触手に身体を乗っ取られる

海沈生物

第1話

 真冬の真昼間に目を覚ますと、四畳半の部屋の天井から無数の触手が生えていた。ホラー映画好きで怖いモノには慣れている私も、さすがに一瞬「襲われるのではないか?」という恐怖で足がすくんだ。


 しかし、それから一時間経っても二時間経っても、その触手はぬるぬると蠢くばかりで襲ってくる気配がなかった。それどころか、翌日になっても一週間経っても襲ってくることはなかった。すると、人間というものは不思議なモノだ。段々と「恐怖」の対象から「親しみ深い」存在へと変わった。


 一カ月も経つと、俺と触手はまるで「親友」のように腹を割って話す関係になった。もちろん、天井から生える触手が喋ることはない。あくまでも俺の方から一方的に話しているだけである。もしも他のアパートの住人に聞かれたのなら、「あの人、毎日誰と話しているのかしら……?」と気味悪がられること間違いなしだった。


 それでも、その狂った行為は一人暮らしで友達も彼女も(もちろん彼氏も)いない、俺の心の空白を優しく埋めてくれた。オタク的な趣味が生き甲斐になっている人間が存在するように、俺にとって天井から垂れる触手との生活は、それがどんなに頭のおかしいモノであったとしても、心の支えになっていた。ただ退廃的な日常を生きるしかなかった俺に、狂気という倒錯を許してくれた。まるで天から舞い降りし慈悲深き神のように、俺に「狂気」という名の救いを与えてくれたのだ。


 しかし、その狂気も長くは続かなかった。それは「親友」との生活が始まってから次の季節が過ぎようとしていた、ある真夏の真夜中のことであった。その日は珍しく酒を飲んで酔っぱらっていた。


「なぁ聞いてくれよ親友。昨日の深夜バイトで店のフライヤーの掃除をしていたらさ、突然変な酔っ払いの客がやってきてさぁ。”この店にあるお酒を俺に全部よこしてくれ、兄ちゃん!”とか意味不明なこと言ってくんの。それで俺が苦笑しながら”お客様、一度ご帰宅なされた方が……”って親切で言ってやったらさぁ。あの客、何って言ったと思う?」


『……』


「”俺は海賊王と呼ばれた男だぞ! 殺すぞ!”って謎の恐喝してきたんだよね。さすがにこれはALSOKを呼ぶべきか迷ったんだけどね。そうしたら——」


 そんな風にして、俺は酒の酔いの赴くままに触手へ愚痴っていた。

 触手は相変わらず何も言わず、黙々と天井をぬるぬると蠢いていた。なんだか以前よりも長さが大きくなっていたが、特段害はないだろうと放置していた。最悪、邪魔になればちょん切ってしまって、タコ焼きの具にしたら良いだろう。そんな頭のおかしい酔っ払いらしい想像をしていた。その時のことだ。


『その客が突然店のカウンターにゲロを吐いてその場に倒れたんだよな、知ってる。……その話、これでもう十回目だぞ。あと酒臭い』


 俺は心臓が止まるかと思うぐらい動揺した。その声は、明らかに天井でぬるぬると蠢いている触手から聞こえてきたモノだった。


「お、お前……喋ることができたのか!?」


『もちろん。数ヶ月間、お前が俺に話しかけてくれたおかげで言葉を覚えることができたんだ。ありがとな、床快ユカイ


「お、お礼なんて、そんな。……俺なんてずっと一人暮らしの寂しさを紛らわすために愚痴っていただけだし、時々迷惑かかってないかなーと思いつつも、結局愚痴り続けていた利己主義者エゴイストだし、そんな褒められるようなことは……」


『ははっ、床快は相変わらず酒を飲んでいても自己肯定感が低いな。俺と床快の関係なんだから、そんな恐縮しなくてもいい。いつもみたいに、にいこうぜ、に』


「ふ、の方では……?」


『は、はは…………まぁ、なんでも良いだろなんでも! それより床快、ちょっと部屋の一番下にある触手を引っ張ってくれないか?』


「引っ張る……? それまた、どうしてなんだ?」


『どうして、って言われてもなぁ。……まっ、引っ張ってみたら分かるから。大丈夫、床快の同じ愚痴を十回も聞いてやったの俺を信じろ!』


 親友。その言葉を聞いた瞬間、俺の心はリアリスティックな希望に染まった。現実とは案外、良いモノなのかもしれない。「こんな感情、どうせ俺からの一方的なモノでしかない……」と思い込んでいたとしても、実はお互いにそう思い合っていたことだってある。現実は思っていたより優しく、利用価値なんて言葉を超えた「何か」が存在するのだ。

 

 希望に満ちた俺は早速、その親友の言葉に従って一本の触手を掴んだ。グッと力を入れると、——アレクセイ・トルストイの原作と違い、他に引いてくれる友はいないのだが——「大きなカブ」を引き抜くような気持ちで天井から触手を引き抜いた。


 すると、どうしたことだろうか。天井がボンッと大きな音を立てて崩壊し、上から俺の背中に覆い被さる形で「大きなぬるぬる肉体」が落ちてきた。


 その「大きなぬるぬる肉体」は「触手で出来た毛糸玉」と表現するのが最も相応しいモノであった。常にぬるぬると蠢いていて、時折、毛糸玉の奥にあるらしい丸い「口」のような器官から透明な粘液が排出されていた。


「あの……触手くん? 俺、お前の下に引かれてるんだけど」


『そうだね』


「あの退いてくれないか……?」


 そう言ってみたものの、触手は何も言わず、一向に退いてくれる気配がない。仕方がないので自分の力で「大きなぬるぬる肉体」の下から抜け出そうとする。だが、そんな俺を幾十本もの触手が捕らえてきた。


『床快。もしかして、逃げる気じゃないよな? 俺たち、だよな? どうして逃げる必要があるんだ?』


「ど、どうして、って。そ、それは……」


『親友なら、逃げる必要はないよな? だって、親しい友と書いて親友なんだぜ? そんな親しく思っている相手から逃げる必要なんて、何もないよな? だからさ……?』


 その言葉を聞いた瞬間、俺の心はニヒルな絶望に染まった。結局、現実なんてこんなモノなのだ。「お互いに理解し合っている」と信じても、結局一方的なモノでしかない。向こうからすれば、ただ利用価値のあるモノでしかないのだ。


 ぬるぬるとした触手が、少しずつ俺の耳から、口から、鼻から、細胞と細胞の隙間から、肉体の中に触れるのを感じる。体内を搔きまわされる気持ち悪い快感の中で、俺は触手と出会う前のように、心を空っぽニヒルにした。


「……うん、いいよ。親友のためなら、この身体を捧げるよ」


『本当か!? わーい、お祝いに冷蔵庫の中にある廃棄のケーキでも食べるか? ……って、あっもう今のお前には食べられないか。ガハハ!』


 俺は毎日が希望に満ちて楽しそうな「親友」から目を背けるようにして、うつ伏せになる。すると、自分の意識がふわふわしてきたことに気付く。少しずつ身体の所有権を侵食されているせいか、「俺」という存在が消えかかっているらしい。


 今更、本当にろくでもない「親友」を持ったなと後悔する。もっと、な友達を作っておけば良かったと後悔する。もっと、こんな触手に話しかけるような虚しい人生ではなく、な人生を歩めていたらと後悔する。


 過ぎ去った季節がもう戻らないように、いくら後悔しても「まとも」から逸れて「おかしく」なってしまった人間が「まとも」に戻ることは不可能だ。いつ死という破滅が来るのか怯えながら、「おかしい」日常を過ごすしかない。


 それでも俺の「親友」は、そんなニヒルな現実を「狂気」によって逃避させてくれた。これが多分まともな「親友」であったのなら「現実逃避をするのではなく、現実に立ち向かえ」と鋭く尖ったナイフのような助言で心臓を刺してきただろう。その点だけは、俺はこんな身体を乗っ取ってくるタイプの狂気的な「親友」を持って良かったと思う。


 俺は親友に目を背けたまま、ゆっくりと目蓋を閉じる。永遠の虚無ニヒルに満ちた暗闇の中で意識を曖昧にしながら、俺の身体が触手に乗っ取られていく快感に身を委ねた。

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