和田合戦 その2



 相模次郎朝時[は]泰時の舎弟なり。心剛にして變化へんかけんたくみにす。味方の陣をはせめくり、軍のやうすを下知せられしが、朝夷名と戰かふて手を負て引退ひきしりぞく。


 若宮大路米町の口にして、武田五郎信光と朝夷名と出あふたり。たがひに目をかけて[は]せよする所に、信光が嫡子悪三郎信忠、生年十五歳、父が前に蒐ふさがり太刀抜そ[ば]めて打てかゝる。義秀これを見て、「かゝる少年を討たれ[ば]とて何事かあるへき。父が命に替らんとする形勢、心ざしのやさしさよ」とて馳とほりけれ[ば]、聞人きくひと朝夷名を感ぜぬ[は]なかりけり。


 義盛が一族郎従[は]みな一騎当千の兵どもにて、只打死と思ひさだめたりけれ[は]、少もためらふ色[は]なし。向ふを打なびけ掛るを追散おいちらし、四角八面にあたりを[は]らつて夜もすがら戰かひ明けども、心ざし[は]撓まずいよ〳〵武勇を励ましけり。義盛[は]老武者なり。數度の戰かひに、將軍家より[は]あら手入替り、和田[は]変る兵なく戰かひ疲れ、討取るゝもの過半にして、残る兵も痛手うす手負けれ[は]、暫らくやすめとて前濱の邊にぞ引取りける。


 足利三郎義氏、筑後六郎知尚、波多野中務烝經朝、鹽田しおだ三郎義季等の軍兵ども、中下馬なかげばの橋をかため、米町の辻、大町の大路以下、處々をとりふさぎて、凶徒を責ること息をもつがせず。義盛を初めて、昨日の暮より今日にいたるまで戰かひ明せども、兵糧をもつか[は]ず、馬人ともに疲れし所に、横山馬允時兼、其聟波多野三郎、同じく甥の横山五郎以下、一門郎従を引率して、和田が陣に馳来はせきたる。


 軍兵又三千騎になりけれ[ば]、和田[は]これに力を得て、武蔵大路のあひだ、稲村が崎のほとりに群りたる、曾我、中村、二宮、河村の者どもを散々に追ちらし、義清、保忠、義秀三騎の勇兵轡をならべ、掛立〳〵打てま[は]れ[ば]、上総三郎、佐々木五郎、結城左衛門等、馬の足を立かね、辟易して乱るゝ中に、筑後四郎兵衛、壱岐兵衛、土方次郎、神野左近、内藤次を始めて二十七騎打れて、手負[は]又數をしらず。


 土屋大學助義清いよ〳〵進みて、御所のお[は]します鶴が岡の別當の坊に打いらんとする所に、若宮の赤橋の砌りにて流矢とび来り、首の骨に崑深のぶかにたつ。


 義清目くらみ、心消て、馬より落るを、近藤左衛門尉、[は]しり寄て首をとる。

此義清、岡崎四郎義實が二男なり。将軍家に恨みありて和田に属して討れたり。


 すでに其日の酉刻になりけれ[は]、和田が軍兵のこりすくなに討とられ、人馬ともに疲れ果て、和田四郎左衛門尉義直[は]、伊具馬盛重に討れたり。


 父義盛これを聞て、「今[は]何をが期すべき、命いきても甲斐なし」とて敵をえらばず打てま[は]り、江戸左衛門尉義範が郎従に組れて討れけり。


 子息五郎兵衛尉、義重六郎義信、七郎秀盛も所々にして討れけり。


 朝夷名三郎義秀[は]、なほこれまでも手もお[は]ず、はだたわまず、力つかれざりけれども、父義盛、其外兄弟郎従こと〴〵く討れしか[ば]、「今[は]軍しても詮なし。時節を待て本意を達せん」とて、健なる郎等五百餘騎を一所に招きよせ、濱面に打出つゝ船六艘に取のり、安房國におもむき行方しらず隠れたり。


 新左衛門尉常盛、山内先次郎、岡崎與一、横山馬允、古郡左衛門尉、和田新兵衛入道は、一方を打破りて落うせたり。


 軍散じて後、受取所の首級を由比の浦にかけられたり。都合二百三十四とぞ聞えし。

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和田合戦 ~ 鎌倉北条九代記から 大村 冗弾 @zeele-velvet

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