パートナー

浅川

パートナーになりたくて

 橋本はしもとさんが目の前にいる。いつものように声が出ない私は必死になって絞り出した。

「あのっ、今日からここで働くことになった野澤のざわと申します。よろしくお願いします」振り向いた橋本さんは笑顔で応えた。

「よろしく。あっ、その髪型いいね」と言いながら彼はいきなり歩み寄り私の毛先を右の指で軽く触ったのであった——



 遂に憧れていた所でアルバイトを始めた。何もオシャレな喫茶店とか、神社で巫女さん姿で働けるわけではない。

 学校へ行く前によく利用する駅前のコンビニ。そこに視線を釘付けにする人がいた。なんとか彼に会計をしてもらえないか、そのために列の長さ、どのタイミングで並べばいいのか見計らっている時点であぁ、あの人のことが気になっているんだなと認めた。今日は休みらしいと知るとひどく落ち込みその日が最悪の日となる。

 苗字は『はしもと』さん。そう名札にひらがなで記されていた。毎週、顔を合わせているのに一言も話したことがない。この関係性に終止符を打つために私はこの店の門を叩いたのだ。



 近い。頭がクラクラする。顔がひきつってぎこちない笑顔になってしまったかもしれない。えっ、私のこと好きなの? そんなわけない。私の中では何度も会っている人だけど橋本さんにとって私は初対面。いや、もしや一目惚れ?

「最初は上手くできないと思うけど気にせず、すぐに慣れるから頑張って」彼は何事もなかったように横切って去って行く。私の中では大嵐が吹き荒れているけど。

 あんな極自然に女性の髪の毛をさわれる男性を初めて目撃した。いや、当事者なんだけど。しかも、もう一度言うが初対面、最初のコンタクト。

 触られた部分をチョンチョン揺らす。私はこのボブを維持しようと誓った。


 生理的に無理、全く興味のない異性に対してあんなことをするだろうか? 多少なりともこの人いいなって感じたから思わず触れてしまったんだ。

 私は希望が湧いてきた。この恋、実るかもしれないと——

 それからというもの私は必死に仕事を覚えた。分からないことは極力、橋本さんに質問した。これも一応、あなたに気がありますとさりげなくアピールしている。もしもあのファーストコンタクトが私を試しているなら答えは『はい』ですと内に秘めて。

 だからもう一度、れてほしい。そしてもっと深いところまで来てほしい。

 この想い察してほしい、視線で表情で仕草で訴え続けた。


 その優しい笑顔の裏にはどんな顔が隠れているんだろう。仮面を取った時にあらわになるのは私を愛しい瞳で撫でる顔だろうか? それとも抑えきれない欲望のままに私を覆いかぶそうとする眼差しか? 怖いのは空っぽなことだった。その笑顔以上の感情は何もない、それが一番怖い。

 それを確かめるには場所が悪すぎた。橋本さんと帰るタイミングが一緒になることはない。午前中はずっと働いている人だったのだ。土日祝日の早朝スタッフとして採用された私は大きな制限のもとでしか接することができないことにもどかしさで胸を痛める。

 勤務時間外で話せないかな——


 休日の私はこの後はフリー。どこかで時間を潰して店から出るのを待ってみることも頭をよぎった時、

 橋本さんの個人情報を教えてくれる人がいた。私と同い年くらいのアルバイトの子。その子も橋本さんのことを恋愛対象として見ていたと途中までの帰りに聞いてもいないのに打ち明けてくれた。

 だからある日、マネージャーにさりげなく橋本さんはここでのアルバイト以外は何をしている人なのか聞いてみたそうだ。

 返ってきた答えが彼の本業はフリーのライターで、それだけの収入だとまだ厳しいから午前中はここでアルバイトをしているそうだ。年齢は正確には分からないが少なくとも、もう二十代後半になっているはずとのこと。それでその子はさすがに歳が離れすぎているかもしれないと諦めた。

 私より年上であることは間違いないとは思っていたけど、もう学生ですらないのか。見た目以上に歳を取っていた。

 三十代も視野に入ってきているなら高校生なんて、常識的な感覚を持っている大人ならもう眼中にない。ロリコンだったとしても好きでいられるのかな?

 自分の気持ちをこねくり回すように探ってみた。

 橋本さんの柔らかい笑顔が浮かぶ。

 いいんじゃないかな。私が通っている高校の男子でピンとくる人は見当たらない。色々と友達の失敗談を聞くと、一度は人生の先輩に身を委ねるのもありなんじゃないだろうかと思えてきた。がそれはただ正当化させたいだけで本当のところ理由なんて特にない。ただ好きだなと思った、それ以外の理由は。


 いつもより疲れた様子の橋本さん。店内を歩き回っている背中を眺めているだけで気が沈んでいるのが伝わってくる。

 隣のレジで会計が終わる。私の足下に十円玉が転がってきた。それを拾う。橋本さんが落としてしまったお金。苦笑いで謝りながら近寄ってきた。

 右の掌を差し出してきた。私は、なにを思ったのか、左の掌をその甲に添え、十円玉をゆっくり乗せつつ両手で挟むように包み込んだのだ。

 

 私は橋本さんの顔を真剣な眼差しでじっと見つめた。

(これでわかったでしょ?)


 気のせいだと信じたかったが橋本さんが怪訝そうに表情筋を動かした。でも時間が止まったかのようにいつまでもこのままの状態で構わなかったが、絡まった糸をほどくように手を引いて立ち去ってしまった。


 アルバイトにもこんなことをやらせるのか。私は基本的な仕事は出来るようになったと評価されてパソコン画面とにらめっこしながら発注作業もやらされるようになった。

 接客をしないのは楽だけど、売り上げデータを見ながら自分の判断でこの商品は発注した方がいいのか決めないといけないのは地味にプレッシャーだった。

 橋本さんが水分補給のため一旦、事務所に戻ってきた。

「橋本さん、あの、この商品ってもう昨日の内に発注されているってことでいいんですよね?」

 分からないのは嘘ではないけど、本音は何でもいいからまた話したかっただけ。あのままなんだか気まずい雰囲気で帰りたくなかったから、いつものように会話できるのを確認したかった。

 ち、近い。「どれ」と言いながら腰を低くして画面に向かって顔を突っ込む橋本さん。私の頭上、斜め上にはもう橋本さんの顔がある……。

 今度はよく見えないとかでさらに体を寄せてきた。夢心地のようで熱くなる。もう目をつぶりたくもなってきた。

 まだ熱は冷めない。しばらくマウスを動かすことはできなかった。フリーズしたのは私の方であった。

 なんなの。普通、女性に対してどれだけ近づいていいのかとか気を遣わない? 本来あの距離を許して良いのは、そう恋人同士だからしかない。

 これまで誰からも文句言われなかった人生なら橋本さん、あんたは多くの女性を困惑させてきた罪な男だ!

 髪の毛を触ったり、二人の距離が数センチもないくらいまで身を寄せてきたり、あなただから許すけど、それは好きだからに決まってんじゃん。

 それに気がつかず可愛い子を次から次へと無意識につまみ食いでもしているかのように接触しているなら……、

 私だけ熱くなっているのが馬鹿みたい——


 それは不意打ちだった。今日はずっと疲れた様子の橋本さんは思いのほか深刻らしく早退するとのこと。つまり私と帰るタイミングが初めて一緒になる。

 ため息を吐いて事務所の椅子に座っている。制服は脱いだがまだ立ち上がる気配は無さそうだ。

 このままではいつものように帰る支度をすると私が先に店を出ることになる……嫌だ、まだ出たくない。

 大丈夫ですか? と声をかけてみた。そこで橋本さんの口からも本業はライターでそっちの方が最近、忙しくなったから疲れが溜まっただけだと教えてくれた。

 初めて聞いた素振りをして話を広げてみた。ライターをやっている人なんて珍しいと思うからそんな苦労はしなかったが、思わぬ一言も。

 今、初めて大きな企画を任されているからそこで良い記事を書いて名前がさらに広まればこっちだけの稼ぎで生活できるかもしれないと。

 橋本さんが近いうちに辞めてしまうかもしれない——焦りがうごめく。

 その未来を支えにと言わんばかりの勢いで立ち上がる橋本さん。

「俺がいなくなったら、あとは頼んだぞ」と頭をポンと叩いた。


 あなたがいなくなってしまったら私がここに居る意味はなくなってしまう、私の気持ちも知らないで。

 好きな人のはずなのに憎しみという牙が剥き出しになる。

 力を振り絞り急ぐようにロッカーから荷物を取り出し、残る人に平謝りしながら店から出て行く。

 その背中を今、追いかけなければもう二度と会えない——という衝動に駆られて私は走り出す。


「橋本さん!」

 歩くのが早い。こっちは小走りでようやく追いついた。息が荒く、肩が上下に動く。振り返る橋本さん。またあの怪訝そうな顔だった。

 無理のような気がした。ここで告白しても。でも、私って自分で言うのもなんだけどそこまで悪い女じゃないでしょ? もっと深く関わればもしかしたら考えが……。

「私、将来、文章を書く仕事をしたいなって考えているんです。よろしければ詳しくお話を聞かせてもらいますか?」

 とっさによくこんなことが言えたものだ。が、口にだしてみて私、文章を書く能力が人並み以上にあるって小学生の時から先生から褒められてきたし、お近づきのきっかけとしては不自然ではないし、もしも本当にそれが将来の仕事にできたら他の人とは違う仕事でカッコ良いかもしれない、と持ち前のプラス思考が働く。

 それを聞いて橋本さんは感心したかのように表情を緩めた……。



……ひとりの男によって人生を狂わされた女性は数多くいるだろう。私もある意味ではその一人かもしれない。

 高校もまだ卒業していないのに既に将来に就く職業が半ば決まったようなものになっている。で。進路はどうしよう。ちょっと前までは大学に進学する気満々だったのに、今はしなくてもいいのでは? とさえ思っている。念の為、学歴は大卒にしておく?

 ほぼ安易な憧れみたいなもので足を踏み込んでしまったライターの世界はやはり甘くはなかった。橋本さんのアシスタントみたいな立ち位置でこの仕事を目の当たりにさせてもらったが、コンビニみたいに特に何も考えずただ突っ立ってレジをしていてもこなせてしまう仕事とはわけが違う。

 取材の現場では常に頭を回転させて言われなくてもしてほしいことを先回りしてやらないといけない。終わればどっと倒れたくなるくらい疲れる日々。恋愛どころではなかった。やりがいは感じるけど。


 ともあれ、これがきっかけで私は一年後には小さな記事から任せられるようになったのだ。文章を書くのが得意でよかった。

 一人だとキャパオーバー分の仕事をやる、橋本さんとは良いだ。

 う〜ん、この人と人生のパートナーになる日は来るのかな〜?

 必死に食らいつく私に今日も橋本さんはあの笑顔を向ける。これはねぎらいの笑顔か。

 私は利用されたのだろうか? と思う日もなくはない。


「そういえばさ、野澤さんって働く前からあのコンビニよく朝に利用してたでしょ? 俺、実は覚えていたんだよね」


 えっ?


 ……私もコンビニで働いてみてわかったこと。店員はお客さんの顔を思いのほか覚えているもの。


「あそこで働きたくなった理由でもあったの?」


 それはあなたがいたから——そう言わせたいのだろうか?

 分かってやっているなら、ほんとに意地が悪い。たまにはそっちから、私が言われると嬉しくなることを言ってよ。


 同時に顔を覚えてくれていたことが、くすぐったいように嬉しかった。

 私は出会った時からずっとこの人を中心にぐるぐる回っている。いつまでも回っていられるわけではないとわかっていても、もう少しだけこの妙な距離感のままでいたい気もした。


 彼からの、あの一言を待ちながら、ね。

 さてこの質問には何て答えよう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パートナー 浅川 @asakawa_69

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ