猫宿
バルバルさん
猫宿
武家の家を改装した宿、月見処。
この宿のどこかの一室から満月を見上げた男女は、とても強い縁で結ばれるという言い伝えがある。
そこに来たお客様を最初に出迎えるのは白と黒の雌の猫。
この猫は宿で飼っている猫ではない。
それどころか、猫たちが一体どこに住み、一体いつからこの宿の玄関先に顔を出すのか知る者はいない。
野良猫にしては、どこか妖しげな雰囲気を持っているこの猫たち。今日も宿に来る客を、目を細めながら眺める。
まるで品定めするかのように。
◇
とある夏の満月も近くなった日の事。月見処にやってきたのは一人の男。名を竜也という。
この男、会社での仕事にうまく馴染めず、上司からはいつも怒られ、同僚たちは昇進レースの先へ行ってしまう。
住んでいる部屋に帰っても、出迎える者もおらず、毎日機械的な食事と睡眠で過ごすばかり。
ああ、何をやっているんだろうか。俺は。
こんなはずじゃない、こんなはずじゃないんだ。
そんな思いばかりが頭の中を犯し始め、ため息とともにやってきたのがこの宿。
変なことを考え始めている自分を慰め、息を抜くためにいい宿に泊まろう。そう思いやってきたが。やはり気分は重い。
車から降りた次の瞬間にはため息が出ている。
足を擦るように宿へ向かう。その時だった。宿の前にいた白猫が、彼を見て、目を大きく開けたのは。
その猫は彼の足元に来ると、すりすりと体を足にこすりつけてきた。
何だ何だと驚く男であったが、足を動かせば、その足に合わせ動くので、そのまま宿へ。
するともう一匹、今度は黒猫がやってきて、足元の猫と見つめ合った後、さっとどこかへ走って行った。
人には好かれないが、この猫には好かれたのかな。なんて思いながら、入り口で宿泊手続きを取る。
その手続きをする宿の男性は彼の足元にいる猫を見て、珍しいこともあるものだと思った。
この猫は気難しく、近づくとすぐに逃げる猫なのだ。
だが猫は気まぐれだしな。と思っていると、仲居の女性がやってきた。
この仲居の女性。長い黒髪にしっとりとした美しさがあり、優し気な目じりで竜也を眺めている。
その仲居の女性に連れられ、竜也は宿の奥へと進む。
だが、宿の入り口で手続した男性はふと違和感を感じる。しかし白猫と目が合うと、何故かそんな違和感は消えてしまう。
竜也が宿の奥へ行くと、その仲居のことなど忘れていた。
◇
こんな美しい女性が本当にいるのか。
そう思いながら廊下を歩く竜也。
足元には一匹の白猫がぴったりと足元について来る。
宿の奥にある大きな扉の前に来ると、白猫はナォンと一鳴きして扉の前へ。
黒髪の仲居がゆっくりとその扉を開ける。
その内部は一人用の宿泊部屋のようだ。
一般人が泊るには高くつきそうな和風の内装に、本当に今回泊るのはここなのかと聞けば、耳がとけそうになるような声色で。
「はい。この部屋は、あなたのお部屋です」
何故かその仲居の言葉が心にしっくりきた。
この部屋に泊ろうと思い、仲居と荷物を入れて扉を閉める。
そして荷物を適当に置き、椅子に深く座って目をゆっくりと閉じる。
その瞬間、急激に眠気が襲ってきた。
疲れていたのだな。だが、こうして美人の仲居がいる宿でゆっくりしたら、安心したのだろう。
そっと目を開けて傍の仲居を見れば。
お休みなさいなさいませ、旦那様。という声と共に、意識は心地よい闇の中へ。
ゆっくり、ゆっくりと堕ちていく心地よい感覚に身を任せた。
◇
意識が落ちていく。落ちて、堕ちて、奈落の底へ向かうかのような感じがする。
そんな不気味な感覚なのに、不思議と不快感はない。
それどころか。何か暖かいものに包まれゆくかのような。
そんな感覚のまま、意識を落としていると、どこからか声が。
起きて下さいまし。旦那様。
その声が闇の中に響いた瞬間。意識は……
◇
ゆっくりと目を開ける。
強烈な眠気を感じていたはずなのに、眠気はスッキリと消えていた。
部屋は薄暗い。フロア照明がぼんやりと自分が見上げる天井を照らし、部屋の窓からは、月の光が冷たくも優しく入り込む。
自分は夜まで寝てしまっていたのか?
疑問に感じると視界に、流れるように輝いているかの様な銀の髪をした女性の顔が。この女性に膝枕されている?
驚いたが、不思議と体が起き上がらない。
その銀髪の女性。黒髪の仲居さんもとても麗しかったが、この仲居さんと思われる女性も、それ以上に美しいと感じてしまう。
貴女は、と問うと。女性は耳心地の良い声色を響かせる。
「ここは、貴方様の夢の中でございます」
え、と疑問に感じれば、その女性が手を振る。すると机の上の茶器が勝手に動き、茶を淹れる。
「ほら、このような事が現実で起こるはずがありません。そして、この香りを感じてください」
その言葉に、鼻に集中すれば、優しく、甘く、何も考えたくなくなる。そんな香りを感じた。
「この香りは、あなたが夢を見ている間。ずっと感じるはずです。では、夢の世界を存分に」
その歌う様に響く言葉。それに疑問など感じられなかった。
そうか。俺は、現実ではない。夢の中にいるのか。
そう納得し、銀髪の仲居さんの膝枕を、ゆっくりと楽しみ、お茶を共にした。
◇
夢の世界というのは、現実味のある世界ながら、とても幻想的だ。
お茶と茶菓子を存分に楽しんだ後、銀髪の仲居さんに連れられ部屋を出れば、ぽわん、ぽわんと白い光、黄色い光、ピンクの光が、踊るように廊下を照らし、その奥には夢の外で見た黒髪の仲居さんの姿も。
「では、宿の中を少し歩きましょうか」
その言葉がどちらの唇から歌われたのかはわからないが、宿の中を歩こうという気になる。
宿の中は、新品のようなのに古い時代の内装だ。この夢の外にある宿も、建てられた当時はこれくらい真新しい輝きがあったはず。
そう思いながら二人の仲居さんに先導されて宿を見て回る。
自分以外の宿泊客や、宿の人がいないという疑問も浮かぶが。
疑問が浮かんだことすら忘れてしまうほどに、宿の中は気分が落ち着く。
なぜだろう。この香りのせいかな?
そして、露天風呂の着替え部屋に到着した。
露天風呂とは風流だなと思い、スーツを脱ぎ、腰に布を巻いて露天風呂へ。
風呂の温度はとても心地よく、体が溶けてしまいそうだ。
湯に浮かぶのは徳利に入った酒。そして、天高くに満月。これほどの贅沢。夢とはいえ味わって良いのだろうか。
そう思いながら、酒を味わう。旨い。
◇
露天風呂を出た時には、湯の温度と酒の酒気。そしてずっと感じている香りのおかげで、既に思考などトロトロに溶けていた。
そんな竜也が脱衣所に戻れば、そこには、和風の着流し。だが、着ていたはずのスーツがない。
竜也は待っていた仲居さんに聞くが、妖しく美しい笑顔で。
「これは貴方様が気に入り、着ていた服でございます」
と言われた。普通なら疑問を感じるはずの答えに、竜也はなぜか納得する。
そうだった。この服は気に入っていた服だった。何を勘違いしていたのだろう。
そう思いつつ、着流しを着せてもらい、露天風呂を後に。
ふと空腹感を感じる。夢でも腹は減るのだな。
空腹を伝えれば、銀髪の仲居さんは、歌うように今晩のご馳走を伝えてくる。
その様子を黒髪の仲居は、何か言いたげな表情で眺めていた。
◇
広間に用意されていたのは、海産物を中心とした、とても豪勢なご馳走。
とてもおいしそうだ。だが、何故海産物を中心に?
竜也が聞けば、銀髪の仲居さんは不思議そうに。
「これは、貴方様の好きなご馳走達ですよ?」
そう言われ、流石にとろけた脳でもおかしくはないかと感じる。
だが、銀髪の仲居さんに箸で刺身をつままれて口に運ばれれば、その疑問がどうでもよくなるどころか、その疑問を感じたことを忘れ。
そうだ、俺は海産物が好きだったんだ。
二人の仲居さんに、かわるがわるご馳走を食べさせてもらい、腹が満たされれば眠気を感じる。
それを銀髪の仲居さんに伝えれば。嬉しそうに頷かれ。
「では、お布団はすでに用意済みですので。ごゆるりと」
と言われた。そして竜也は、敷布団に包まれ、ゆっくりと意識を落とす。
奈落の底、底の底。その果てへと。
◇
「ねえクロ」
「なに、ハク」
「やっぱりこの人が旦那様だよ」
「そう、だね」
「お気に入りの着流しも着てくださった。好物も美味しいと言ってくださった」
「ねえ、ハク」
「もう一歩、もう一歩で旦那様は戻ってくださる。じゃあ、私は最後の仕上げに移るから、旦那様を見守ってて」
◇
落ちて、堕ちて、奈落の先へ意識が飛んだ竜也。
ふと、竜也が気付くと、目の前に男性がいた。
その顔は整いつつも、短髪でどこか武骨な男性。
彼は、言葉を紡ぐ。
「目覚めよ」
その一言で。竜也の意識は、一気に奈落の果てから浮かび上がってくる。
そして、今まで感じるはずだった、感じなければならなかった疑問が浮かぶ。
「ここは、本当に夢なのか」
その問いに、男は首を振る。
「なら一体」
「ここは俺の魂の記憶を、お前の魂から引っ張り出すために、俺の飼い猫が作り上げた世界だ」
「え」
「俺はお前のはるか前の前世だ」
「俺の前世」
「そうだ。そしてお前を、俺と見込んで頼みがある」
「頼みだって」
「時間がない。頼む。あの猫たちを、目覚めさせ……」
◇
銀髪の仲居、いや、ハクは刀を持ち、竜也の寝る寝室にやってくる。
戸を開ければ、竜也が満月を見上げていた。
「お目覚めですか」
「いや。まだ夢の中だよ。ハク」
その一言に、ハクは目を大きく開き、涙を流す。
「では、私の名を、思い出したという事は……お目覚めになられたのですね、旦那様」
涙をハラハラと流しながら、ハクは竜也に抱き着いた。
「ずっと、ずっとお待ちし、ずっとお慕いしておりました。旦那様」
そう言い、涙を胸の中で流すハクを、抱きしめ、撫でそうになる。
それを溶けたはずの理性で抑え込み、そっと肩を掴み、自身の体から離した。
「いや、まだ夢の中。眠っているんだよ、俺は」
「どういう、意味でしょうか」
竜也は、目の前にいるハクに、優しく諭すように言葉を紡ぐ。
「ハク。死んだ者は、もう戻らない。生き返らないんだ」
「そんなことありません」
「いや、それが世界の。神の定めた摂理だ。それをひっくり返せば、君に、ひどい呪いがかかるんだよ」
「呪いなど、怖くありませぬ。貴方様を失う恐怖に比べれば」
「ハク」
そこで、竜也は胸の奥の果て。魂の奥が悲しくなるのを感じながら。
「夢は覚めるんだ。俺の今見ている夢も、君の今見ている夢も」
「いいえ、覚めません。目覚めたくなど、ありません」
「クロ。お前もいるんだろう」
すると黒髪の仲居。クロがやってくる。
「ごめんなさい旦那様。私、ハクを止められなかった」
「ありがとう、クロ。ハクから離れず、ずっと一緒にいてくれて」
そのまま竜也は満月を見上げた。
「綺麗な月だ」
「はい。旦那様も月がお好きでした」
「なあ、ハク、クロ」
一緒に月を見ながら、目覚めよう。
その言葉に、ただ涙を流すハクと、彼女を支え、気丈に涙を我慢するクロ。
二匹は竜也の両側に立ち、月を見上げる。
そして竜也は、ハクの持ってきた刀を抜き、自身に突き立てた。
そして世界には、ハクとクロだけが残った。
◇
ゆっくりと、意識が浮上する。
宿の普通の和室で目覚めた竜也。宿の人間に聞けば、自分は普通にこの部屋に泊ったのだという。
そして竜也が真っ先に行ったのは、この宿の歴史を知る事だった。
なんでも、この宿の元の持ち主の武家は、二匹の猫を飼っていたという。
その猫たちと、良く月を見上げている姿が、仲睦まじい夫婦のような姿に見えた人々の話が代わりに代わって、縁結びの宿になったのだという。
一晩、その宿に泊まったことになっていた竜也は、あの二匹の猫を探したが、どこにもいなかった。
あれは全て夢だったのか?
そう思いながらも、風化しないその夢……いや、思い出を心に感じつつ。
もう一度月を見上げ、彼女たちが目覚めて輪廻の輪に加われるよう、祈ろう。
そう思い、夜を待ち、宿の着流しを着て、近くのスーパーで買った刺身と酒を用意して月を見上げた。
満月が美しく竜也を照らす。
そうだ。仕事にもう一度向き合う。
夢は覚める。だが現実は覚めない。
なら後悔しないよう、もう一度生き方を見直すんだ。
そう決意し、酒をくいっと、一飲み。
◇
その瞬間、宿のどこからか、二匹分の猫の鳴き声が。
響いたとか、響かなかったとか……
猫宿 バルバルさん @balbalsan
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