金曜日の島田先輩 下

 ひょんなことから、具体的には関西の学生にあるまじき低レベルのボケをぶったことをきっかけに、私はこの2年、毎週金曜日には島田先輩とカレーを食べている。


 私は研究室の懇親会でカレーが好きだと宣言した。そう宣言したことは、根も葉もない嘘、というわけではなくて、寿司とロールキャベツの次くらいにはカレーが好きなのだが、それでも毎週欠かさず食べたいというほどではなかった。寿司なら毎日でもいい。

 

 今日は金曜日。


 私は先輩の部屋に来ていた。


 キッチンから漏れ聞こえる先輩の鼻歌をBGMにして、あと何回先輩のカレーが食べられるだろうかと考える。先輩は今年卒業で、就職して福岡に行くことが決まっている。


 通算何百杯も先輩のカレーを食べてきて、食べさせられてきて、まだ飽きないのか、懲りないのか。凶悪なカレー衝動に突き動かされて毎週カレーをつくり続ける先輩に付き合っているうち、私もカレーなしには生きられないカレージャンキーになってしまったのだろうか。そうではない、たぶん。


 ごきげんな鼻歌が聞こえる。今日のカレーはおいしくなりそうだ。


 先輩の鼻歌を聞きながら、どんなカレーがでてくるのかと想像するのは楽しい。


 先輩はカレーをつくるのが上手い。しかしフィーリングでつくっているらしく毎週味が違う。


「インディーズだし」


 言い訳するように先輩はいう。


 先輩は味が安定しないのを悪癖のように思っている。そこが先輩の数少ない可愛げの一つ、というのは後輩の私が言うのは失礼がすぎるか。しかし機械のように、精密に、同じ味のカレーをお出しされても困る。飽きる。インディーズ上等。


 因果関係はわからないけれど、鼻歌が楽しそうに聞こえるとき、出来上がるカレーはいつもよりおいしい。逆に、頻度は少ないけど、悲しげなメロディーが聞こえたときはダメだ。


 つまり先輩が気分良くつくったカレーは美味しく、悲しくつくったカレーは残念。つくる人のメンタリティが料理の味を左右するとはオカルティックな話だが、文字通り先輩のカレーを食べ続けた私が言うのだから間違いない。


 食べたカレーがおいしく感じれば、「なんか良いことありました?」と聞くし、微妙だったら逆を聞く。


 そこから始まる会話は、楽しいし、カレーはおいしい。


 「ごはんは人と食べたほうがおいしい」という風説をコモンセンスとして流布する気は毛頭ない。実感したこともない。一人で食べたほうが味に集中できるのだから、おいしく感じるはずだ。


 だが島田先輩と食べるカレーはおいしい。先輩がつくったカレーはおいしい。


 かつて「私は先輩の心を食べに来ているのかもしれません」と言ったら、一言。


「きも!!」


 と返された。全面的に同意。


 思えば、先輩後輩の関係にあるからといって、律儀にカレーを食べ続ける必要なんてないし、義理もない。


 それなのに、2年間も金曜日の夜を島田先輩のカレーを食べることに費やしてきたという歴史が、私に重くのしかかる。


 解釈を迫ってくる。


 歴史とは解釈である。歴史には意味がある。


 私が島田先輩のアパートを訪れ続けたのはなぜか、カレーを食べ続けたのはなぜか。飽きもせず、懲りもせず。


 突き詰めてみれば、一つの真実に行き当たるのかもしれないけれど、突き詰めようとすると、突き詰めたら何になるんだというという疑念が湧いて、真実に迫ろうという意志は霧散する。


 自分のことは自分が一番知ってるなんていうのは嘘で、嘘であってほしくて、私は私のことなんて知りたくない。


 いっそ、ぼんやりとした自分の気持ちを、腹のうちを、先輩にさらけ出したらどうなるだろう。先輩は、なにを思うだろう。どう解釈してくれるだろう。

 

 先輩がどう思ったかは、先輩がつくったカレーを食べたらきっとわかる。でも、そのとき、私の気持ちを知ったとき、先輩はもうカレーをつくってくれないのではないか。


 金曜日に先輩の部屋を訪れるルーティンを重ねるたび、私の心に渦巻くものの存在が大きくなる。


 先輩の卒業の日が近くなるたび、焦燥感がつのる。


 言ってしまえという気持ちと、残り少ない先輩との時間を台無しにしたくない気持ち。


 入り組んだ気持ちを、私は言語化することができない。入り組ませてしまった気持ちを理路整然とさせることができない。だから私は気持ちを先輩には伝えられない。そういうスキーム。そうやって気持ちを胸のうちに閉まっておくことを正当化してきた。


 しかし私は言語化しなくても、気持ちを伝える方法があることに気づいている。私と先輩が繰り返してきたコミュニケーションのかたち。


 台所に押し入って、先輩に交代してもらえばいい。楽しげにカレーをつくっている先輩には悪いけれど。


 私がカレーをつくったならば、どんなカレーができるだろうかと想像する。きっとぼんやりした味の決しておいしくはないカレーができるだろう。


 カレーを食べた先輩は聞いてくれるだろう。


「なんか嫌なことあった?」

 


* * *



 さっきまで鼻歌だった先輩が、いつの間にか歌を口ずさみはじめている。相当に機嫌がいい証拠だ。


 きっと今日のカレーは格別においしいだろう。


 意を決してキッチンに入る。


「先輩、偶には私にカレーつくらせてくださいよ」


 キョトンとした顔で私を見つめる先輩。それもそのはずで、私がカレーをつくりたいなんて言い出したことはなかった。この2年間、一度も。

 

 島田先輩は玉ねぎを炒める手を止めた。手を洗いながら言う。


「珍しいこともあるなあ。いつも先輩を働かせて食べてばっかりの後輩ちゃんが」

「事実だけど人聞きが悪い!」


 言われてみれば、というか言われるまでもなく、先輩に料理させて食べる後輩ってどうなのだろうか。年功序列全盛の時代なら死刑かもしれない。


 でも先輩が好きでやってることじゃん。


「なに考えてるか知らないけどさ」


 手を拭きながら近づいてくる先輩。


 先輩は背が高くて、ちょっと私は見上げるかたちになる。にこやかに笑う先輩。笑い返す私。白い手がすっと伸びてきて。


「イダッ!!」


 でこピンをくらった。


「おまえのようなもんは、つべこべ言わずに私のカレー食べてたらいいの!」


 額に受けた衝撃で仰け反った私は天を仰いだ。大して高くもない天井。


 なぜか笑えてきた。


「先輩、好きです」

「ハイハイ私も好きですよー。カレーの次くらいにね」


 先輩は調理に戻っていた。スパイスを選んでいる。


 私は抱きつくようにして、先輩の背後からスパイスに手を伸ばす。


「……辛いのがね。好きなんですよ」


 カイエンペッパーの瓶に手を伸ばし、鍋にぶちまけた。たっぷりと。


 先輩の悲鳴がこだまする。


 先輩は辛いのが苦手。

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金曜日の島田先輩 菅沼九民 @cuminsuganuma

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