燻る想い

月野志麻

燻る想い

 兄貴の奥さんは、とても明るい人だった。

しかし今日ばかりは、いつもの溌溂さは鳴りを潜め、参列者一人一人に丁寧に、そして静かに頭を下げている。白いレースのハンカチで涙を拭った頬は、数ヶ月前に会ったときよりも、随分とやつれていて驚いた。


 「明人 あきとさんの看病、とても大変だったそうよ」


 杏子 きょうこさんの親戚が言う。兄貴が三十五歳のとき、肺に影が見つかった。それはすぐに癌であると診断され、治療が開始された。見舞いに家を訪ねた俺を安心させるように、「この人がすぐ死ぬわけないでしょ」と杏子さんは兄貴の背中を叩いて笑った。だけど、治療は思ったような成果を出さず、癌は急速に兄貴の身体を蝕んでいった。約一年。夏が暮れ、秋の訪れを感じさせる頃。兄貴はこの世から旅立っていった。


 葬儀は滞りなく執り行われ、兄貴の身体は荼毘に付される。一時間から二時間ほど掛かると火葬場の職員が静かに言う。お茶でも飲みましょう、と母が言って、皆ぞろぞろと控室へと戻っていった。その中で、杏子さんが母親……兄貴から見れば義母に当たる人に「外の空気を吸ってくる」と言っているのが視界の端に映る。


 何という訳ではない。何をしようという訳でもない。だけど、足は自然と杏子さんの後を追って、どこに行くのという母さんに、「タバコ」と早口で返した。



 杏子さんを探して建物をぐるりと周る。なかなか見つけられない姿に、そうだと思い出して喫煙所を覗けば、杏子さんは驚いたように目を丸くさせて俺を見た。それから、気まずそうに視線を下に逸らして、タバコの伸びた灰を灰皿へと落とす。


 「ダメね、私も禁煙しないと。でも、この一年はずっと我慢していたのよ。明人くんの身体に障ったらいけないし」

「やめられないの?」

「やめられるわよ、いつだって。このままやめるつもりだったもの。でも、今日はダメ」


こんな日くらい良いでしょ、と笑う彼女には、いつもの名残がある。それに少しだけホッとしながら、頷き返した。


「杏子さん、これからどうするの?」

「最愛の人と別れたばかりの私に、これからの話をもうするの?」

「ああ……ごめん」

「いいけど」


 どうしようかなぁ、と言いながら、杏子さんは細く煙を吐き出す。ほろ苦さの中に、ほのかに甘い香りが乗っている。それに誘われるように、俺もタバコに火を点けた。


 「 しんくんも、タバコはほどほどにしておいたほうが良いわよ。肺癌の原因には喫煙もあるんだから」

「でも、兄さんは吸ってなかったでしょ。杏子さんだって兄さんの前では吸ってなかったじゃない」

「服についた匂いでもダメだったのかしら」

「それはどうか分からないけど。今は二人に一人が癌になるって言われているんだし、なるときはなるし、ならないときはならないよ」

「でも、予防するに越したことはないでしょ」

「じゃあ、杏子さんも。俺と一緒にやめようよ。この一本吸ったら」


杏子さんは、くすくすと肩を揺らしている。どうにも本気だと思われていないようで、「そうね」なんて彼女は伏し目がちに相槌を打った。本気で言っていると言っても、のらりくらりと躱されるだけだった。


「大学はどうなの? 無事に卒業できそう?」

「卒業はできるけど、就職のほうがどうかな」

「難しそうなの?」

「嘘。内定、貰いました」

「なんでそんな変な嘘吐くのよ」


俺の肩を押すように杏子さんが叩く。わざとよろめくフリをして、そんなに強く押してないわよ、と杏子さんが呆れたように言って、俺たちは笑い合った。


「おめでとう」

「ありがとう。もっと落ち着いてから、報告するつもりだった」

「いいのよ。気を遣わないで。寂しいけど、ずっと覚悟はできていたから。しっかりお別れもできていたし、後悔はないわ」

「そう」


杏子さんが、うんと頷いたきり会話が無くなる。手持ち無沙汰で口寂しく、二本目のタバコを箱から取り出そうとした俺に、杏子さんは「禁煙宣言はどうなったのよ」と呆れたように笑った。杏子さんはとっくにさっきのタバコは吸い終えていて、俺の誘いを受けるようにタバコを吸わずにいてくれていたらしい。「ああ、そうだった」と忘れていた風を装って、タバコをそのまま箱の中に戻した。


「ねぇ、杏子さん」


なぁに、と優しく彼女が首を傾げる。


「俺、杏子さんのこと、好きだよ」


二年前にも言ったけど、と続ける。あれはそう、杏子さんと兄貴が結婚する少し前のことだった。溌溂と、太陽みたいに笑う杏子さんにずっと想いを寄せていた。兄貴の恋人だって、兄貴の婚約者だって分かっていたのに、言わずにはいられなかった。


「ありがとう」


 杏子さんが言う。その声を聞いたら、途端に視界が滲んで息が詰まった。兄貴に申し訳ない。兄貴の死を待っていたかのように言ってしまった自分が嫌で嫌で仕方がない。二年前のあの日、杏子さんに近付きたくて初めて吸ったタバコの香りを思い出して、余計に胸が締め付けられた。


 杏子さんが「私には明人くんしかいないから」って、「年下には興味がないのよ」ってハッキリと笑い飛ばしてくれたら良かったんだ。二年前だって、今日だって。それなのに、なんで、急にしおらしくなって、困ったように眉を下げて、「ありがとう」なんて笑うんだ。杏子さんは、二年前のあの日から今日までのように、何事もなかったかのようにきっと過ごすんだろう。だから俺はまた、諦められないまま、この気持ちを抱えて生きていく。きっとずっと、杏子さんを好きなまま生きていく。


 スーツの袖で涙を拭う。その端で、二本目のタバコに火を点けた杏子さんを見た。


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燻る想い 月野志麻 @koyoi1230

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