静けさをくれる彼

Ab

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 毎週金曜日のお昼休み。

 他の生徒がご飯を食べ終わるまでの約三十分間だけ、私と彼は図書室で二人きり。

 本の整理を担当する図書委員は、担当している曜日限定で図書室でご飯を食べることができ、私と彼はそれが金曜日なのだ。


 会話もせずに黙々とご飯を食べる。

 それがいつものことだった。


 仕方がない。なにせ私は二年で彼は一年。入学してきてまだわずか一ヶ月の彼と、いったい何を喋れというのだろう。

 おまけに私は、自分から人に話しかけることができない。



「あの……先輩。一つ訊いてもいいですか?」



 不意にそう問われて私は箸を置いた。

 先を促すべく彼の方に体を向けて、首を傾げてみせる。



「先輩って、なんでいつもそんなに静かなんですか?」



 これはまた直球な質問だ。

 せっかく二人きりで仲良くなるチャンスなのに、どうして毎週喋らないのかと責められているのだろう。

 私が苦笑を浮かべると、彼は慌てて手を振った。



「ああっ、いや、言葉選び最悪でしたね俺。作家志望が聞いて呆れる……」



 作家志望。

 だからいつも彼は私の無口に文句を言わず、ただ黙ってニコニコと金曜日のお昼休みを過ごしてくれていたのかな。

 物書きが趣味なら、静けさは大好物だろうから。


 なんてぼんやり考え事をしていると、突然、パァン! と甲高い音が響いた。見れば、彼が自分の頬を叩いたようだった。



「ごめんなさい。今のは全部忘れてください。俺が聞きたかったのはその、先輩は静かなのが好きなのかなってことです。嫌味とかそういうのじゃなくて、純粋に疑問で。先輩いつも静かだから」



 嫌味に取れたからって、わざわざ自分を叩かなくても良いのに。

 私を傷つけていないかまだ不安そうな顔をする彼に笑みを返して、私は久しぶりに学校で口を開いた。



「静かなのが好きなわけじゃない。事情があって、母から極力声を出さないように言われてるの」

「事情? あっ」



 聞いていいのか分からないことを聞いてしまったと、そう思ったのだろうか。彼はまた自分を罰するべく両手を振り上げ、自分の頬へ。私は彼の頬を守るべく、腕を伸ばして手を差し込んだ。


 ペシッ。


 私の手の甲とでは、良い音は鳴らなかった。



「それやめて。見てて痛い」

「わあああっ! ごめんなさい、俺先輩の手になんてことを!」

「いい。私が自分でやったことだから」

「でも!」

「いい。それよりも、私の事情、君にだけ教えてあげる」



 自分なりの正義感に従って動いている彼は、下手に言いふらしたりしないだろう。それに、事情も知らず何も喋らない先輩と毎週一緒とか、改めて思えば可哀想なことをした。


 まだどこか慌てた様子の彼だったが、私が話し始めると耳を傾けてくれた。



「私の母は、将来私を歌姫にしたいんだって。だから喉のために、普段から喋ることを制限されてるの。テレビでもたまにいるでしょ? 普段の喋り方が独特な歌手。あれの真似事」

「……そう、だったんですね。でも確かに、俺今先輩の声初めて聞きましたけど、聞いたことないくらい良い声でびっくりしました」



 その『良い声』さえ無ければ私はもっと普通に学生やれたんだけどね。


 言うか迷ったが、また頬を叩かれると困るので言わないことにする。



「歌が好きなんですか?」



 彼の純粋な問いに私は首を振った。



「好きじゃない。母がそれしか許してくれないからやってるだけ。ヘッドフォンすら、もうつけたくないくらい」



 家に帰ると毎日つけさせられるヘッドフォン。

 大音量の音楽は、もう私の頭から離れない。

 けど、雑談で気を紛らわすことも許されない。


 だから金曜日のお昼休みの図書室は、私にはあまり好ましくない環境だった。静かすぎるこの場所は、聞きたくもない音楽が頭の中で鮮明に聞こえてくる空間だから。



「それはなんか……悲しいですね」



 呟いた彼に、私は再び首を傾げた。



「誰も幸せになれないなって思って。先輩も、先輩のお母さんも、音楽も。まあ、音楽が不幸な分には全然いいんですけど」

「いいの?」



 訊くかどうか一瞬迷ったものの、私が胸の内を明かしたのだからダメってことはないはずだ。案の定、彼は答えてくれた。



「俺の両親は結構有名なオーケストラに所属してるんですけど、その公演だったり練習だったりで普段全く家にいないんですよ。俺なんかより音楽の方がよっぽど大事みたいだから、いいんですけどね。少なくともあの二人は幸せですから。でもその分、俺は音楽のことが嫌いになりましたけど」


「……そっか。じゃあ私たち、音楽嫌い同士だったんだ」

「ですね。うわー! もっと早く話しかけてみればよかった。俺ずっと先輩のこと気になってたんですよ!」



 まるで他意があるかのような言葉だが、きっとそんなつもりはないのだろう。

 私はただ笑みを返して喉を節約する。



「あ、そういえば先輩。静かなのが好きなわけじゃないなら、俺の雑談に付き合ってもらえませんか? 家でずっと一人だからそういうの結構溜まってるんですよ。もちろん先輩は何にも返事しなくていいですし、リアクションもしなくていいです。どうですか?」



 私にはかなり魅力的な提案だった。

 静けさの中だと聞こえてしまう音楽が、適度な雑音の中だと聞こえなくなる。それはつまり、彼は私に静けさを提供したいと言っているわけで、断る理由なんてどこにもなかった。



 首を大きく縦に振り、私は彼に笑顔を向けた。



***



 次の週の金曜日から、彼は私に話しかけ続けてくれた。

 ある時はその日の夕飯の話。

 ある時は学校の勉強の話。

 ある時は自作小説の話。

 毎週必ず違う話をしてくれて、そのどれもが決まってとっても面白かった。話し方や言葉選びに彼の優しい性格が滲み出ているものばかりだった。

 初めの頃の私は頷いたり笑ったりして反応していただけだったが、一ヶ月、二ヶ月と続くと、段々声を出して返事をすることも増えていった。


 お母さんにバレたら叱られるのはわかっていたけど、幼稚園の頃から歌わされてきた私の喉が週に一回三十分程度の会話で枯れることはなかった。



 狙っているのかいないのか、彼が私に音楽の話をすることはなかった。



 しかし、おかげで私は金曜日の三十分間だけ静けさの中でご飯を食べることができた。

 疑いようもなく、彼の存在は私の中で大きなものに変わっていった。



 だけど、今日はきっとその限りじゃない。



 四時間目の授業が終わりやってきた図書室で、彼はいつも通り先に座って待っていた。私を目で捉えた瞬間に読んでいた本をカバンにしまい、代わりに弁当箱を取り出した。



「聞いてくださいよ先輩! 俺の化学部の友達が最近ずっと沈殿の雑学をところ構わず囁いてきて、俺もう硫化亜鉛が白とか銀と銅と亜鉛がアンモニアと錯イオン作るとか頭から離れなくなっちゃって! 俺来年から文系に進むのに!」



 いつも通り話しかけてくれる彼に、私は笑顔を返すことしかできなかった。



「先輩?」



 その笑顔に彼が疑問を感じるほどには、私が声で返事をすることは当たり前になっていた。私は彼の隣まで行き、スカートのポケットから紙を取り出して渡した。



『ごめん、今日はしゃべれない。喉が枯れてるから』



 と書かれた紙に彼が目を通したのを確認し、私は頭を下げた。



「枯れてるって……もしかして、歌の練習で?」



 顔を上げて頷く。



「……そうですか」



 彼は苦虫を噛み潰したような顔をし、それからしばらく何も言わなかった。ただ私が弁当箱を取り出して席に着くと同時に、彼は手を合わせてからご飯を食べ始めた。私は何も言えず、黙って後に続いた。



 大音量で響くピアノやベースの音がうるさくて、私は一人、空いている手で耳を塞いだ。




***



 私が喉を枯らしてから三日がたった。

 週末は声を出せない分いつもよりヘッドフォンで音楽を聴く時間が長かったため、私の頭の中では平衡感覚を失いそうになるほどの大音量で音楽が流れていた。学校に行くのも憂鬱だったが、少しでも喧騒が欲しくて重い足を動かした。


 朝、下駄箱に一枚の手紙が入っていた。


 見慣れた後輩の字で、昼休みに屋上に来て欲しい旨書かれている。


 用事があるなら金曜日に会えるのに、よっぽどすぐ伝えたいことでもあったのだろう。断る理由は特になく、むしろ私の頭の中から音楽を消してくれる彼の誘いを受けない選択肢なんてなかった。


 それから約四時間が過ぎた。

 午前中の授業はかなりキツく、多少の雑音程度では私の頭の中から音楽を消すことはできなかった。

 私は弁当箱をもって急いで廊下へ出ると、入学当時一度だけ登ったことがある屋上への階段を登り、ドアを開いた。

 柔らかく風が吹く。



「すみません。急に呼び出したりして」



 すぐ外に立っていた彼に言われて私は首を振った。



「大丈夫。どうしたの?」



 掠れた声で問う。その間に私は彼を連れて歩き、フェンスを背にして座らせた。もちろん私はその隣に座る。



「俺、この間先輩の声が枯れたって聞いてから、週末もずっと考えてたんです。どうしたら先輩に音楽を辞めさせられるか」

「……」



 また随分と急な話に、私は弁当箱から手を外した。

 どうしたら辞めれるかなんて私が一番考えた。



「でも無理でした。俺と先輩はただ同じ学校の同じ委員会に所属してる音楽嫌いっていうだけで、もっと目に見える強い関係性がないから、俺は先輩のお母さんにとってただの他人でしかない」

「……それは違う。君は私の友達だよ。私から音楽を忘れさせてくれる、大切な友達だよ」



 手に触れて言うが、彼は優しく笑みを見せるだけだった。


 本当は、自分でもわかってる。

 私と彼がいくらお互いを友達だと言おうと、お母さんも、きっと彼の両親も、友達イコール赤の他人。子供の声も聞こえない親に、他人の声が届くはずないのだ。


 僅かな沈黙に微風とピアノの音が混じる。



「友達だけど、あの人たちには関係ない。俺は自由にできたけど、先輩は音楽に縛られてる。嫌なんです。俺、先輩のこと好きだから。一ヶ月以上何もしてこなかったけど、喉を枯らした先輩の悲しそうな顔を見て、何かしなきゃって思ったんです」



 ピタッ、と音楽が止んだ。

 好きだっていうのがはっきり聞こえて、私は今にも泣き出しそうだった。



「でも、付き合ってくださいとは言えません。だって、音楽嫌いなのに創作好きな作家志望じゃあ、将来先輩を幸せにできないから」



 だから先輩も言わないで欲しい、と彼が言う。


 なんで?


 そう思いながらも、心の奥では分かってる。

 音楽を始めとした創作に魅せられた人は、どうしても創作を優先してしまう。さらに不安定な創作業においては生涯収入がゼロなんてこともあり得るのだ。

 私のためでも彼のためでもある。


 私の心なんて、彼にはきっと透け透けなのだ。

 ぎゅっと体を抱き寄せられる。

 私が泣くことも分かってて、自分がそれを見ないように。



「今すぐ付き合ってくださいとは言えません。でももし俺が、先輩が在学中に作家として売れることができたら、その時は必ず俺から言います。だから泣かないで。応援してください」



 ん?


 つまり、幸せにできないから告白しないのではなく、幸せにできる実力がつくまで待って欲しいと、そういうことだろうか。



「するよ。するに決まってる。でもまずはその最悪な構成力をどうにかしないとだよ。……付き合う気がないのかと思ったじゃん。涙返せバカ」



 荒い口調も今だけは許して欲しい。



「今すぐ付き合えないことに泣いてくれてたんじゃないんですか!?」

「あーあ、芽が出るか不安だな〜」

「必ず出しますよ。……で、ここからが本題なんですけど」



 本当に構成力が無い彼に笑ってしまう。しかし、胸の中から見上げた彼の顔は真剣だった。



「俺、音楽についての小説を書いてみようと思うんです」

「……音楽?」

「嫌いだけど、知識だけはあるので。先輩にも手伝って欲しいんです」

「私には無理だよ。嫌いだし、知識もない」



 呟いて目を逸らした私の頬に、彼の大きな手のひらがやってきた。


 暖かくて、ああ……これはダメだ。

 気持ち良くて、また泣いてしまう。



「嫌いだからこそ、先輩には一緒に考えて欲しいんです。俺も今まで嫌いでしかなかった音楽だけど、もし好きになれたら、今先輩とこうしてる時みたいに、音楽にもドキドキできるかもしれないじゃないですか」

「……私は」

「もしそれでも、先輩がどうしても音楽が嫌いだと思ったなら、その時は特別に俺を一日だけ彼氏にしてください。先輩のお母さんに、堂々と文句を言いに行くために」



 音楽を好きになる。

 最近はそんなこと考えたこともなかった。


 だけどもし彼が言うように今と同じくらいドキドキできるとしたら、きっとそれは素敵なことだ。それに、音楽を心から嫌ったことのある彼と一緒なら、音楽について語り合うのも悪くないかもしれない。


 私のための提案だって分かってる。

 だけど、このまま受けると私はいつか、好きが溢れて壊れてしまう。

 なので、条件を出す。



「週に一回、金曜日の三十分。その時だけ私を彼女として甘えさせてくれるなら、いいよ。手伝う」

「……それ、先に三十分じゃ我慢できなくなるの俺だと思うんですけど」

「伸ばす分には私は構わないよ」

「俺は構うんです! 先輩は将来、絶対幸せになるべき人なんですから」

「じゃあ、一緒に頑張って小説書かないとだね」

「……うあーもう、そうですね!」



 私の頬をぐりぐり回してくる彼に、私は「やめひぇやめひぇ」と声を出す。


 やっぱり、彼はいつだって私に静けさを届けてくれる。その恩返しと決意表明の意を込めて、私は彼の手をそっと退けて立ち上がった。



「一曲、聴いてくれる?」



 そう言うと、彼は笑って頷いた。


 微風だけが音を立てる静けさの中、私は初めて音楽に心を込めた。

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静けさをくれる彼 Ab @shadow-night

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