悪霊令嬢暗躍す
いぬきつねこ
悪霊令嬢 前
自分は今から、
術者に操られ、その意のままに動く人形になるのだ。
細長い石棺のようなものに入れられている。両手両足に括り付けられた赤い組紐には呪が編み込まれ、それは絶えず
昨晩、寝入ったところで隙をつかれた。薬も盛られたのかもしれない。
皮膚を細かな針で絶え間無く突かれるような鋭い痛みが断続的に襲う。
酸欠で途絶える思考が、痛みで引き戻される。
それも何百回と繰り返し、月子は「チクショウ」とうまく動かない舌で口にした。
怨嗟の言葉を頭に描くたびに、意識が痛みから離れて少し楽になる。
クソ、クソ!
クソ野郎ども、全員呪い殺してやる。
そうして、その思考が既にあいつらの
月子が恨めば恨むほど、彼女が死んだ後に強大な
月子は呪術を扱う
この都を覆うのは
有力者は術師を使い、身を守り、仇敵を討ち、また命を狙われる。
そんな闘争に月子の一族は呆気なく敗北し、男たちは皆殺しにされた。
一族が呪術の応戦で敗北したのち、月子は母と共にあの忌々しい
屍人形の作り方は簡単だ。女でも男でもいいから、箱に入れて術をかけ、土中に埋める。埋める場所は人通りの多い大路がいい。土の上の賑やかな生の鼓動を感じるたびに、土中の死にかけは生を求め、叶わないことに気がついて深く絶望し、また全てを恨む。土の中のものの魂が潰えたら屍人形の出来上がりだ。強い恨みで誰かれかまわず襲いかかる恨みの塊。それを制御をする首輪をつけて、術者が使役する。恨みの念が朽ち果てるまで体は朽ちることはなく、獣を凌駕する力と呪力で全てを屠る。その反面、術をかけた者には従順だ。それが屍人形である。
月子の霞かがった脳裏に母の姿が浮かぶ。赤い
東雲の当主は、月子に屍人形となった母を見せつけた。すっかり大人しくなって、自我などなくなって久しい母は、男の膝にもたれて虚に微笑んでいた。当主は月子に母が人を殺めるところも見せた。肉を裂き、血と臓物に塗れて踊るように母は術者を殺した。そのたびに言われた。
「お前はもっと良い人形になる」と。
殺す。殺してやる。
意識が溶かそうになるのを怒りで押し留め、月子は唇を噛んだ。固まった血が、紅のように唇を染めている。
もう視力はまともに働いていない。
地面を通して大路の振動だけが伝わってくる。
クソ、クソ。全員死ね。
ありきたりな怨嗟だと妙に冷静な声が身の内からする。お前は生まれに反して口が悪いなとせせら笑う憎い男の声の幻聴もする。ついに最期がきたのかもしれない。
怒りと恨みに染まった思考の片隅で、音もなくその感情が湧き上がる。
死ぬ前に、恋をしたかったかもしれない。
頰に冷たいものを感じて月子は目を開けた。
涙ではない。もっと冷たい何かだ。
自分を至近距離から見つめる、2つの緑色の瞳が見えた。鼻先が触れそうなほど近くに、
女のように柔和な顔かといえば、顎や鼻のあたりはたしかに精悍な線をなしている。かと思えば、、僅かに癖がある漆黒の髪が、白い頬に垂れているのは妙な色気がある。
端的にいえば、月子の好みど真ん中を真っ直ぐに射抜く美しい顔であった。
そんな男が、愛おしげに月子の頬を撫でようとしている。
これは夢だわ。
はらはらと赤い花弁が舞っている。何かを祝うように、艶のある赤い花は月子の体にもうっすらとつもっていた。
(最期の最期で、あたし、なんて幸せな夢を見ているのだろう。こんなでは、あいつらを殺さない……)
月子は薄く目を開けたまま、目の前の美しい男に見惚れていた。
「生きてる?」
男の唇が動いた。その声で、月子は大きく目を開けた。
勢い良く身を起こそうとして、月子は気がついた。そして、ぎゃっと踏まれた猫みたいな悲鳴をあげた。全裸である。箱に詰められた時、着物は着ていたはずだ。これが夢だとしても、全裸はあんまりである。こんなにいい男の前にいるのに。
慌てて両腕で胸を隠そうとした時だった。
自分の乳房の真ん中あたりから、半透明の紐がだらりと伸びている。それは今も天からはらはらと舞い降りてくる赤い花に紛れて、空へと続いていた。
「え……?何?なにこれ?」
「玉の緒だよ」
男はむんずとその紐を掴むと遠慮なく引いた。
男の指が紐に触れた瞬間に、体の中心で何かが爆ぜた。冷気が体の中を跳ね回るようだった。
ぎゃあっと月子はまた踏み躙られた猫のような悲鳴をあげる。
「何するの!」
裸なのは忘れていた。目の前の男がとても好みなのも忘れていた。それは人質という過酷な環境で育ってきたが故の反射的な行動でもあった。
拳に親指は握り込まないこと、そして予備動作はできるだけ隙なく、相手の目を狙って一発目、仰け反ったところにすかさず二発目の拳を叩き込む。
およそ令嬢という言葉に相応しくない見事な連撃だった。
拳に人を殴る感触があった。あったが、同時に拳を貫いた氷のような冷たさに、月子は身震いした。
「ふーん。半分死んでるって感じか。強いとこもいいね」
緑の目の青年は、鼻から流れた血を拭う。そして、その血がついたままの手のひらで、月子の両手を握った。冷たい。死人の手だ。月子は呆然と目の前の美しい青年を見つめた。
「俺は
血だらけの顔でニコニコ笑いながら、こちらの手をけして離さない。
ササラという最近では聞き慣れない響きと、氷雨というこの男の体の冷たさに驚くほど合った二つの名前。聞き覚えがある。月子の頭の中で、目まぐるしく思考が展開された。
「
「なんだ知ってるの。じゃあ話が早い」
子犬のように愛らしく笑っていた青年の顔に、陰がさす。笑顔のままだが、その笑みを翳りが覆った。
氷雨の皇子の話を知らない呪術師はいない。
この地を総べる皇のはるか昔の親族だ。第四皇子である。彼の兄の即位と同時に兵を挙げた叔父との間の内乱で、兄を裏切りその首を獲ろうとした者として歴史書に残されている。
だが、有名なのはその後だ。
「うん。できるよ」
月子の内心を見透かしたように、讃良親王、氷雨はまた笑みの形を変えた。片頬だけを持ち上げた、皮肉げな笑みと共に、フッと小さく息を吐いた。
氷雨が片手を持ち上げる。
轟音が辺りを震わせた。
空気も震え、空から落ちる花びらが軌道を変えて乱れ舞う。
稲光が花びらの向こうで蛇のようにうねる。
「あの時もこうやって都を焼け野原にしたっけなあ。まだムカついてたから
氷雨は肩をすくめてみせた。
裾の広い新緑色の衣が、シャラシャラと鳴る。
今では見られない意匠の衣だ。
大悪霊、氷雨の皇子だ。間違いない。
謀反の罪で首を切られ、この国で最も高い身分に連なる者であるにもかかわらず、遺体は荒野に捨てられ獣の餌にされたという。
そして、死した後に悪霊となって都を焼いた。
炎は十日の間朝となく夜となく燃え盛り、大勢が死んだという。都の人口が半分になったという話も大げさではあるまい。
月子は唾を飲み込もうとした。口の中が乾いていて、喉が鳴っただけだった。
雷は都の要所に次々と落ちた。黒雲の中で、真っ赤な口を開けて笑う皇子の絵が、絵巻物に残っている。目の前の美丈夫とは似ても似つかない姿だったが。
「なんで……何であなたがここにいるの?」
「だってここ、冥府だもん」
子供じみた口調で氷雨がまた腕を振った。
稲光が辺りを照らし出す。
黒い宮殿が聳えていた。
ぐるりと巡らされた城門の中に月子はいた。
黒い王城は冥府、すなわちあの世の証である。
「冥府……あたし、やっぱり死んだの?」
「死んでないよ。これがまだ繋がってる」
氷雨は月子の胸の紐のようなものを指差した。玉の緒と言っていただろうか。
「君は死にかけてるんだよ。それで魂だけ先に冥府に来てしまったんだろうね。まあ、それはどうでもいいんだけど、早く死んでくれないかな」
「えっ」
「死んだらすぐに祝言を上げよう!」
氷雨は再び、その名前の通り氷のような手で月子の両手を包んだ。
美しい緑の炎のような目で見つめられる。
「ええ……?」
氷雨は片手で月子の髪を漉いた。
「綺麗な黒い髪!柘榴のような目!胸の大きさから腰の細さまで全部俺の好み!それとも今は祝言って言わないのかな?そうだな、結婚しよう!そのためにも君の名前を教えてくれ!」
手に力が籠る。
「
こんな時にも、こんなにも頭が混乱しているのに、呪術師としての思考が本名を告げるのを押し留めた。月子の名を、遠い外国の言葉に直した響きだ。屍人形にされる前の母が教えてくれたその響きが月子は好きだった。
殺された、母、顔を見たこともない父と兄。
東雲家でのあの惨めで砂を噛むような日々。それが月子の体に火を灯した。
「本当に、私と結婚してくれるの?」
「もちろん!」
氷雨はパッと両手を広げた。
「冥府では、あなたの生前の地位は有効なの?」
「昔のこと聞かれるのは嫌だなあ俺。もう俺は皇の家系じゃないよ。冥府で養子になったんだ。今は冥府の門番の子だよ」
そう、と月子は頷いた。それならば、大丈夫。
「あたしと結婚したいなら、条件がある。あたしの家もね、それなりに名家なの。あたしを娶るのなら、あなたの力の証を示して」
月子は今度は自分から、氷雨の顔を見据えた。
今はもうない月子の家は墨染といった。元は東雲よりも家柄は上だったという。だから、何も間違えたことは言っていない。それに、と月子は内心で拳を固める。
使えるものは利用してやる。
「その目、すごい良いね。感情が昂るととてもいい色になる」
氷雨の手が、頰に触れた。
月子は氷雨の手の甲に自分の手を重ねる。
「あたしと一緒に現世に来て。殺してほしい人がいる。それができたら、考えてもいいわ」
恋人同士のような仕草なのに、刃を首にあてがわれるような心地がした。死人の手が冷たいからだけではない。緑の目に見透かされるかもしれないから。
どうせ死ぬ身だ。月子は首筋の刃を自ら肉に埋めるべく、空いた手で氷雨の顔をそっと引き寄せた。
唇が触れる、その直前で月子は囁く。
「あたしの体を使って、東雲の当主を殺して」
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