月は、落ちない。
夏々
【月には届かなかった内の一人】
あ、またかぐや姫が俺を見てる。
頭上の、もっとずっと高い所で浮かぶ二つの月と目が合った。今日は稲穂のような黄金に輝いていて、一際かぐや姫の肌の白さを際立たせていた。立ち止まって眺めていると、ゆったり瞼が閉じられる。きっと月に雲がかかったんだろう。俺には、かぐや姫がまばたきをしたように見えるのだ。
彼女は、どこともなく地上を見下ろしている存在だ。決して人間ではなくて、誰にでも見えるわけでもない。地球上の人間の三割は彼女のような人外が見えるが、その多くは人外を恐れて、避けている。かぐや姫のことを見たくなくて、月が出る夜には外出しない人間もいる。頭のおかしな連中だ、彼女はこんなに美しいのに。
「あ」
雲が晴れたようだ。人外が見えない人にはきっとそう見えている。
彼女の目が開く。焦点の合ってていなかった双眸が、次は俺を捉えている。ただ一直線に俺だけを見て、うっそりと微笑んでいる。それを自覚するたび、心臓がカッと熱くなる。
俺もそれに微笑みを返す。彼女の月面のように白くてまろい頬が、色のない唇が、そこに浮かぶ微笑を何よりも美しいものにしていた。モナリザなんかより、ミロのヴィーナスなんかより、よっぽど端麗で、いっそ風光明媚だ。その美を俺は独占している。他の誰でもない、平々凡々な大学生の、バイトを終えて帰っているだけのこの俺が!
彼女の手が伸びる。巨大で、威圧的で、並の人間なら恐怖に犯されるだろう血の気のない白い指先が俺へと伸びてきた。
でも。
「……ああ、今日は届かないな」
家とか電線だとかが邪魔して、彼女の手は俺まで届かなかった。どことなくかぐや姫は悲しそうに見える。
「そんなに寂しそうな顔をしないでくれ。今すぐ家に帰ろう。待っていてくれ!」
止めていた足を再び動かす。先程までの牛みたいな
「お
ある日、妹が言った。
わざわざ俺の部屋にまできて、かぐや姫と話していた俺にそんなことを言い放ったのだった。
「まだそんなことを言うのか。お前にはかぐや姫が見えないからそう思うんだよ」
「かぐや姫って言ったって、太陽くらい大きいんでしょ? そのサイズ感じゃ、お兄なんてひとひねりだよ」
シラケたような顔で窓の外を見た妹に対して、腹の中で石ころが転がるような小さな不快感を覚える。
「馬鹿なこと言うな。かぐや姫はな、慈悲と慈愛の権化なんだよ。かぐや姫の手に触れてもらったことあるか? あの優しい手つきで頬を撫でられたら、お前なんてイチコロさ!」
「うんうん、本当に
適当な返事をしながら、妹は俺の隣までやってきた。窓のすぐそばに椅子を寄せて座っている俺の横で、俺のベッドのふちに腰かける。妹の鹿のような目のその奥には夜空が映っているだろう。窓のすぐ外にかぐや姫はいるのに。妹は人外が見えない人種だった。
「私は、かぐや姫なら竹取物語のほうの『かぐや姫』が良かったなあ」
俺から見れば、かぐや姫と視線を交わしている妹は、そう呟いて中学校の指定の制服のプリーツスカートを弄る。妹の言わんとしていることを察する。昔、妹に読み聞かせしてやった絵本には日本の昔話があった。
「絵本の『かぐや姫』みたいな、ってことか」
「うん。十二単着てて、髪は真っ黒で長くて、そして可愛いの。かぐや姫ってそうじゃん」
「かぐや姫はうんと可愛いが?」
「規模とベクトルが違う」
キパッと言い放ってくれる。「我が妹ながら
「そもそも私、そのかぐや姫の正しい見た目知らないんだけど? だから『かぐや姫』の方がいいって言ってるの。分かりやすくて」
「なに? 昔描いてやっただろ、かぐや姫の絵」
妹はせせら笑う。
「お兄の絵がド下手くそなのしか分からなかったよ。かろうじてムンクの叫びかな? って思えるくらい」
「なんて奴だお前は!」
俺は咄嗟にかぐや姫へ呼びかけた。
「かぐや姫、君はこの世で一番美しいよ! 俺が描いても、いやきっと誰が描いて君の美は表せないだろうな」
俺の言葉に、彼女は笑う。今日の瞳は少し欠けた銀色だ。モノトーンの輝きが眩しい。
「……お兄って本当ヘン」
「なんだ。ダ・ヴィンチでもフェルメールでもルブランでも彼女の美しさを筆に乗せることはできないぞ。かぐや姫はそういう
「そりゃ人外だもん」
ふいと俺の力説をかわした妹は、ベッドに上げた片方の膝を抱え込んで、上背を丸めた。その顔に、まるで筆について固まって、水では満足に落ちない絵の具のような、言いたげな表情が残される。
「お母さんもそれとなく心配してる。人外に入れ込みすぎだよ」
窓の外で、かぐや姫が見てる。俺を? いや、もしかして妹を。
「人外は人間を攫うんだよ。死なせて、魂だけ持ってったりもできるらしいじゃん。特にかぐや姫は……」
「つまらないことを言うじゃないか」
妹の鹿の目が俺を見ている気配を感じる。俺は、かぐや姫を見つめている。
「かぐや姫は『竹取物語』のかぐや姫とほとんど同じ存在……月の住人か、月そのものだって説がある。俺だってそれくらいは知ってるさ」
初めて彼女を目にした日、その異常なまでの高揚に乗っかって調べまくったからな。
「特に月には何かといわれが多い。桂男なんかまさにそうだ」
月は人をのめり込ませる。魔性の存在だ。
妹が首を振る。否定の意味じゃなく、語気を強めるためだ。
「危ないよ、お兄。お兄はかぐや姫と長く一緒にいすぎだよ」
「かぐや姫は桂男なんかとは違うよ。俺の寿命を縮めたり、不用意に惑わせたりもしない」
「でも危ないよ。人間は人外とあんまり関わりすぎちゃいけないんだよ、そういう規定があるじゃん!」
「それがなんだ! そんな規定や規則なんて、どうせ見えない奴らが勝手に作ったものだろう!」
掴みかかりそうな勢いだった妹が、俺の怒号に口を閉ざす。妹の瞳が不安に揺れた。
「見えない奴には分からないんだよ。憶測や、過去の統計からとか言って、いつも勝手に決めるんだ。見えてないくせにな」
窓の外に目線だけをやる。
かぐや姫は銀の瞳で俺を覗き込んでいた。大きな指先が、窓枠に引っかかっている。俺を見ているんだ。その人の顔ほどの大きさもある色のない
ああ、かぐや姫はこんなにも愛らしいじゃないか。どうして分からないんだ。お前たちには。
「……、狂信だよ。もはや」
ぽつりと言葉が落ちてきた。
妹は脱力していて、顔という水面に諦念を浮かべていた。ふんと鼻息を荒くして、俺は腕を組む。やり場のない怒りの炎がちらちらと灰の下で燃え残されている。
「なんとでも。確かに、信仰と言えばその通りだ。お前はキリストを
「……いいや?」
「俺もだ。いもしない神だとかの信心のために動物の肉を食べなかったり髪を隠したりするのは俺にも理解できん。そういう話なんだよ、これは。無理やり理解しようとしてお互いを傷つけ合うなんて、バカのすることだ」
不納得そうな表情が見える。
かぐや姫の爪に、俺は自分の手を重ねた。貝に触れているかのようだ。つるりとして、引っかかるところが何もない。精巧にできた白亜の像のようだけれども、そこには確かに、冷たい熱が通っている。
「もう俺とかぐや姫のことには深く関わるな。分かったか、妹よ」
「……お母さん、納得しないと思う」
じとりと
「その時はこう言ってやれ。『恋人との逢瀬に親が介入するものじゃない』ってな!」
かぐや姫の肌はとても白い。そして髪も白い。彼女は瞳以外の全てが純白だ。毎日色の違う二つの月を覆う瞼も、まつ毛も、膨らんだ唇も。天の川のように流れる頭髪にしろ、首筋から胸元にかけての曲線にしろ、見える範囲の全身が白く、滑らかで美しい。
彼女の手が伸びる。俺も手を伸ばす。
白い手。大きな手。俺の手のなんと小さいこと。なんて短いこと。窓からこんなに身を乗り出してもかすりもしない。悔やまれる。俺からは彼女に近づけないからだ。
かぐや姫の月の瞳が、今日はなんだかハッキリ見える。綺麗だ。俺は生来、人外が見える側の人間だが、悪天候の日なんかには俺たち側でも見えなくなったりする。大抵の奴は安心するようだが──そういうとき俺は、恋しさが募る。俺の世界にかぐや姫がいない。月はそこにあるはずなのに! 見えない、触れられない。歯噛みする日々だ。しかしそういう日でも、彼女はちゃんとそこにいる。見えないだけで、存在している。かぐや姫は案外いたずらも好きで、あえて俺自身には触れず、その吐息を吹きかけたりするのだ。いじらしくてか愛らしい。素敵だ。
「素敵だ、君は」
かぐや姫が微笑む。ああ、彼女が遠い!
「かぐや姫、もっと触れたいよ。俺は君と一緒にありたい」
手を伸ばす。両腕を精一杯伸ばす。彼女の手が近くまで来ているのに、やはり俺では届かないのか。生ぬるい外気に上半身を丸々さらしているのに、だ。今日はかぐや姫が遠い。
「どうしてか、今日は無性に君が恋しいんだ……」
彼女の手に初めて触れられた日のことを思い出す。しっとりとして冷ややかな肌に頬を撫でられ、爪先で髪をくすぐられた。そのときのかぐや姫の笑んだ唇の膨らみに、俺は焦燥をかきたてられた。いつか彼女にキスをしてもらいたい。明確にそう望んだ。彼女のキスは、一体どんなに優しいのだろう。彼女の唇の柔らかさに俺は溺れるだろうか。ああ触れたい。君に触れられたい。
「かぐや姫、かぐや姫」
手が、手が届く。
「かぐや姫、かぐや姫!」
手が触れるぞ。
「あ」
終/【月には届かなかった内の一人】
月は、落ちない。 夏々 @kaka_natunatu
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