第22話 鏡の前で

「大事なお話があります」

 堤の発した、落ち着いていながらも迫力のある声が、部屋の空気を変えた。静まり返った部屋の中で時計の秒針だけが、音を立ててゆっくりと、紳士に近付いてきている。堤の話を聞いてしまえば、もう後戻りができなくなる、そんな気がした。

「落ち着いて、聞いてください。奥様はステージIVの膵臓癌です」

「え……?」

 紳士はハハッと短く笑って、言葉を探す。

「そんな悪い冗談を……人が悪いですね。妻は昨日まで元気だったんですよ。普通も普通です。何も変わったところなんてありませんでした。何も」

「本当に、何もありませんでしたか?具体的な症状ですが、腰や背中の痛み、腹痛、黄疸、食欲減少、体重減少などが挙げられます」

 紳士は頭を強く殴られたような衝撃を覚えた。そして次々に思い出す。救急隊員が捲り上げて見えた腕が、以前に比べて随分と細かったこと。今日、大好きなはずのケーキをいらないと言っていたこと。最近は頻繁に夕飯を残していたこと。そして、お月見をしたあの時から、体重が減ったと自慢げに話していたことを。

「じゃあその、ステージIVというのはなんです……?十のうち四ということですか?」

「膵臓癌は、ステージ0、IA、IB、IIA、IIB、III、IVの7段階に分けられます……残念ながら奥様は、一番上のステージです」

「一番、上……」

 紳士は思わず口ごもったが、婦人が子宮頸がんになった時のことを思い出した。紳士はもう一度堤の目を見て、縋るような気持ちで言った。

「で、でも、手術!手術をしたら治るんですよね?そうですよね!」

「…………。」

 堤はしばらく黙り込んだ後、意を決したように口を開いた。

「手術はできません」

 紳士は、今、目の前の堤が何を言ったのか、一ミリも理解できなかった。

「何を言ってるんです?あなたは医者でしょう」

 紳士は低い声を震わせながら、堤を睨みつける。手術をしない医者だと?ならば、何のための医者だというのか。

「言葉を変えます。お望みなら手術することはできます。でも、意味がありません。何度手術をしても、ただそれを繰り返すだけです。手術は体に大きな負担を与えます。何もしないことが、治療なんです」

「何もしないことが、って……。それじゃあ遅かれ早かれ、妻はもうだめだと、そうおっしゃるんですか!」

「……3ヶ月です」

「え……?」

「奥様は、もってあと3ヶ月です。どうか、沢山の思い出を作ってあげてください」

 医者の堤でさえ、辛そうに瞳を伏せていた。徐々に呼吸が浅くなり、体中の水分を掻き回されているかのような、気持ち悪さが襲ってくる。目の前が端から黒く塗りつぶされるような感覚だ。紳士は胸の辺りを掴みながら、ぜぇぜぇと床に向かって息を吐いた。

「落ち着いてください。私達も、手は尽くします」

 その言葉が、ただ自分を慰めるためだけの言葉だと、紳士は理解してしまった。ふらふらと部屋の外に出るも、そこは先ほどの待合室ではなかった。世界が灰色で、まるで色を感じ取ることができない。それでも婦人の見舞いに行かなければならない紳士は、一度涙を拭いて、トイレの鏡の前へやってきた。笑顔、笑顔だ、笑え、笑え……。紳士は、婦人が子宮頸がんと戦っていた時も、病室へ行く前に手鏡を持参して同じことをしていた。しかし、その時と今では、あまりにも状況が違いすぎる。紳士は何度も小声で笑え、笑えと唱えて口角を上げようとしたが、拭っても拭っても、涙がしつこく溢れ落ちていく。やがて紳士はガクンと膝から崩れ落ち、声をあげて泣き喚くのだった。

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