霧の都のアスモデウス

碧美安紗奈

霧の都のアスモデウス

 旧約聖書外典のトビト書には、アスモデウスなる悪魔について記されている。

 情欲の魔王とあだ名される彼はサラという女性に魅せられて取り付き、彼女の嫁いだ先の男たちをその初夜の晩に7人も殺めたそうだ。


 19世紀も終焉に差し掛かった頃。

 産業革命による石炭燃料のスモッグと冬の運ぶ霧に彩られた魔都ロンドンにも、同名で呼ばれる男がいた。


 イーストエンドにたむろするチンピラの一人である彼は百戦錬磨の強者で、がたいがよくて喧嘩っ早く、ナイフも銃も手足の如く操れた。なんでも親に捨てられ、孤児院で虐待され、脱走するという人生の中で身に付けた生きるための知恵だという。


 故に彼は悪党の一大勢力を築くリーダーであり、性格も歪んでいたために皆から恐れられていたが、この頃はまだ先の悪魔の名で呼ばれることはなかった。男がその異名を冠せられたのはある娼婦と出会ってからである。


 彼はそれまでにも幾人もの女を買っていたが、このときの相手は少々事情が違った。

 色褪せたドレスに痩せた身体。身長は男の半分ほどだが、丸顔とブロンドの長髪。青い瞳が印象的な彼女は、初めて仕事に出たようやく十に届いたばかりの歳の小娘で、当時は珍しくはなかった少女娼婦に過ぎなかったが、どういうわけか男は彼女に会って豹変したのである。


 子分たちは、彼がこの手の新人に手を出すのが初めてであったことから、単に物珍しがっているだけだろうと考えたが、その目算は見事に外れた。


 男は、少女を一日として手放さなかったのだ。


 ところでこの娘はサラといい、彼は影のように彼女に付き従い、己以外の客を一切寄せ付けさせないことから、やがてアスモデウスと称されるようになったのである。そしてまもなく、アスモデウスは自らの一味を解散し、これまでの悪逆で儲けた金を、全て仲間たちにくれてやるという行動に出たのだった。


 そんな折。

 霧の都に、切り裂きジャックジャク・ザ・リッパーと称される殺人鬼が出没し始めた。

 狙いは娼婦らしく、何人もの女が犠牲になった。


 ある夜更け。

 警戒を強めていたロンドン警視庁スコットランド・ヤードは、甲高い悲鳴を聞きつけた。


 彼らが声音の発生源に駆けつけたとき、その路地裏には泣きながらうずくまるサラと、彼女の華奢な肢体に覆い被さるアスモデウスがいた。この悪漢は最近はおとなしかったものの、かつての悪行は知られていたし、状況から警官はそれほど迷わなかった。


 彼らはすぐさま銃を抜き、悪魔の名で呼ばれる人間を撃ち殺したのである。


 ところがサラはますます泣き喚き、アスモデウスの身体にしがみつくと、彼女を心配して近寄った警官たちを細腕で叩きながら叫んだのだった。


「どうして撃ったの、彼は私を守ってくれたのに!」


 警官が確認したところ、アスモデウスの背中にはナイフによる刺し傷があった。

 それは襲ってきたジャック・ザ・リッパーから、サラを守るために負ったものだった。だがサラの悲鳴に驚いてジャックが逃げだした時点ではまだアスモデウスに息はあり、彼に止めを刺したのは、紛れもなく凶弾の仕業だったのである。


 結局、この後もジャックによる凶行は続き、その正体は歴史においてもわからず終いだったが、アスモデウスの背中の傷や目撃者の証言から、悪魔と呼ばれた男の無実は証明された。


 そして彼の身の潔白が明白となる過程で、アスモデウスがサラと共に子供のようにケンジントン・ガーデンで遊んでいたことや、足を洗って真面目に働いていた事実も明らかとなったのだが、誰もこの悪党の改心など語り継ごうとはしなかったのだった。


 守護聖人を失った少女娼婦サラが、以後どうなったのか確実なことはいえない。だが数十年後のロンドンには、やたらと悪魔アスモデウスについて語りたがる老婆がいたとの記録が残されている。

 平穏な暮らしを手に入れた彼女はやはりサラという名前で、酷く貧しい子供時代を過ごしたらしいが、自分を守ってくれるある男と出会い、これまで生きてこれたのだそうだ。


 その男は死んでしまったものの働いて貯めた金を残し、また、かつて自分が世話した仲間たちに、己の身に何事かがあったならサラを助けてやるようにと頼んでいたのだという。

 そんなサラは、イザヤ書に語られる悪魔アスモデウスが大天使ラファエルに退治されるところまでは普通に話すのだが、涙ながらにこう付け加える癖があったのだそうだ。


「……でも、この悪魔は彼女を本気で愛していたんだと思うわ、自分の力を使えばねじ伏せるのは簡単だもの。なのに、サラには指一本触れていないのよ。

 本当の愛し方を知らなかったのかもしれない。だからきっと、彼女から心を開いてくれる時を待っていたのよ」と。

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霧の都のアスモデウス 碧美安紗奈 @aoasa

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