僕に降る雨

髙 文緒

第1話

 意外なことに、ミナ・キリハラの出立の日は晴れていた。


「ミナは今日を楽しみにしていると思っていたけど、晴れるなんてね」


 朝起きて、仕度をして、ミナを車で迎えに行き、ヘネラル・ロドルフォ・サンチェス・タボアダ空港まで彼女を送迎する間ずっと疑問に思い続けていたことを、アエロメヒコ航空のカウンターから戻った彼女に、ようやくたずねた。


「特殊天候感化士なんかやっていると、それなりに鈍感にもなるし、あなたみたいな人にも慣れるけど、それでも恋人との別れはそれなりに寂しいものだよ」


 ミナは僕の贈った青いビーズのフリンジピアスを右の耳から外しながら答えた。


「ホルヘも覚えておいた方がいい。あなたがもし感化士になったら、雨男として重宝されて、もてはやされて、歓待慣れしたころには素敵なロマンスがあって、……楽しくて羨まれる生活になるけど、それでもきっと鈍感になりきれない自分に気づくことがあるから」


 外したピアスを僕の手のひらに握らせるミナの左の耳にはまだピアスが残っていて、彼女はそれを外さないまま、僕に最後のハグをした。


「バイバイ、ホルヘ。今日の日を私は楽しみにしていなかった。そしてあなたも楽しみにしていなかった。帰国のフライトの日に晴れているなんて初めてだよ。ああ、ホルヘ、泣かないで。ロマンスを仕事にしていたのに、そんな情深くっちゃいけない。これから特殊天候感化士になるなら余計そう。鈍感に、享楽的に。ね、これが先輩から出来る唯一のアドバイス」


 ミナは僕の涙を拭かなかった。唇と唇が触れるだけのキスをして、チェックインに向かう彼女が振り返ることは無かった。




 雨女であるミナ・キリハラは三ヶ月前に日本からここメヒカリに来た。


 気候変動により干ばつが進み、世界の穀物庫たる南米の農業は常に降雨量不足に悩まされていた。僕は州職員で、雨女・雨男を接待する部署のボスで、彼らを連日連夜楽しませるイベントや宴会を企画しては取り仕切っていた。23歳という若さでボスになれたのは、ひとえに僕が美しい容姿をしていたからだ。もちろん、会話だって上手い。彼女ら彼らを楽しませる術を、僕は部署の誰よりも知っている。


 雨女・雨男というのは難儀なもので、楽しみな予定がある日に限って雨が降るものである。

 肉がたっぷりのタコス、鶏肉のチョコレートソース煮……彼女ら彼らの宴席には、僕ら庶民には通常手の届かない肉料理がならぶ。ワインで乾杯して、僕も宴席の一員として少しはそれをいただく。接待役の約得だ。世界的な穀物生産量の低下による飼料不足から、肉は貴重品となり、繰り返すが僕ら庶民の口に入ることはほとんどなくなった。


 メキシコ人が肉入りタコスを食べられないなんて悲劇そのものだ!


 貴重な肉料理を喜んで食べながらも、彼女ら彼らは飽きてくる。飽きてくるとどうなるか。宴席が楽しみでなくなる。楽しみでなくなるということは、雨が降らなくなるということだ。

 雨が降らなくなった頃合いで、別の雨女・雨男の招致を国際特殊天候感化士協会に申し入れる。次の雨女・雨男との交代の日は必ず雨になる。飽いていた土地から離れ、帰国出来るのが嬉しいのだ。自国に帰れるのが嬉しいのは分かるが、さんざんもてなしていたこちらとしては面白くない。

 だから僕は特殊天候感化士という奴らが好きではなかった。


 自国にも雨女・雨男が居ないことはないが、稀である。晴女・晴男が圧倒的に多い。育った地域の気候によって、雨と晴れ、どちらの天候感化の力が目覚めるのかに影響があるという説が今のところ有力だ。ただ天候感化の力はいまだ研究途上で、詳しいことはほとんど分かっていない。


 ミナも、豪雨による災害の多い日本からやってきた雨女だった。

 温暖化によって豪雨災害の増えた日本のような国は、晴女・晴男たちを招致しているとのことだ。晴女・晴男の接待は、僕が思うに、雨女・雨男の接待よりも難しくない。楽しみにしている日が晴れるということは、つまり屋外でのイベントが企画できるということだ。パレードにフェスティバル、それに景観の良い観光地を案内してもいいだろう。

 イベントのたびに雨が降って台無しになるという経験をへてきた雨女・雨男たちにそんな企画は通用しない。皆どうせ雨が降っておしゃかになると分かっていて期待しないからだ。期待しないと雨は降らない。


 企画はすべて州の予算だ。

 晴天の下、楽隊のやる気のない演奏を聴きながら、始末書について考えるなんていう週末がどれだけ最悪なことか! まあ、あの企画をやったとき僕は今よりもっと若くて、何も分かっていなかった。当時のボスが止めなかったのは、つまり僕の芽を摘みたかったのだろう。だって僕は美しい容姿を持っているから。


 そう、宴席以外に、彼女ら彼らに楽しみを用意することが出来たのが、僕の出世のポイントだろう。

 僕の接待によって雨女・雨男の平均滞在日数は伸びた。ロマンスを用意できたからだ。デートは誰でも楽しみなものだろう。どうせ雨だと分かっていても、ドライブデートの日をどうしても楽しみにしてしまうものだろう。そして雨のなか車に乗り込んだ雨女・雨男に言うのだ。


「楽しみにしていてくれたみたいで、嬉しいよ」


 雨はもはや甘い雰囲気づくりの演出で、その瞬間だけ彼女ら彼らの素直さが好きになる。ロマンスは長くても四ヶ月程度で終了になる。収穫の時期になれば、雨は不要だからだ。頃合いになっても僕は態度を変えない。国際特殊天候感化士協会から帰国の連絡が来るので、それを待てばよいだけだ。


 空港で涙の別れを演じながら、僕はもう彼女ら彼らの顔を忘れ始めている。そして恋人同士が別れを惜しむ出立の日はたいてい大雨なのだった。なんと分かりやすく、素直な奴らだと毎度感心する。



 

 ミナはワインをよく飲んだが、メキシコ料理にはあまり馴染まなかった。すぐに雨は降らなくなり、僕は早々にロマンス作戦に切り替えた。次の天候感化士の招致を要請してもいいのだが、一人招致するたびに高額の紹介料を協会に支払うことになるので、一人を長く引き止めておけるならその方がよい。僕の成績に関わる問題だ。


 彼女はすぐに僕を好いてくれたし、とても情熱的だった。雨が窓を打つ音を聴きながら、僕たちは抱き合った。

 一方で気分屋のところがあって、「なんとなく今日はいいや」とデートを断られる日もある。そんな日はよく晴れた。


 僕は彼女の「今日はいいや」を減らすべく、今までになく熱心にロマンスに取り組んだ。小雨のなか――つまり彼女がそれほどノッていない中――露天を歩いて、彼女に似合うピアスをプレゼントした。彼女が去ったいま思い返すのは、抱き合ったときの皮膚の感触よりも、その日に繋いだ手の湿り気だ。思うに僕は真面目にロマンスに取り組み過ぎてしまっていた。


 彼女が来てから二ヶ月たったころだ。

 車で彼女を迎えに行ったある朝、気持ちの良い雨が降っていた。きっと彼女は乗り気だろうと思ったのに、玄関先で聞いた言葉は「今日はいいや」だった。

 寝起きの顔で、パジャマのままの彼女は本当に出掛ける気のない様子だったが、それでも雨は降っているのである。


「寝坊しちゃったなら待つよ。ゆっくり仕度をしてくるといいよ。だって楽しみにしていてくれたんだろう」


 気を効かせて言った僕に、彼女は正面から舌打ちを返した。


「全部の雨が私の気分ってわけじゃない」


 乱暴に閉じられたドアが僕の高い鼻先をかすめていった。

 そうか、これは自然の方の雨か。肩を濡らす雨を初めて不快に思った。

 以降、デートの日には必ず雨が降ったが、ミナの気分は半々だった。天邪鬼や駆け引きの類でもなさそうで、急に自然の雨が増えたとしか考えようがなく、不思議だった。そしてデートを断られた日に降る雨は総じて不快で、接待で操れない雨とはこんなに面白くないものなのかと僕は知った。


「これじゃあ、ミナの気持ちが分からないよ。自然の雨が増えると、こんな弊害があるとはね」


 例によって出掛ける気のなかったミナの部屋に上がり込み、パジャマ姿のミナの背中に言った。口説き直すつもりだったんだと思う。

 ミナは紅茶を入れてくれていた。僕の好きな、砂糖たっぷりのやつだ。

 カップを持った彼女はテーブルについた僕の傍に立つと、まず僕の目の前にカップを置いた。それから向かいの席につこうとして、少し考えてから隣に座った。


「考えたんだけど、ホルヘ、あなた感化士認定試験を受けてみたらどう? 私が推薦してあげる」


 なんの冗談だ、と返そうとして彼女の方を向いたのだが、彼女の目つきの切実さにおされて言葉を飲み込んだ。彼女の左手が僕の膝に置かれる。その手は、ジーンズごしの膝頭をかたく握っていた。


「ホルヘ、今まで楽しみな予定の日に雨が降ったことは?」


「分からない」


 分からなかった。僕は子供の頃から楽しみな予定というものに縁が無かった。


「私とのデートは楽しみ?」


「もちろんさ」


「仕事でなくて、本心の話をしてる。私たちはそういう歓待も慣れてるから、気にしないで答えて。楽しみなの?」


 ようやくミナが何を言おうとしているのか分かった。つまり僕はミナによって初めて、楽しみな予定の日に雨に降られるということを体験しているのではないかということだ。


「信じられない、雨が僕のせいだなんて」


「私だって、そんな間抜けな接待役、聞いたことない」


 ミナが声をあげて笑って、僕の頬にキスをする。頬をすりよせて、首の匂いを嗅ぎあう。雨が激しく窓を打った。





「全部の雨が僕の気分ってわけじゃない」


 空港からの帰り道、車を走らせながら呟いてみる。僕はこの先ミナみたいに毅然とそう告げることが出来るのだろうか。

 フロントガラスから差し込む陽光が目を焼くので、ハンサムな僕によく似合う形のサングラスを掛けた。 

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僕に降る雨 髙 文緒 @tkfmio_ikura

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