麦野さん2月のパン祭り
それは、俺がいつも通り診療所で仕事をしている時のことだった。
「せんせ、こんにちは~!」
「おっ、
そこまで言いかけて、俺は言葉を詰まらせた。彼女の髪に異変が起きていたからだ。
……なんということだろう。今までは明るい茶色だったはずのそれが、暗い茶色になっていたのだ。
「あ、あの……。麦野さん……それは……?」
「えへへ……実は、染めてみたんですよ! 似合ってます?」
麦野さんはくるりと回ってみせると、その場でターンをした。短いスカートがひらりと揺れる。
……いかんいかん。見惚れている場合ではない。それよりも問題は髪の色である。
麦野さんの髪はパン生地のはずだ。……何を言っているのかと自分ですら思うが、そうとしか表現できないのだから仕方がない。
ともかく、そんな彼女の髪は普通の染料では染まらないはずなのだ。なのに、どうしてこんな色になっているのだろうか。
「えっと……。どうやって髪を染めたんですか?」
「はい! これで染めたんです!」
麦野さんはそう言って、得意気にポケットから小さな袋を取り出して見せた。中には茶色い粉末が入っている。これは……。
「ココアパウダーです!」
…………な、なるほど。そういうことか……。つまり、麦野さんは髪の毛にココアパウダーを練り込むことで、髪の色を変えていたわけだ。言われてみれば、チョコレートのような香りがする気がしないでもない。
……この際、どうやって練り込んだのかは置いておこう。
「それでですね! この髪で、パンを作ろうと思って! ……あっ、でもお仕事中なら後にします!」
「いや……。ちょうど休憩しようと思っていたところですよ。良かったら、一緒に食べましょう」
「やったー! じゃあ、今から作りますね!」
麦野さんは飛び跳ねるように喜ぶと、診察室から出て行った。
俺は苦笑いを浮かべながらそれを見送った後、休憩室に向かった。
◆
「じゃじゃじゃじゃーんっ!!」
数分後。麦野さんはそう声を上げながら、バスケットを持って現れた。どうやらその中に、さっき言っていたパンが入っているようだ。
「せんせ、はい! どうぞ召し上がれ♪」
そう言って差し出されたのはチョココロネだった。生地もココアなので、ダブルチョココロネといったところだろうか? なかなか美味しそうだ。
俺は礼を言いつつそれを受け取ると、早速口に運んだ。ふわふわの食感に、ほんのりとした甘みが感じられる。うん、うまい。
「ど……どうでしょう?」
麦野さんは不安そうに尋ねてきた。そんな彼女に俺は笑顔を向ける。
「とても美味しいですよ。ありがとうございます」
「本当ですか? 良かったぁ……」
麦野さんはほっとした様子で胸を撫で下ろすと、自分も一つ手に取って、それを口に入れた。
「うん! 美味しい! ……これ、縦ロールがうまくいかなくて、作るのがちょっと大変だったんですよね……。でも、先生に喜んで貰えて嬉しいです!」
「そうなんですか……」
……なんとなく作り方は想像できていたが、やっぱりそうだったようだ。あれって、漫画とかでお嬢様キャラがやっている髪型だよな……?
俺は縦ロールの麦野さんを想像して、思わず吹き出しそうになるのを
そんな俺の様子に気付いたのか、麦野さんは不思議そうに首を傾げる。
「せんせ、どうかしましたか? なんだか笑ってますけど……」
「いや……。なんでもないです。それより、他にも入ってるみたいですが……」
俺は誤魔化すように話題を変えると、バスケットの中に目を向けた。そこにはたくさんのパンが入っており、甘い香りを
「あっ、そうでした! えっと……。こっちがチョコドーナツで、これがチョコクロワッサンで……」
麦野さんは楽しそうに説明しながら、次々とパンを取り出していく。そして机の上は、あっという間にパンでいっぱいになった。どれも美味しそうである。
「えへへ……ちょっと張り切りすぎちゃいましたかね?」
「大丈夫ですよ。二人で食べればすぐに無くなります」
「そうですよね! じゃあ、食べましょ!」
俺達は椅子に腰かけると、パンを食べ始めた。麦野さんは終始笑顔を浮かべており、俺も自然と笑みがこぼれた。
でも、どうしてまた髪の色を変えたりしたのだろうか? 俺はふと疑問に思い、麦野さんに尋ねた。
「麦野さん。そういえば、髪の色を変えたのはどうしてなんですか?」
「えっと……。それは……」
麦野さんは一瞬言葉に詰まったが、やがて照れくさそうに頬を赤らめながら言った。
「……今日は、バレンタインデーだから、です」
「……? ああ、そうか……。もうそんな時期でしたね」
俺は納得してうなずくと、再びパンを口に運び始める。麦野さんはなぜか
「先生……。まさか忘れてたんです?」
……ギクッ。そ、それは……。ま、まぁいいじゃないか。別に大したことじゃないんだし……。
俺は内心焦りながらも平静を装って言った。すると、麦野さんはジトっとした目をこちらに向けて来る。
「……せんせ。嘘ついたらダメですよ?」
「……すみません。すっかり忘れていました」
観念した俺は素直に白状した。すると、麦野さんはクスッと小さく笑った。
「ふふっ……。正直でよろしいです。……でも、先生には罰をあたえないといけませんね」
「ば、罰……ですか?」
俺は戸惑いつつも尋ねると、麦野さんは
「そうです! ……先生には、ツイストドーナツを作ってもらいます!」
「……え?」
予想外の答えに、俺は思わず間の抜けた声を上げた。
「私の髪を編んで、作ってください!」
……待て待て、俺に編めと? いや、無理だって! というか、そんな技術はない!
俺が慌てているうちに、麦野さんは俺の前に椅子を持ってきて座った。ココアの香りがふんわりと鼻腔をくすぐる。
「さあ、せんせ! はやくはやく!」
「えぇ……。いや、その……」
「……イヤですか?」
麦野さんは背を向けたまま、悲しそうな声で呟いた。……くぅ。そんな言い方はずるい。
俺はため息をつくと、覚悟を決めた。
「……わかりましたよ。やりますから、元気出して下さい」
俺はそう言うと、彼女の髪を手にとって、ゆっくりと編み込みを始めたのだが……。
……難しい。どうやるんだこれ……。
これまで一度もやったことがないせいで、勝手がわからない。
それに加えてこの距離。麦野さんの髪からは良い匂いがしてくるし、柔らかいし……。ああああっ! 拷問かっ!
こんな時に限って、麦野さんは一言も喋らないし……。
俺は無言のまま、なんとかそれを完成させた。我ながらひどい出来だと思う。
「麦野さん。できまし……」
俺は振り向いてもらおうと声をかけたが、途中で言葉を止めた。
麦野さんは耳まで真っ赤にしてうつむいていたのだ。両手をぎゅっと握りしめ、ふるふると震えている。
……しまった。怒っているのだろうか? 俺は恐る恐る彼女の顔を覗き込む。しかし、彼女は怒ってはいなかった。
「ひゃっ!? お、おお終わりましたか……?」
麦野さんはビクッと身体を震わせると、驚いた顔で振り返った。目が合うと、さらに赤くなって逸らす。
「え、ええ……。一応……」
「……そ、そうですか。……ありがとうございます」
麦野さんは消え入りそうな小さな声でそう言うと、
「あの……麦野さん?」
「……な、なんでしょう?」
「……恥ずかしいんですか?」
「ち、違いますっ! これは、その……緊張しているだけです! ほら、パン! パンを食べましょう! 冷めちゃいますからっ!」
麦野さんは慌てた様子で言うと、パンを手に取り、ぱくっと一口食べた。そのまま黙々と食べ続ける。
……なんだろう。可愛い。少しからかいたくなってきたぞ……。
よし……。ちょっとだけ意地悪をしてみようかな。
俺はパンを一つ取ると、麦野さんの目の前に差し出す。
「はい。麦野さん、あーん」
「……な、なにやってるんですか?」
麦野さんは動揺した様子で、チラリと俺の顔を見た。俺は笑顔を浮かべたまま、じっと見つめ返す。
「いや、こっちのも美味しいですよ? だから、はい」
「……ぁ、むっ」
麦野さんはしばらく迷っていたが、やがて決心したようにパンをくわえると、もぐもぐと食べ始めた。
「ふふ……美味しいですか?」
尋ねると、麦野さんは無言でこくりと首を縦に振った。
「うぅ~……先生のいじわるぅ……」
「すみません。可愛かったもので、つい……」
「かっ、かわっ……」
麦野さんは口をパクパクさせると、ぷいっと横を向いてしまった。そして、
「もぉっ! せんせのバカっ! 次やったら怒りますからねっ! 絶対ですよっ!……っていうか、私もお返しにやりたいです! はい、せんせっ! あーん!」
「えぇ……。俺はいいですよ……」
「ダメです! 私がしたいので、大人しくしてください!」
「わ、わかりました、わかりましたから……」
そんなこんなで結局、お互いにパンを食べさせあうという奇妙な状況になってしまった。
それでも、麦野さんが楽しそうだったので、まあいいかと思えた。
こんなバレンタインも悪くないかもしれない……なんて思いながら、俺は苦笑いを浮かべたのだった。
しばらく麦野さんの髪型がそのままだったり、ホワイトデーのお返しにキャラメルパウダーを贈ったりするのは、また別の話である──。
魔法植物研究医フタバと、パン生地髪ガール麦野さんのバレンタイン 夜桜くらは @corone2121
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