第23話 婦人の病室

 ほどなくして、男性スタッフ二人が深刻そうな顔をして、急ぎ足で紳士の元へやってきた。スタッフは二人がかりで、半狂乱の紳士を落ち着かせようとする。

「奥さまが、待っておられますよ」

 紳士はその言葉を聞いて、血が滲むほど唇を噛み締めて、苦しそうな表情をした。そうだ、妻がずっと私を待っている。今、妻に心配をかけるわけにはいかない……。紳士はその時、これから先何があろうとも、絶対に婦人へ苦労を背負わせないことを誓った。

「すみません。もう、大丈夫です」

 紳士は男性スタッフの手を振り解いて、冷水で顔を洗い、まっすぐに目の前の景色を見つめた。白黒に染まってしまったこの世界を、受け入れなくては……。突然人が変わったような紳士を見て、男性スタッフたちは驚いていたが、一人で歩き始めたのを見て「無理をされませんよう」と残して去っていった。紳士は一歩、また一歩と、ふらつく足を手で押さえ、操るようにしながら婦人の病室へと向かう。指定された番号の部屋へ、やっとのことで訪れると、そこは個室だった。恐る恐る部屋を覗き込むと、そこにはベッドの上に座る婦人の姿があった。薄い病院着が、細くて小さな婦人の背中に張り付いている。紳士は、なんて弱々しいのだろうと、しばし黙ってその背中を見つめていた。

「もしかして、あなた?」

 婦人が振り返らず、小さな声で言った。

「あぁ、私だよ」

 その声を聞いてようやく振り返った婦人は、紳士の腫れた赤い目と、切れた唇を交互に見て、

「そんなに心配してくれたの?」

 とヘラヘラ笑った。

「そりゃそうだ。心配したに決まってるだろう?うちに帰ったらかずはを見るといいよ。私の涙の痕がたくさんついて、びっくりしているだろうからな」

 紳士は今できる精一杯で笑って見せた。しかし、婦人はそれに対して、哀しそうに伏せた目で言う。

「私……家に、帰れるのかしらね」

「帰れるよ」

 紳士は間髪入れずに、力強くそう答えた。

「元気になったら、家へ帰れるらしいぞ。ばあさんは日頃から疲れがたまっていたんだよ。休暇と思って、たまには休めばいいじゃないか。長い人生なんだから」

 長い人生という言葉を発した瞬間、一気に後悔の念が襲ってきた。けれど今の紳士に、事実を話すことなど到底できなかったのだ。

「そうなの?じゃあ、みんなでお花見にもいけるかしら」

「おお、いいな。絶対に行こう!かずはの他にも、また和葉さんや子供達にも、会いたいからな」

 紳士は去年、花見に行った時の光景を思い出していた。そよそよと気持ちの良い春風、眩しいくらいに照らされる薄い桃色の桜、談笑する人たちの声、元気の良い子供達の声、かずはのご機嫌に笑う声、婦人の透き通った細い声……。

「あなた、何で泣いてるの?」

 その声で我に返り、頬をそっと撫でて、やっと自分が泣いていたことを知った。

「あぁ、いや何も……泣くつもりはなかったんだが、あんなに美しいものがまた見られると思うと、ついだな。これも歳のせいかな?」

 紳士が笑った声につられるようにして、婦人も笑った。

「そうですね、私たち、まだまだ長生きしないと!せっかくあなたとの、一度きりの人生だもの」

 婦人はまた、いつかと同じく花を咲かせるかのように笑った。紳士はその瞬間、ふいに目の前が眩しくなり、耐えられずにぎゅっと目を瞑った。恐る恐るゆっくりと目を開けると、その光景に面食らってしまう。婦人のいる病室内は、水彩のように淡く、優しく美しい色で溢れかえっていたのだ。紳士は慌てて病室の外へ顔を出して確認するが、外は変わらず白黒のままである。

「どうしたの?あなたったら」

 くすくすと笑う婦人が、紳士には一つの作品のように思えた。

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