最終話 -濁って、苦い-

 ……彼女の名前は、ツミキ、というらしい。容姿はぼくが初めて会ったころのツムグにそっくりだった。ツミキの明るい性格も、当時のツムグそのものだった。

「へえ、ダンさんっておばあちゃんのコーヒー好きなんだ!」

「うん、毎日来てたよ」

「そういえばおばあちゃん、すごく小さいお客さんがいるって話してたっけ。すっごく楽しそうに話してたよ! 毎日かあ……おばあちゃんの作るやつ、みんな美味しいもんね。よし! 私のコーヒー、おばあちゃんのと比べてどんな感じか教えて!」

「いいよ」

 ツミキはすぐにとりかかった。たどたどしい手つきでコーヒーを淹れていく。そして出されたコーヒーは、ツムグのものと少し似ているものの、ほんのりと甘さが加えられていた。ツミキにしか出せない味、というべきか。ツムグのものとは、行く先が違う気がした。

 ぼくは店を後にした。そしてもう二度来ることはなかった。




~数年後~

 約束の日が来た。龍神様は完全に力を取り戻し、いつでも計画の実行ができる。

「よし、時間だ。いけ、ダン」

「はい」

 誰もが寝静まった暗闇の中、ぼくは本来の姿に戻る。今まで見上げてきたものが、ただのミニチュアになる。一歩踏み出すと足元に突風が起こる。森がざわめく。地面が揺れる。それでもニンゲンたちは気づかずに眠り続ける。

 あの街があるところに足を降ろせばそれだけで全てが終わる。でもその前に、ぼくは手を伸ばした。

 すっかり小さくなってしまったあの店を、つまむ。そして街の外に置いた。踏みつける勢いで吹き飛ばないぎりぎりのところに置いた。

 ぐっと足を上げ、空中で固定する。しっかり踏みつける場所を狙って、一気に振り下ろす。土煙が巻き起こる。ぼくはそのまま、足を上げた。

 そこに龍神様が舞い、大雨を降らす。そこにできた窪みは、すぐに清水で満たされた。

「龍神様、もう一度雨を降らすことはできますか。実は試したいことがあるのです」

 龍神様がうなずく。まだぼくが幼いからか、子どもの遊びだと思って聞き入れてくれた。

 ぼくは小さな袋をつまみ、その中身を水に振りかけた。でも、あまりにもその量は少なく、できあがった湖に変化は起こらなかった。周囲の盛り上がった土を混ぜる。人差し指でぐるぐるとまわしていくと、茶色になった。そしてそれを手に救う。守るように包み込む。しばらく見つめる。……やっぱり、だめだ。あのコーヒーは、再現できない。

 手に救った濁り水を、口に含んだ。そして、飲み込んだ。破壊した残骸の粉も混ざって、喉元を通り過ぎていった。

 やっぱり、それは違うものだった。

「……濁って、苦い」

 龍神様が再び雨を降らし、琵琶湖は完全によみがえった。

 もう、ツムグはいない。もう、あの味に親しむことができない。

 日が昇り、この緑色の巨人の姿が解けるまで、ぼくはただ茫然と立ち尽くしていた。







~翌日~

「くっそ~、結局戻るの朝になった……」

 その前日、わたしはある用事があって街を出ていた。その予定が意外とかなり長引いて、結局朝帰りになってしまったのだ。しかし街に帰ってきたとき、わたしはとんでもないものを見ることになった。

「ただいまっと……ってあれ、なんでここにうちの店が……ってなんでこんなにぼろついてんの!?」

 ほぼ半壊状態でギリギリ建っている店の姿が目に入る。でもそれ以上に、もっとすごいものを見たのだった。

「あ……すごい、綺麗……」

 店のすぐそばには、海かと見間違えるほどの広大な湖が広がり、昇りたての朝日を反射させて、その水面を輝かせていたのだった。

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濁って、苦い。 境 仁論(せきゆ) @sekiyu_niron

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