麦野さん2月のパン祭り

 それは、俺がいつも通り診療所で仕事をしている時のことだった。


「せんせ、こんにちは~!」


「おっ、麦野むぎのさんか。どうし……」


 そこまで言いかけて、俺は言葉を詰まらせた。彼女の髪に異変が起きていたからだ。

 ……なんということだろう。今までは明るい茶色だったはずのそれが、暗い茶色になっていたのだ。


「あ、あの……。麦野さん……それは……?」


「えへへ……実は、染めてみたんですよ! 似合ってます?」


 麦野さんはくるりと回ってみせると、その場でターンをした。短いスカートがひらりと揺れる。

 ……いかんいかん。見惚れている場合ではない。それよりも問題は髪の色である。

 麦野さんの髪はパン生地のはずだ。……何を言っているのかと自分ですら思うが、そうとしか表現できないのだから仕方がない。


 ともかく、そんな彼女の髪は普通の染料では染まらないはずなのだ。なのに、どうしてこんな色になっているのだろうか。


「えっと……。どうやって髪を染めたんですか?」


「はい! これで染めたんです!」


 麦野さんはそう言って、得意気にポケットから小さな袋を取り出して見せた。中には茶色い粉末が入っている。これは……。


「ココアパウダーです!」


 …………な、なるほど。そういうことか……。つまり、麦野さんは髪の毛にココアパウダーを練り込むことで、髪の色を変えていたわけだ。言われてみれば、チョコレートのような香りがする気がしないでもない。

 ……この際、どうやって練り込んだのかは置いておこう。


「それでですね! この髪で、パンを作ろうと思って! ……あっ、でもお仕事中なら後にします!」


「いや……。ちょうど休憩しようと思っていたところですよ。良かったら、一緒に食べましょう」


「やったー! じゃあ、今から作りますね!」


 麦野さんは飛び跳ねるように喜ぶと、診察室から出て行った。

 俺は苦笑いを浮かべながらそれを見送った後、休憩室に向かった。



「じゃじゃじゃじゃーんっ!!」


 数分後。麦野さんはそう声を上げながら、バスケットを持って現れた。どうやらその中に、さっき言っていたパンが入っているようだ。


「せんせ、はい! どうぞ召し上がれ♪」


 そう言って差し出されたのはチョココロネだった。生地もココアなので、ダブルチョココロネといったところだろうか? なかなか美味しそうだ。

 俺は礼を言いつつそれを受け取ると、早速口に運んだ。ふわふわの食感に、ほんのりとした甘みが感じられる。うん、うまい。


「ど……どうでしょう?」


 麦野さんは不安そうに尋ねてきた。そんな彼女に俺は笑顔を向ける。


「とても美味しいですよ。ありがとうございます」


「本当ですか? 良かったぁ……」


 麦野さんはほっとした様子で胸を撫で下ろすと、自分も一つ手に取って、それを口に入れた。


「うん! 美味しい! ……これ、縦ロールがうまくいかなくて、作るのがちょっと大変だったんですよね……。でも、先生に喜んで貰えて嬉しいです!」


「そうなんですか……」


 ……なんとなく作り方は想像できていたが、やっぱりそうだったようだ。あれって、漫画とかでお嬢様キャラがやっている髪型だよな……?

 俺は縦ロールの麦野さんを想像して、思わず吹き出しそうになるのをこらえた。

 そんな俺の様子に気付いたのか、麦野さんは不思議そうに首を傾げる。


「せんせ、どうかしましたか? なんだか笑ってますけど……」


「いや……。なんでもないです。それより、他にも入ってるみたいですが……」


 俺は誤魔化すように話題を変えると、バスケットの中に目を向けた。そこにはたくさんのパンが入っており、甘い香りをただよわせている。


「あっ、そうでした! えっと……。こっちがチョコドーナツで、これがチョコクロワッサンで……」


 麦野さんは楽しそうに説明しながら、次々とパンを取り出していく。そして机の上は、あっという間にパンでいっぱいになった。どれも美味しそうである。


「えへへ……ちょっと張り切りすぎちゃいましたかね?」


「大丈夫ですよ。二人で食べればすぐに無くなります」


「そうですよね! じゃあ、食べましょ!」


 俺達は椅子に腰かけると、パンを食べ始めた。麦野さんは終始笑顔を浮かべており、俺も自然と笑みがこぼれた。


 でも、どうしてまた髪の色を変えたりしたのだろうか? 俺はふと疑問に思い、麦野さんに尋ねた。


「麦野さん。そういえば、髪の色を変えたのはどうしてなんですか?」


「えっと……。それは……」


 麦野さんは一瞬言葉に詰まったが、やがて照れくさそうに頬を赤らめながら言った。


「……今日は、バレンタインデーだから、です」


「……? ああ、そうか……。もうそんな時期でしたね」


 俺は納得してうなずくと、再びパンを口に運び始める。麦野さんはなぜかあきれたような視線を向けて来た。


「先生……。まさか忘れてたんです?」


 ……ギクッ。そ、それは……。ま、まぁいいじゃないか。別に大したことじゃないんだし……。

 俺は内心焦りながらも平静を装って言った。すると、麦野さんはジトっとした目をこちらに向けて来る。


「……せんせ。嘘ついたらダメですよ?」


「……すみません。すっかり忘れていました」


 観念した俺は素直に白状した。すると、麦野さんはクスッと小さく笑った。


「ふふっ……。正直でよろしいです。……でも、先生には罰をあたえないといけませんね」


「ば、罰……ですか?」


 俺は戸惑いつつも尋ねると、麦野さんは悪戯いたずらっぽい表情で笑みを浮かべた。


「そうです! ……先生には、ツイストドーナツを作ってもらいます!」


「……え?」


 予想外の答えに、俺は思わず間の抜けた声を上げた。


「私の髪を編んで、作ってください!」


 ……待て待て、俺に編めと? いや、無理だって! というか、そんな技術はない!


 俺が慌てているうちに、麦野さんは俺の前に椅子を持ってきて座った。ココアの香りがふんわりと鼻腔をくすぐる。


「さあ、せんせ! はやくはやく!」


「えぇ……。いや、その……」


「……イヤですか?」


 麦野さんは背を向けたまま、悲しそうな声で呟いた。……くぅ。そんな言い方はずるい。

 俺はため息をつくと、覚悟を決めた。


「……わかりましたよ。やりますから、元気出して下さい」


 俺はそう言うと、彼女の髪を手にとって、ゆっくりと編み込みを始めたのだが……。


 ……難しい。どうやるんだこれ……。

 これまで一度もやったことがないせいで、勝手がわからない。

 それに加えてこの距離。麦野さんの髪からは良い匂いがしてくるし、柔らかいし……。ああああっ! 拷問かっ!

 こんな時に限って、麦野さんは一言も喋らないし……。


 俺は無言のまま、なんとかそれを完成させた。我ながらひどい出来だと思う。


「麦野さん。できまし……」


 俺は振り向いてもらおうと声をかけたが、途中で言葉を止めた。

 麦野さんは耳まで真っ赤にしてうつむいていたのだ。両手をぎゅっと握りしめ、ふるふると震えている。

 ……しまった。怒っているのだろうか? 俺は恐る恐る彼女の顔を覗き込む。しかし、彼女は怒ってはいなかった。


「ひゃっ!? お、おお終わりましたか……?」


 麦野さんはビクッと身体を震わせると、驚いた顔で振り返った。目が合うと、さらに赤くなって逸らす。


「え、ええ……。一応……」


「……そ、そうですか。……ありがとうございます」


 麦野さんは消え入りそうな小さな声でそう言うと、うつむいてしまった。……もしや、照れてるのか?


「あの……麦野さん?」


「……な、なんでしょう?」


「……恥ずかしいんですか?」


「ち、違いますっ! これは、その……緊張しているだけです! ほら、パン! パンを食べましょう! 冷めちゃいますからっ!」


 麦野さんは慌てた様子で言うと、パンを手に取り、ぱくっと一口食べた。そのまま黙々と食べ続ける。

 ……なんだろう。可愛い。少しからかいたくなってきたぞ……。

 よし……。ちょっとだけ意地悪をしてみようかな。


 俺はパンを一つ取ると、麦野さんの目の前に差し出す。


「はい。麦野さん、あーん」


「……な、なにやってるんですか?」


 麦野さんは動揺した様子で、チラリと俺の顔を見た。俺は笑顔を浮かべたまま、じっと見つめ返す。


「いや、こっちのも美味しいですよ? だから、はい」


「……ぁ、むっ」


 麦野さんはしばらく迷っていたが、やがて決心したようにパンをくわえると、もぐもぐと食べ始めた。


「ふふ……美味しいですか?」


 尋ねると、麦野さんは無言でこくりと首を縦に振った。


「うぅ~……先生のいじわるぅ……」


「すみません。可愛かったもので、つい……」


「かっ、かわっ……」


 麦野さんは口をパクパクさせると、ぷいっと横を向いてしまった。そして、ねたように言う。


「もぉっ! せんせのバカっ! 次やったら怒りますからねっ! 絶対ですよっ!……っていうか、私もお返しにやりたいです! はい、せんせっ! あーん!」


「えぇ……。俺はいいですよ……」


「ダメです! 私がしたいので、大人しくしてください!」


「わ、わかりました、わかりましたから……」


 そんなこんなで結局、お互いにパンを食べさせあうという奇妙な状況になってしまった。

 それでも、麦野さんが楽しそうだったので、まあいいかと思えた。

 こんなバレンタインも悪くないかもしれない……なんて思いながら、俺は苦笑いを浮かべたのだった。


 しばらく麦野さんの髪型がそのままだったり、ホワイトデーのお返しにキャラメルパウダーを贈ったりするのは、また別の話である──。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔法植物研究医フタバと、パン生地髪ガール麦野さんのバレンタイン 夜桜くらは @corone2121

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ