした。たまたま学校の目の前に大きな病院があり、そこで入院していたのでテストは別室で寝ながら教師と2人きりで受ける。それを認めてもらい、テストを受けることにした。


 テストを受ける前日、急に悪化した。痛くて痛くて堪らなかった。せめて前日だけでも勉強しようと思った矢先、ペンを持つことすらできない痛みに襲われた。つくづく神様は私に味方してくれない。


 私が手術をするとしたら人工骨を入れて固定するか、移植するか。移植はできない可能性があるということで固定法という手術になる。しかし、固定してしまうと腰の中で1番支えている5番目が使えなくなり、4番目に負担がかかるようになるためヘルニアになってしまう可能性も出てくる。そして4番目が使い物にならなくなれば4番目も固定して3番目に負担をかける。そうすることによって私の腰は段々と使い物にならなくなり、体重を支えきれなくなり。

 先生はそういったリスクの高い手術を避けるために何とか麻酔をして感覚を麻痺させて痛みを少しでも消すようにしてくれた。

 本当にね、痛くなくなったの。立てて歩けるようになって。これは神経を麻痺させてるから治ったわけではないんだけれども、それでも行きたい場所に自分の足で歩けることは何よりも嬉しかった。


 お母さんは優しい言葉をかけて世話をしてくれるけれど度々零れるごめんねという言葉が、すごく申し訳なかった。先天的な問題だったことに引っかかってしまったらしい。誰も何も悪くない。それでもこんな歳で親に悲しい気持ちにさせてしまうのはとんだ親不孝者だと思った。


 私は、何だか悔しかった。あのとき、何回も来て異常がないと思ったんだったらMRI撮ろうと言ってくれれば良かったのに。そうしたらもっと早く見つけて、早い段階でこんなに悪くなる手前でどうにかできたかもしれない。もっと上手くこの腰痛と付き合えるようになっていたかもしれない。今回、セカンドオピニオンも良いかもねとお母さんの話しておかなきゃ、今頃本当に歩けなくなっていたかもしれない。大きな病院に来て、この先生が担当になってくれたことが大きな救いだった。


 一生治ることのない。手術をしたとしても自分の体を傷つけるだけ。私が30歳になる頃には歩けなくなっているかもしれない。

 何だか生きる意味も失った気がした。夢も叶えられない。友達とこれから馬鹿することもできない。したいことが思うようにできない。制限された世界。何のために、何をしたくてこれから生きていけば良いんだろうか。誰も何も悪くないからこそぶつけることのできない悔しさが、苦しい。


 どうして私なんだろう。どうして今なんだろう。もう少し人生を謳歌してからこんな痛くなったら何も文句は言わなかった。まだ、長い人生のこれっぽっちも生きれてないのに。急に自分から離れていった数々の自由が戻ってくることはきっとない。


 最初は腰だけだった痛みも今や足にまで広がって下半身はほぼ老人同然。立とうとしたときに力が入らなくて崩れ落ちたとき、この足なんて切り落としてしまえたらいいのにと思った。


 もっと歩ける足をちょうだいよ。私に歩かせてよ。腰の痛みもない、10代らしい体にして。

 なんで私より遥かに歳上の人が楽に歩けてるのだろうか。私は歩けないのに。こんなにも痛いのに。1ヶ月前は私も走れていたのに。どうして急にこんなことになったのだろう。

 苦しい思いばかりして。何も楽しいことなんてない。悲しいことしかない。あんな近くに学校があるのに。放課後自転車に乗る生徒が小さく見える。私もほんの少し前まであちらにいたのに。


 テストを受けに学校に来ても誰もいない1階の奥の部屋で誰とも話せず初めて見る教科書のページに目を通して頭に何も入って来ないままテストが始まる。


 今はまだ薬が効いていて痛みは引いてるけど、またいつ前のような痛みに戻るか分からない。このまま痛みが戻らず治ってくれればどれだけ幸せなことか。


 いつ普通が消えるか分からない。私はたった1日で消えてしまった。


 苦しい。今にでも死んでも良いくらいには辛い。しんどい。マイナスなことは口に出すなって言われても、マイナスなことしか起きてないんだもん。美味しい物食べたくともできない。行きたい場所にも行きたい。可愛い服着て写真撮りたくてもできない。ゲームだってする気にもなれない。楽しい話をしたって、今はそのどれもできないんだ。

 せめてお酒が飲めるくらいになるまでは生きたいね。とにかく酒を好きなだけ飲みたい。

 治るなら、少しでも頑張りたい。歩けるようになるか歩けなくなるか。これからのことなんてこれからにならないと分かんないからね。


 こんな私にも、幸せなことが何か1つでも訪れますように。


 ここまで読んでくれてありがとうございました。あなたの望む幸せな日常が少しでも長く続きますように。

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