辺境伯爵令嬢は限界を感じて旅に出る

くまた

第1話 

ああ、もう限界だ。

 エリール・フェル・ディウェルは、自分がぐっと奥歯をかみしめていたことに気づいた。

「まあ、ディウェル様は、これがなにかご存じないの?」

「あらあら、そんなことありまして?」

「だって、ねえ」

 すっと冷めていく気持ちを感じながら、無意識に入っていた体の力を抜く。

 静かに呼吸を整えたエリールの前でニヤニヤと笑っているのは、この4年、一緒に学んできたクラスメイトたちである。

「ディウェル様は遠いところからいらしたのですもの。紋章を見たことがないのかも」 

「あら、こちらで学んだはずですわよ」

「そうよ、貴族に紋章があることを知らないなんて、ありえないわ」

 言葉づかいはていねいだが、エリールを馬鹿にしているのはあきらかだ。

「まして、シュタイノフ家の紋章を見忘れるなんてこと、ございませんわよね」

 忘れることなど、ありえない。

 これみよがしに示された白い封筒に刻印された紋章を見つめてエリールは切なく思う。

 だってそれは、エリールの婚約者の紋章だから。

「紋章はおわかりになっても、花開きのお手紙はご存じないのかもねえ」

「あら、花開きのお手紙は毎年いただくものですけど」

 花開きの手紙とは、毎年4月のはじめの木々の花が咲き出す頃に家族や好きな人に送る手紙のことだ。

 送り主が選んだ春に咲く花が描かれたカードに一言を添えて贈り合う。

「ディウェル様のところには1通もきてないようですわねえ」

 きてます、と言いたかったが黙っていた。

 家族からきた手紙では、クラスメイトたちの嫌みを封じることはできない。

「アデリナ様のところには、いち早く届きましたわね」

 アデリナ・フェル・キューウェイは、ニッコリと微笑んだ。

「ええ、まあ」

「エドワルド様からでしょう、そのお手紙」

 アデリナの手にあるのは、エリールの婚約者であるエドワルド・フェル・シュタイノフからの手紙ということらしい。

 なぜ、婚約者の自分ではなく、アデリナに手紙がきているのか。

 エリールは思い出す。

 今まで一度も、婚約者から手紙をもらったことがないことを。

 そしておそらく、アデリナはそれを知っている。

 知っていて、自分のところにきた手紙をエリールに見せにきたのだ。

「失礼いたします」

 何も言わずに立ち去るわけにはいかない。

 黙って行くのはマナーに反する。

 強がりだと思われてもいい。

 エリールはできる限りのていねいさを持って、アデリナとその取り巻きのクラスメイトたちにおじぎをした。

 決して、涙を見せてはならない。

 こみあげてくる何かを飲み込んで、エリールは歩き去った。


「家に帰ることにするわ」

 寮の部屋に戻るとすぐに、エリールはルームメイトのカレン・フェル・バルミングに告げた。

「家に?」

 カレンが壁にかけたカレンダーを見上げる。

「あと2ヵ月で卒業なのに?」

 今は4月、あと2か月後の6月には学校は卒業である。

「勉強はもう終わったって。先生たちに確認したわ。今、家に戻ってもちゃんと卒業資格はいただけるそうよ」

 卒業を前に早めに学校から去る人も毎年何人かいる。

「でもそれって、結婚する人だけじゃないんだっけ?」

「…そういう人が多いみたいね」

 残念ながら、エリールが卒業前に学校を去る理由は結婚するためではない。

「結婚するの?」

 ずばりと聞いてくるカレンに、エリールは苦笑した。

 カレンはいつも、まっすぐだ。

「いいえ」

「アデリナたちがまた何かしてきたの?」

「…手紙がね、きてたの」

「手紙?」

「そう、エドワルド様からの花開きのお手紙」

「エリールには 送らずに、アデリナには送ってきたの?」

 容赦のないカレンの確認に、エリールは黙ってうなづく。

「でね、気づいちゃったの。私、エドワルド様から一度もお手紙をいただいたことがないのよ」

 エリールは毎年、花開きの手紙をエドワルドに送っている。

 花開きの手紙だけではない。

 季節ごとに挨拶の手紙を送っているし、ときにはお菓子や花なども送っている。

 なのに、エドワルドからは一度も返事もお返しももらったことがない。

「それに気づいた瞬間、ああ、もう限界だなって思ってしまって」

 見て見ぬふりをしてきた自分の前に、突きつけられた他の人への手紙。

「今まで、アデリナたちの嫌がらせに耐えてきたでしょ?今さら、限界を感じたの?」

「うん…」

 思い返せば、ずっと耐えてきた。

 花嫁修業と思ってやってきた都の学校では、なぜか誰も親しくしてはくれなかった。

 エリールが話しかけても笑いかけても、誰もが無視して去っていく。

 孤独な学校生活の中で知ったのは、自分がエドワルド・フェル・シュタイノフの婚約者であるということを気にくわない人がいるということだった。

「アデリナの嫌がらせなんて、今日が初めてじゃないでしょうに」

 アデリナ・フェル・キーウェイは、代々、王のそばに仕えてきた侯爵家の娘だ。

 同じく代々続く侯爵家であるシュタイノフ家とは家族ぐるみの付き合いがある。

 都で生まれ育ったアデリナやエドワルドと、豊かな実りがあるとはいえ遠く離れた辺境の地の伯爵家のエリールは違う、というのがアデリナやその取り巻きたちの考えらしい。

 そして、アデリナが決定的にエリールを嫌う理由は、アデリナがエドワルドを好きだということだ。

 本当ならば自分が婚約者になっていたはず、というのがアデリナの秘めた主張なのだ。

「そうね…」

 しかし、こればっかりはどうにもならない。

 親同士が決めた婚約である。

 アデリナがわがままを言おうと、エリールがイヤだと言おうと、これは変えようがない。

「もう、疲れちゃったの…」

 毎日、先ほどのようにエドワルドとの仲を見せつけられ嫌みを言われるか、徹底的に無視されるかの生活が続く。

 そんな中でも結婚したら妻としてふさわしくふるまえるようにと勉強だけは頑張ってきた。

 辺境の地から来たと馬鹿にされるのもくやしかったから、常に成績上位に入れるよう努力してきた。

 先生のなかにはアデリナと同じようにエリールを見下すような人もいたが、それも良い成績をとることで見返してきた。

 アデリナやその取り巻きのクラスメイトたちの嫌みも流してきた。

 だが、今日は無理だ。

 あの花開きの手紙。

 エリールは4月に入ると同時にエドワルドに届くよう、そうそうに花開きの手紙を送った。

 だが、エドワルドからの手紙は来ない。

 今まで返事が来なくても、仕事が忙しいのだろうと思ってきた。

 アデリナのところに手紙がきても、幼いころからの家族ぐるみの付き合いだからと思ってきた。

 でも、もう、そう思い込むのにも疲れてしまった。

「そっか…」

 カレンがゆっくりとエリールを抱きしめる。

 ずっと独りぼっちだったエリールと唯一話してくれるのがカレンだった。

 商売で成功し爵位を授かった家の生まれのカレンもまた、生粋の貴族のクラスメイトたちから嫌みを言われていた。

 寮でエリールと同室になることを誰もが嫌がった時、カレンが一緒になってくれてほんとうに嬉しかったのだ。

「私、お父さまに婚約破棄をお願いしようと思ってる」

 一度も手紙をくれないような婚約者だ。

 エリールを好きな気持ちはもちろんのこと、興味すらないのだろう。

「それもいいかもね。あんたのことを思ってないのは明らかだし」

 カレンにずばりと言われて、エリールはやっぱりな、と肩を落とした。

 はたから見てもそうなのだ。

 あきらめたって仕方ないじゃないか。

「お父さまが許してくださるかはわからないけどね」

 貴族の結婚はいろいろと難しい。

 お互いの利害関係がからみあい、好きとか嫌いとかのレベルで決められないことも多い。

 エリールとエドワルドの婚約だって、おそらく家同士の利益にからんだものだ。

 そうだとすればエリールが婚約を破棄したいと言っても無理だろう。

 だが婚約破棄ができなくても、そう言うことで、もしかしたらエドワルドがエリールを思ってくれるかもしれない。

「ねえ、どうせ家に戻るって言うならさ」

 カレンが良いことを思いついた、というようにエリールの顔をのぞき込む。

「会いに行ったら?」

「え?」

「あんたの婚約者に会いに行こうよ」

「ええ⁉」

 なんてことを言い出すのだ。

「いまはバーレにいるんでしょ?」

 エドワルドは今、バーレという北の国境付近の街に騎士団の一員として派遣されている。

「バーレってエリールの領地と近いじゃない」

 確かに、エリールの家の領地は北の山あいであり、国境地帯を含んでいる。

 バーレは領地ではないが、方向的には近い。

「会って直接、文句を言ったらいいんだよ。なんで手紙をくれないのって」

「そんなこと…」

「あんたの幼なじみにいじめられてますってことも、言っちゃいなよ。なんとかしてくれないから、婚約破棄しますって本人に言えば?」

「言えないでしょう、そんなこと!」

「なんで?」

「なんでって…」

 言いよどむエリールに、カレンは再びずばりと切り込む。

「エドワルド様に一度しか会ったことがないから?」

「それは…」

 エリールとエドワルドは一度しか会ったことがない。

 五年前の春に、エリールの実家を訪れたエドワルドと挨拶をかわした、それだけ。

 その一ヶ月後に、父から婚約したときかされたのだ。

「五年前に会ったってことは、エリールは十一歳か。まだ子どもだ」

 その時のエドワルドは十六歳だった。

 顔は良く見えなかったけれど、背が高くすらっとした人だなと思ったのを覚えている。

「子どもだと思ったままだから、手紙をくれないのかもよ」

「そうなのかな」

 子どもだったエリールにも、きちんと膝をおった大人の女性への挨拶をしてくれた。

 それが嬉しくて、礼儀正しい人が婚約者になってくれて良かったと思った。

「婚約破棄するにしても、婚約が続くにしても、会って損はないんじゃない?」

 カレンの言う通りかもしれない。

 会って話をしたら、何か変わるのかもしれない。

「私もついていくよ」

 さらっと言われて、エリールは目をまるくした。

「え⁉カレンも一緒に?」

「うん。エリールが大丈夫なら、私も卒業資格はもらえるだろうし」

 エリールより成績が良いカレンなのだから、卒業の心配はないだろう。

「…面白がってるわね?」

 じとっとにらむエリールにカレンはにっこりと笑ってみせる。

「うん」

「面白くなんかないわよ、私は」

「わかってるけど。でも、いままで一度しか会ったことがない婚約者と会う友達がどんな感じなのかってのは知りたい」

 はあ、っとエリールはため息をつく。

「友達ね」

「友達よ」

 カレンはそう言うと、ぐっと表情を引き締めた。

「会って話をしてみたくはないの?」

「…話してみたい」

 自分に関心がないのはいい。

 家同士の結婚なのだから、好きになれないというのもわかる。

 でも、他の女の子には手紙を送り、婚約者に送らないというのはなぜなのか。

「知りたい。なんで、私には何もないのか」

 会いに行こう。

 今度は挨拶だけではない。

 しっかりと話をするのだ。

 そして、決めよう。

 婚約破棄するのかどうかを。

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辺境伯爵令嬢は限界を感じて旅に出る くまた @yurufuwakumata

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