和田合戦 ~ 鎌倉北条九代記から
大村 冗弾
和田合戦 その1
※初めに。
鎌倉北条九代記は、江戸時代前期の延宝三年(一六七五年)に刊行された「仮名草子」で、浄土真宗の僧侶で仮名草子作家でもあった浅井了意という人物により書かれたのではないか、といわれています。
その内容の多くは、先行する歴史書や軍記物 ── 『将軍記』『吾妻鏡』『太平記』『承久記』『日本王代一覧』『保暦間記』『増鏡』などから引用されていますが、「和田合戦」の部分は引用元が不明で、了意の創作かもしれません。
※縦書きにしてお読みください。
(註)
ブラケット〝[ ]〟 の中の仮名は、原文では変体仮名となっています。
原文では句読点やかぎかっこはありませんが、読みにくいので付けておきます。
また、原文では改行はありませんが、読みやすくするために入れてあります。
五月二日の申の
一手[は]將軍家の南門にいたり、二手[は]相州義時の小町の西北の兩門を
御家人等御所の南に出て戰かうに、兩方矢をはなつこと雨のごとく、鋒より火を出し、鐔もとに血を滴て、追いつまくりつ半時ばかり責め戰う。波多野中務烝忠綱、三浦左衛門尉義村はせ加はりけれども、御家人等叶はずして散々に追なびけらる。御所の四面をとりかこみて、内に責め入らんとす。修理亮泰時、同次郎朝時、上総三郎義氏等、力をつくしてふせぎけるを、朝夷名三郎義秀惣門を押破り、軍兵込入りて火をかけしかば、御所の棟々一宇ものこらず消失す。
朝夷名は本より大力武勇のしたゝかものにて、二領重ねの大鎧に、星甲の緒をしめ、九尺ばかりの鉄さい棒を打ふりて、當るを幸に馬人をいはず無打ふせ、薙たふす。
新野左近將監景直は、火縅の鎧におなじ毛の甲を猪頭に着[な]し、黒鴾毛の馬にのり、太刀を真甲にかさして朝夷名に[は]せかゝる。義秀これをみて横さまにうちひらけ[は]、棒のあたりし處より新野二つにちぎれて、血烟とゝもに落たりけり。
葛貫三郎盛重すきまなく[は]せよせ義秀にくまんとする處に、朝夷名棒をとりのべて衝たりけれ[は]、馬[は]横に倒れて盛重下にしかれたりしを、義秀つゞけて突けるに甲の鉢ともに首砕けてうせにけり。
五十嵐小文次是を見て、「あなこと[こ]としや。さりながら一騎うちよせ、手合の勝負を思ふ故に兵おほく討るゝぞ。大勢一同に前後左右より攻めつけよ」とて郎従七八人、我身もろともに
高井三郎兵衛[は]和田次郎義茂が嫡子として、義盛に[は]甥にてあり。一族をはなれて將軍家に属し奉り、忠を存じ道を立る。
このたびの軍に私なき大功をあらはさんと、義盛が郎従あまた打取しが、朝夷名とよせ合せてしばし戰かふに、勝負なし。
義秀は大力にて、義茂は
相模次郎朝時[は]泰時の舎弟なり。心剛にして、
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