風船ガム
ひなた、
第1話
君は風船だった。
遊園地でピエロが持つそんな風船だった。
ちっちゃな子供が間違えてパンパンに膨らませたそんな水風船だった。
母親が膨らませた時間が経つとどこかにいってしまうそんな風船だった。
君は風船、掴んでおかないとどこかに飛んで行って消えてしまう。だから皆何処かに結びつけておいた。短い短い短い短い紐を結ぶのは皆がそうしたいからだし、それ以上に君が頼むからだ。
僕は君の椅子の横に少しだけ。不格好な蝶々結びで結んでおいた。
僕の隣の席のフランス人形ちゃんは結ぼうとさえしなかった。そう見せていたんだと思う。フランス人形ちゃんは結ばなかったけれどフランス人形ちゃんが紐に手を伸ばそうとしていたのは僕だけの秘密。君と僕のではない、僕だけの秘密だ。要らないくせに気がつくとたまっているお菓子の箱みたいな秘密。いつか、いつか意味のない意味が芽生えると、待っている。
首だけが長くなりすぎたキリン君は高いところから風船を見やるだけ。
君は水風船の時が多い。皆が君に水を入れようとする。君はこれでもかと大きく風船の口を広げる。誰も頼んでいないのにね。
僕も少しだけと言わず、沢山の水を入れてきた。それは塵も積もれば山となると言うようになってしまったものだから仕方のないことだ。
君は水でパンパンに膨らむと顔を歪ませる。でもその顔はみんなに悟られないようにほんの瞬きのする間だけだ。その顔を見せるとすぐトイレに駆け込む。それは君と僕だけの秘密。
君は苦しそうに水を捨てる。水を捨てる君を僕は見ている。トイレをするふりをしてチラチラと。
君はいつも苦しそうな顔をする。小さな子供が一人で転んで誰にも手を差し伸べて貰えない、迷子になったと気づいたような顔。そんな顔に僕は微々たる快感を覚える。頭の奥にツンとくる感覚。かびの匂い、すえた匂いを嗅ぐあの感覚だ。痛みを共感していると言うには聞こえが良すぎるし、快楽と言うには聞こえが悪すぎる。
その感覚はすぐに、波のように去っていってしまう。
僕はトイレから出る。
足早に、逃げるようにして自分の机に向かう。
出目金魚をよけ、鬣が切られたライオンの横を抜けて、その取り巻きのハイエナ達に心のなかで中指を立てて、肉球のない猫を横目にフランス人形と日本人形達の森を避けて、やっと自分の机に着く。
すぐに授業が始まるというのに、彼女は声をかけてくる。振り返るときふわっと香りがたつ。皆はいい匂いとか好きな香りと言うけれど、僕は嫌いな匂いだ。
「またあの授業。今週で4回目、まだ水曜日だよ。おかしいわ。」
鼻に残る匂い。柑橘系と彼女は言うけれど、これはそう嫌いな匂い。
「いいじゃん、ほとんどすることないんだし。変なポーズするだけだし。」
「いやそんな簡単に言ってるけどさ」
「簡単だし。」
髪の毛を掻きむしる彼女。少し前までの彼女の癖が残ってる。癖というか日常の断片。
まだスカート姿の彼女に慣れない。
生半可に伸びてる少し長い髪の毛も慣れない。
ほんの少し肌にのってるファンデーションも慣れない。
手首にある黒に統一されたゴムも慣れない。
セーラー服を慣れない。
極めつけは彼女が―。
「聞いてるの。目がどこかに行ってる。」
「前向け。もうすぐ始まるぞ。てか、ありえないよなこの授業。何を俺等に求めてるんだか。」
少し笑って彼女は前を向く。
先生が教室に入ってくる。
「廊下に番号順で並びなさい。」
穏やかに教師は言う。
ぞろぞろと廊下に並んでいく。多分あの部屋に行くのだと思う。新学期に入る前に工事していたあの場所だ。
先頭についていく。彼女は僕よりも番号順が早いから時折こちらを見ては少しだけ笑う。
皆、だるそうな顔を見せては談笑しては先生に注意される。
風船は、ヨーヨーを引きずるようにして歩いている。対して重くもないけど割れそうで慎重に歩いている。
風船は何を選んだのだろう。
着く。
一人ひとりにあてがわれた部屋の前に立つ。
立たされる。
ドアを開く。
閉める。
目の前にいつか自分で選んだ植木鉢が置いてある。
この部屋の天井の四つ角にはカメラがあり、僕らは見られている。気がする。本当に作動しているのか知らないけれどそこにあるという事実が僕たちを締め付けているようでならない。
植木鉢に植えられている植物はなんという種類かは知らない。観葉植物のような、インテリアのような木だ。
ここからはいつも通りに。
手をめいいっぱいに天井に向かって広げる。腕を捻ったり手首を捻ったり。指を一本、一本違う方向に向ける。試しに腰を曲げる。
体をかがめて、足をくねらし、体の可動域の限界まで使って、形を変えていく。
まさに木のように。別にこんなことをして植物になれるとは誰も期待していない。期待しているはずがない。目の前の植物と対峙して、観察して、また体の形を変えていく。葉の一枚一枚を真似して、幹の凹凸を真似して、一本一本の枝を真似して、うねる根を真似して。
床に無造作に置かれた鉢。
眼の前で鉢に植えられた植物を真似する人。
天井の四つ角にあるカメラ。
4畳ほどの空間。
意識が揺らぐような、ゾーンに入るような不思議でふわふわした感覚に陥る。
全部嫌いだ。でもかび臭い空調が好きだ。
一時間が経ったのだろう。目覚まし時計のような騒がしい音がして覚醒する。眠っていたはずはないけど目を覚ます。ドアを開け廊下に出る。
「疲れたわ。流石に。」
「嘘つけ。本当に疲れたんならそんな笑顔になれんわ。」
鬣の切られたライオンがハイエナと話している。すぐ後ろで。
「後ろ。うるさいぞ。静かに。」
「すいませーん。先生こそ、そんなに張り切って声出さなくても。」
おどけたように言うライオンはこの時だけ鬣をつける。まるでかつらを被るように。どっと笑いが起きる。先生も仕方なのないやつだとかぶつくさ言いながら、まんざらでもないように続けて注意する。
先頭が進む。ついていく。
教室に着く。
「出席番号順に取りに来い。」
先生が教卓の前に立ち、紙の束を持つ。
一人一人、例えば残念そうにする奴。ガッツポーズをする奴。配られた紙を見せ合う奴ら。そんな奴らを横目に自分の番を待つ。
「よくやったじゃないか。」
「ありがと、ございます。」
半分に折られた紙を広げると、さっきの部屋で撮られた写真が写っている。
そこに写る僕は、僕は、腕や、右足や、腹部が、植物のようにゴツゴツとした肌になっていて、腕に至っては葉が生い茂っている。
今までで初めてだ。
悲鳴をあげそうになるのを抑えて席に戻る。
彼女が振り向く。
「どうだった。私は上手にいかなかったみたい。」
「うん。」
紙を渡す。少し残念そうな彼女の顔は僕の渡した紙を見て、嬉しそうに変わる。
風船ガム ひなた、 @HirAg1_HInaTa
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