悪霊令嬢 後

 月子ツキコは、東雲の屋敷の南西に建つ楼閣の屋根の上にいた。

 石棺に閉じ込められた時に身につけていた、白い装束を夜風にはためかせ、街を見下ろす。

『都も様変わりしたなあ』

 頭の中で氷雨の声がする。

「あなたが暴れてから100年経ってるもの。見て。あのびょうにあなたが祀られてるのよ」

 月子は土煙に霞んだ、都の北の建物を指差した。屋根から柱から金細工が取り巻いているから一目でわかる。

『金ピカじゃん。趣味が悪い』

「丁寧に祀らないと祟るって言われて、特別豪華に作ってあるの。あなた神様なのよ。祟りを恐れて神様として祀ったの」

『ふーん』

 氷雨は大して興味もないようだった。それよりも、西の大路の騒動が気になるようだ。

『あはは、すげえ人が集まってる』

「突然道が弾けて座面が割れたら驚くでしょう」

 月子の玉の緒を追って現世へと上った氷雨は、月子の体に憑依した。今は月子と氷雨が共に一つの体に同居している状態だ。

 氷雨の力は凄まじかった。月子の体に宿った途端、雷が地表で弾け、大路には大きな亀裂が穿たれた。石棺が壊れ、月子は自分の体が大きく跳ね上がるのを感じた。自分ではない何者かの力が体を動かす。一度の跳躍で楼閣の屋根へと飛び上がった。そして屋根伝いにここまできた。

 ——ここまで来たのだ。

 月子の動揺は氷雨に伝わっているのだろうか。

 さっきまで、興味深げにあちこち見回していた氷雨が急に大人しくなる。

「氷雨?」

 返事がない。生暖かい夏の闇が濃くなった気がする。

ユエ。君は随分ひどい境遇で育ったんだな』

 ぞくりと背中に冷たいものが走った。

『この屋敷に来た時から、君の記憶が見えた』

 右手が動き、そっと左腕を撫でる。月子の意志ではない。

 月子は息をつめた。まずい。そうか。そういう展開もある。

 月子は内心で舌打ちした。氷雨に気づかれていないといいが。

 月子はすでに純潔ではない。

 当主の息子、ミドリに組み伏せられた床の冷たさが蘇った。

 あいつも顔だけは良い下衆だった。どうせ屍人形になるなら今からやっても同じだと、一年ほど前から月子をいいように扱うようになった。月子が武術の鍛錬を始めたのはその時からだ。屈辱はちっとも消せなかったけれど。

(まずいな。氷雨はそういうことを気にする性分か)

 娶った女が傷物であることを厭うのは男なら当然かもしれない。

 ここまできたのに、唇を嚙みかけたときに聞こえたのは、能天気な氷雨の声だった。

『月の体のことを言ってるんじゃないよ。俺の時代は兄弟間で嫁を交換するなんて当たり前だし。何なら兄妹ででもやることやったし。それに俺、人の女を奪うのも嫌いじゃないし』

「そう、なの?」

『そうそう。だから全然問題ないんだけど、月は嫌だったんだろ?君が怖がってるのもわかったよ。あいつを憎んでるのも、それが理由?』

「それだけじゃいけど、それもある」

『よし、じゃあ殺そう。腕が鳴るなあ。久々の大虐殺だぜ』

 とても軽い調子で、殺そうと氷雨は言った。

「待って。屋敷の使用人たちには手を出さないで。優しくしてもらったこと、あるもの」

『月は優しいなあ!』

 自分の腕が氷雨の意志で動いて、ぎゅっと肩を抱く。筋肉がギシギシ悲鳴を上げている。

 これは、抱きしめているってことか?

『早く目的を果たして冥府で盛大に祝言を上げようね!!最期は優しく殺すから大丈夫!苦しまずに逝ける毒があるんだ。たぶんこの屋敷にもあるだろうから探そうね』

 祝言を上げると自害するを同じ意味で口にするこの男は、やはり悪霊としての素質が十分なのではないかと月子は今更ながら思った。


 

 青い稲妻が大きく広がり、玻璃ガラスの砕ける音がした。

 月子は指先にじんと痺れを感じた。それから、なんだか体が動かしづらい。

『これで邪魔な障壁は全部壊れた。そんなに大したもんじゃないな、百年後の人間どもめ』

 氷雨が廊下を歩いていく。月子はそれに任せていた。

 月子には知らない部屋も多い。

 なにより、月子がいたのは離れの小さな屋敷だった。だから母屋の構造は忍び込んで探った部分しかわからない。当主の部屋はきっと、術によって隠されている。氷雨は出会った使用人を片端から眠らせていった。弱い雷を体に当てると人は昏倒するのだという。

「こうやって続けていたら、そのうち騒ぎになって出てくるでしょ」

 月子の声で、氷雨が言った。

「えっ?」

 今度は二人同時だ。

「まずいな。俺が憑いてる時間が長すぎて月が消えかけてるのかも」

 そういえば、さっきから意識が途絶える。

「それじゃ困る!あたしは何としてでも東雲をぶっ壊さなきゃ困るの!」

 叫んだらなんだか少し意識がはっきりした。だがすぐに意識に霞がかかり始める。

『俺だって困る。月子と祝言を上げないといけないから』

「いったんその辺の人に憑くとかできないの?」

『やだよ。俺だって不細工な奴の体に入りたくない』

「なんで子供みたいなこと言うの!」

『子供じゃないから気にしてるんだよ!』

 口論になりかけて、月子ははっと気が付いた。

「最初からこうしたら良かったんだ!東雲の当主!聞こえているんでしょう!くそ野郎!出てきやがれ!」

 月子は腹の底に力を入れて叫んだ。

 見ているはずだ。防壁が破壊されたのも気が付いているはずだ。わかっていて躍らせているのだ。こうやって煽れば、最初に出てくるのは、あいつだ。

 月子は次々に罵倒を叫んだが、すぐに頭になにも浮かばなくなった。

「罵倒の語彙が少ない!氷雨は知ってる?」

『馬鹿、ぼけ、唐変木、張りぼて野郎、好色爺!』

 すらすらと出てくる。

「あなた、本当に王族なの?」

『王族でも育ちが悪いのはいるよ』


 目の前の空間が歪んだのは、無能野郎と氷雨が叫んだ時だった。

 その名前の通り、翡翠の羽根を思わせる翠の目をした青年が、空間を裂くように現れた。銀色の髪が腰まで伸びている。薄紫色の丈の長い衣装は、身分が高いものの証だ。相変わらずこいつも顔がいい。切れ長の目は涼やかで、凛とした気品がある。女好きで手が早く、その上女を手ひどく扱う屑にはもったいない美貌だった。

『お前が翠か。殺していいんだよね?』

 月子は頷いた。

「どうやって戻ってきた?」

 翠は月子を見下ろして言った。抱かれたのはあの日だけだったが、それでも月子はこの男に恐怖を植え付けられた。何よりもそれが悔しかった。

「これだけ叫べば父親大好きなあんたが出てくると思ったわ。あんたのお遊びみたいな術なんてとっくに解けたわよ。大好きな御父上にもう一度教えをうけたらどう?」

『花街通ってる暇があったら鍛錬しろザコ。白粉くせえんだよ』

 氷雨が最後を続けた。打ち解けるたびにどんどん口が悪くなっている気がする。

 翠の足元の影から黒い蛇が這いだした。

 翠の使い魔だ。のたうつ蛇は瞬きの間に数を増し、月子に絡みつこうとする。

 月子はそれを跳んでかわす。体の主導権は今、氷雨にあった。

 蛇はそれを追い、中空に一つになる。

 シャーっと蛇の威嚇音がする。蛇はいまや丸太ほども太さのある大蛇と化していた。

「死にぞこないが!」

 翠が短く叫んだ。

『俺は死んでるけどね』

 氷雨は懐から小刀を出した。月子は今や自分の姿を薄い絹を透かして見ているかのようだった。体との接続が途切れかけている。

 使用人の懐から拝借した、おそらく守り刀だろう小さな刀を氷雨は手の中で回す。

 鞘から抜き放つ。鞘が床に落ちて、高く透き通った音を立てるまでの間に、それは起こった。

 刀身に纏わりついたのは新緑色の稲妻だった。

 手の中に納まるほどの大きさしかなかった小刀が、形を変えた。太刀だ。

 翠が息をのみ、結果的にそれが命取りとなった。

 月子の身の丈ほどある刃が旋回し、大蛇の首を落とした、その首を蹴って、月子の体を纏った氷雨がふわりと跳んだ。翠に肉薄し、袈裟懸けに切り下ろすまでほんの一瞬。月子は自分の顔に吹きかかる鮮血で意識が覚醒した。自分の体の重さが戻ってくる。手の中には、小刀があった。何の変哲もない、小さな守り刀だ。

 驚いた顔のまま翠がゆっくりと倒れかかり、急に動きを止めた。

「まあ、この顔なら悪くない」

 翠の薄い唇から氷雨の声がした。

 月子は駆け寄って、翠の体を確かめた。氷雨が斬った傷口からの血は止まっている。

「大丈夫。この肉体は死んでるけど、俺が入ってる間は腐らない。月の記憶にあった屍人形みたいだね。こいつにはふさわしいと思うよ」

 衣の袖で月子の顔についた返り血を拭きながら氷雨が言う。

「あと一人だね。場所はこいつの記憶にあるからすぐ行こう」

「その前に離れに寄って。あたしの部屋で取ってきたいものがあるの」


 月子は離れの自室に戻ると、顔を洗い、赤地に白い牡丹の刺繍された衣に着替えた。

 それから、咒を書いた札を糸状に裂いて編み込んだ組み紐を手にする。

 鏡台の鏡の罅の中に隠しておいたものだ。これが月子の武器だった。

「月は何もしなくても全部俺がやるのに」

 氷雨が拗ねたように言う。

「お母さまの相手はあたしがやらなきゃならないの」

 声が震えていた。

 肩に手が置かれた。あの憎い男の顔なのに、氷雨の手だとわかる。冷たいのに。自分を案じてるのがわかった。

「氷雨。どうしてあたしだったの?」

「なに?」

「どうして、あたしを伴侶にしたいの?」

 月子はまた訊いた。

「だから、ひとめぼれだよ」

「違うわ」

 月子の体に憑いた氷雨が月子の過去を見たように、月子もまた、氷雨の過去を垣間見ていた。


 どこまでも広がるような金色の草の穂が広がる草原で、月子は氷雨と肩を並べていた。それだけだったが、確かに見たのだ。


「生まれ変わりってものかしら?」

「祝言の時に話すよ」

 いつもよりも低い声だった。常に笑みの形を崩さなかった目元と口元から笑みは消えていた。


 当主の部屋の奥に、東雲家当主は座っていた。当主は名を持たない。当主になったものが東雲を名乗るのだ。

 幾重にも張られた咒を、氷雨はたやすく突破し、ここにたどり着いた。

 息子と同じ銀色の髪、本紫色の衣装には、藤の花の縫い取りがある。首に赤い刺青がある。間違いない。

「墨染はすべて殺しておくべきだったな」

 細工が凝らされた椅子から立ちあがりながら、東雲は呟いた。

「翠ではないな。やけに邪悪なものが入っておる」

「なあ、もう殺していい?」

 顔に笑みが戻った氷雨が月子に耳打ちした。月子は首を振る。

「お母さまはどこ?」

「見えないのか?」

 東雲のせせら笑いがした。同時に氷雨に月子は突き飛ばされた。

 耳元で風が鳴り、固いものが打ち鳴らされる音がした。

 床に転がった月子は、間仕切りの影から飛び出したものを見た。

 母だ。墨染の者が好んだ黒い衣装を身にまとった母が、四つん這いになって唸りを上げていた。月子と同じ、石榴色の目だ。

 東雲は、段平の剣を氷雨の太刀と交えていた。刀身にきざまれた咒が光る。

「月、こいつ結構強い」

 へらへらと氷雨が笑う。楽しそうだった。


 月子は目の前の母を見た。最後に見た時は、まだ人の形だった。

 今は違う。片方の耳はちぎれ、左目はつぶれたのか眼帯に隠されている。

「お母さま。月子が来ました。もう終わりにしましょう」

 月子は咒の紐を振った。紐はすぐさま隼の形をとって、母親のところへ向かう。

 これは、母が書き残した呪法だった。自分の運命を悟った母が、それを書付け離れの鏡台の罅の中に隠してあったのだ。月子はこっそりとそれを読んで育った。

 母は抗ったのだ。だから、自分も、抗わねばならない。

 隼は母の手で簡単に叩き落される。だが、その刹那に紐はほどけ、広がった。

「絡め!縛せ!」

 月子の声で、咒は完成する。

 紐は伸び、屍人形となった母へと絡みつく。

 獣そのものの唸りをあげる母に、月子は近づいた。

 もう一本の紐へと息を吹きかける。この呪法は初めて使う。屋敷の中で使えば、きっと東雲に勘づかれていた。だから、母を楽にしてやるときに使おうと決めていた。月子の手の中で、紐が刀身の細い刀へと変わる。

 月子はそれを構えて、母親の首に振り下ろした。


「そんな力じゃ無理だよ」

 刀の柄を氷雨の手が掴んでいた。

「月のお母上様ですね。俺は氷雨といいます。必ず幸せにします」

 氷雨の顔から、また笑みが消えていた。月子は眼を見開いた。氷雨の顔だ。髪の色も目の色も翠のままなのに、氷雨に見える。

 母はもう唸り声を上げなかった。

 石榴色の目は静かに二人を見ていた。

「月」

 氷雨が呼びかける。月子はそれに頷いた。

 すっと体の中に氷雨が入ってきたのが分かった。

 刃が閃き、肉を断つ感触が、月子の手に伝わった。

 目をそらさなかった。涙で視界が滲んだけれど、月子は母の首が床に転がって灰になるまで、目を離さなかった。


 床に伏した東雲の死体にも一度剣を突き立て、月子はその場に腰を落とした。

 終わった。全部。全部終わった。

「それじゃあ、氷雨……」

 早いほうがいい。長くこちらにいると未練ができそうだ。

「何か来る」

 氷雨は月子の肩を抱いて引き寄せた。

 空間が歪み、出てきたのは黒布で顔を隠した男だった。

「なに?」

 男は手にした手紙を月子に握らせた。

「東雲家のご当主」

「あたし?」

「東雲家では当主を殺したものが次の当主となるのです」

 月子は氷雨を見た。それなら、殺したのはあたしではない。

「あれじゃない?最後に月子がドスッてやったじゃん」

「それでございます」

 それでございますじゃないんだが。月子は困惑したまま手紙を解いた。

「ふーん、帝の勅令だ。王宮の物の怪退治だって」

 月子が困惑しているうちに、氷雨が内容を勝手に読んでいた。

「ちなみに明日にはいらしてほしいのですが」

「急すぎる」

「勅令ですので」黒衣がまた無感情に言った。

「面白そうだよ。行こうか」

「ええ?」

「一足早い蜜月だと思って、行こうよ。この体も悪くないし」

「あなたが言うなら……」


 月子は血で染まった部屋を眺めて、ため息をついた。

 この命、まだ終わりそうにない。

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悪霊令嬢暗躍す いぬきつねこ @tunekoinuki

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