4.線のない部屋
一瞬だけ気を失ったらしい。目を開けると視界いっぱいに白い壁があり、身体はうつ伏せになったまま捻ったような、変な姿勢で投げ出されていた。
ほどほどに狭くて、何もない空間だった。床、壁、天井が滑らかに繋がって、のっぺりと白い。球の内側に閉じ込められたような。角や辺が全く見当たらず、距離感も掴めない。
恐る恐る立ち上がってみる。床を踏んだ感触はちゃんとある。踏み出すと少し柔らかく沈む感覚があるが、足元に目を凝らしても滑らかな白が広がるだけで、影や皺は見当たらない。
どうも、気持ち悪い空間だ。これも誰かの特技が生み出す異空間なのだろうか。
壁の感触を確かめようと一歩踏み出した途端、頭上で何かが水に飛び込んだような音がして、男が一人落ちてきた。
鴻野かと思って身構えたが、もう少し小柄で、見覚えのある革ジャンを着ていた。ジュウヤだ。
「あ、あれ?」ジュウヤは身を起こして、ずり落ちたサングラスを掛け直しながら、不思議そうに俺を見た。「え、何? ここ」
「さあ」と俺は言った。
「わからないんすか?」
「わからん。階段から落ちたらここにいた」
「うぇー。めんどくさいな。めんどくさそうな予感」
ジュウヤはのっぺりとした白い壁を叩きながらこの空間をぐるりと回った。どこを叩いてもぺちぺちと手応えのない音がした。
通気口のようなものも見当たらない。いずれ酸欠になるのではと、少し不安になる。
ジュウヤは最後に、助走をつけて壁に突進し、両足で飛び蹴りを見舞った。身軽な男だ。
しかし白い壁に変化はなく、肩から床に落ちたジュウヤは「いってえ!」と叫んだ。「かたっ……なにこれ、床が固い?」
「そう?」
俺は床を爪先で押してみたが、低反発クッションのような微妙な感触だ。それに、先ほどから何度も試しているが、どうやっても輪郭線が見えてこない。この部屋には一切の角や
「力、使えないでしょ?」
小馬鹿にしたような若い女の声が降ってきた。
見上げると、天井の中央に小さな丸い穴が開き、感じ悪い笑みを浮かべた少女が顔を半分だけ覗かせていた。
昨日戦った三澤よりももっと幼い。中学生か、下手したら少しませた小学生にも見える。青白く血色の悪い顔に濃く陰影が浮かび、吊り目気味の目の下にクマができている。茶色がかった髪の先が内向きに巻いて、顎と頬の輪郭を隠していた。
「鴻野さんは暗闇にすればいけるって言ってたけど、わたしはどうせ上手くいかないって言ったんだ。言った通りになったでしょ」
「特技でこの空間を作ったのか?」俺は聞いた。
「そう。いいでしょう。輪郭線が無いから剥がせない」
「なるほど……そうすると俺たちはもう、ここから出られない?」
「そう。わたしが開けるまではね」
「じゃあ丁度良かった」俺は白い床に腰を下ろした。「ここで寝てるから、諸々片付いたら起こしてくれ」
少女の返事が途切れたので、俺は改めて天井を見上げた。
「まあなんか、そういうこと言うタイプだって聞いてた」少女は呆れたように肩をすくめて言った。
「
「そうね」少女は曖昧に頷く。
相変わらず、俺の知らないところで噂が一人歩きしているらしい。町内会のおばちゃんネットワークか何かなのかこいつらは。
「鴻野とはどういう知り合いなの?」
「別に知り合いじゃないから。あの人が、勝手に居るだけ」
「勝手に居る? じゃ、あんたはなぜここに来た?」
「それはね……」
少女が首を傾げて口篭っているうちに、ジュウヤはもう一度壁に蹴りを入れようと試していた。
「お、いけそう」ジュウヤが右足の裏を壁に当てて叫んだ。
革のブーツを履いた足がずぶりと壁に沈む。
意外と壁は薄いのか、と思ったが、ジュウヤの右足はまもなく足首まで埋まり、引き抜こうとした姿勢のまま動けなくなった。
「え? ん? 何これ」ジュウヤは傍目にも怖くなるほど渾身の力で踏ん張ったが、壁に飲まれた右足はびくともしなかった。
後先考えず無茶なことしなきゃいいのに、と思ったが、それを指摘しても始まらない。大丈夫ですか、と聞こうとしたが、それもなんだかな。
「おい、放せよ」俺は上を見上げて言った。
「やだー」少女は気持ちのこもってない口調で返した。「自分で抜けばいいじゃん」
「取れないっすけど?」ジュウヤが焦った声で叫ぶ。
「ゆっくり引けば抜けるよ。もっと、優しく引けば」
「んな馬鹿な……あっ、抜けた」ジュウヤは急に解放され、ポカンと自分の足を見つめた。
「ひひっ」少女は変な笑い声をあげた。「オニイサン下手くそだね」
「いや、こんなの下手とか上手とかあるか?」
「強くやるからいけないんだよ。ダイラタンシー現象だからね」
「何? ダイラ……?」
たぶん、片栗粉液の水面を殴るとその瞬間だけ固化して跳ね返されるという、あの現象のことだろう。この部屋の床や壁がそれと同じ物質のようには見えないが、起きていることの性質は似ているのかもしれない。
「それなら、ずっとゆっくり突き進めばすり抜けて出られるんじゃないか」俺は言った。
「そうかもね、やってみれば」少女は素気なく言った。
「へー、マジで? あ、ほんとだ」ジュウヤは試しに手足をずぶずぶと壁に入れたり出したりした。しかし、さすがに顔を突っ込む気はしないようだ。壁に潜っている間はたぶん息ができないだろうし、向こう側に出られる保証もない。
「ジュウヤさんの、特技で何とかならないですか」俺は聞いた。
「うーん、固いもの割るのは得意なんすけど」ジュウヤは右手を白い壁に向けて、パシパシと軽く何かを発射した。
「それは何を出してるんで?」
「空気。おれは気圧を変えられるんですよ、局所的にね。これで気圧の上げ下げを繰り返して連打すると、かなり色んなものを割れるんすけど。この壁は難しいなあ」
「二人ともこっから出られないとなると、どうなる」
「まあ、皆川君が消えたのも、似たような状況なのかもしれないすね」
「行方不明者が三人になるわけか」
「ねーえ」少女が苛立った声をあげた。「人の存在、無視してない?」
ジュウヤが返事をせず、まったく上も見ないので、俺もそれに倣った。
元から静かな白い空間が、一瞬無音になる。
「……ちょっとだけ試してみたいのが」ジュウヤは壁に掌を向けながら、俺を振り返った。「こうやって圧をかけ続けるとそこだけは固くなるはずなんで、その状態で輪郭線を剥がせないかなと」
「どうだろう」俺はもう一度立ち上がり、ジュウヤの側に寄った。
ジュウヤが力を向ける白い壁が、その辺りだけ微かに振動している。確かに、その付近だけは霧のようなものが晴れ、はっきりとした平面になっているようだ。だが、そこに具体的な線を見出すのは難しい。
「何か少しでも、角か境目があればな」
「じゃ、これなら?」ジュウヤは軽く手を返した。
白い壁が水面のように波打った後、横縞の畝のようなものが浮かんだ。
「おお、器用だな」
畝の頂が直線になった一瞬を逃さず、俺は壁に飛びついてその輪郭線を剥がした。
手応えは悪くない。ただ、すぐに線は途切れてしまった。その畝が消えたようには見えたが、壁全体の様子に変化はない。
「うーん」ジュウヤが手を下ろして唸った。
「俺たち二人とも、液体とは相性悪そうだな」
「そうすね。まあでも、本当にこれが液体なら、一応まだ手はあって……」
「ねーえ!」少女が一段と声を張り上げて叫んだ。
俺は仕方なしに天井を見上げた。「なんだよ?」
「なんで、無視する」
「敵と話す必要ないだろ。無視されたくなかったら悪い奴と付き合うのをやめろよ」
「悪い奴ってなに? のんちゃんは、あの子は悪いことしてない。何も悪いことしてないのに」少女の青白かった顔は、一気に赤黒く鬼気迫る色になった。「何も知らないくせに――何もわかってない――」
「知るわけねえだろ。知らせてわからせないお前が悪い」
「ヒナモトさん、言い過ぎっすよ」ジュウヤが呆れたように嗜めた。
「けどあんたの方が、えげつなく無視してるじゃん」
「おじさん二人に相手されたら、怖いでしょう女の子は。おれたちは戦争しに来たんじゃないんすから」
「へーそりゃ、初耳」
てっきり、この抗争に参戦して漁夫の利を掠め取るつもりかと。
「許さない」少女は両目に涙を溜めてこちらを睨み下ろしていた。「のんちゃんを悪く言うのは、許さない」
「決めつけたのは悪かったよ」俺は仕方なく言った。「でも、もともとお前の態度が良くないから、お前の仲間まで疑われることになるんじゃないのか?」
「ヒナモトさん」ジュウヤが宥めるように俺の腕をつつくのと、少女が金切り声をあげて身を乗り出したのが同時だった。
ぐわっと白い部屋全体が歪んで、四方から壁と床が迫ってきた。ずぶずぶと手足が呑まれ、粘性のある乳白色の水面が膝から首まで一息に迫り上がる。
溺れる、と思った瞬間、ジュウヤの手が目の前に伸びてきて、迫ってくる液体を掻き分けた。鋭く冷たい霧が勢いよく視界を埋め、俺は思わず咳き込んだ。
霧が晴れると、水面は胸の下くらいまで下がっていた。
「許さないよ。殺してやる」少女はまだ上から喚いていた。
「もうやめましょう。こんなことは良くないすよ」ジュウヤは両手を白い液体に沈ませて、押し広げるように動かした。ぶわっと霧が立ち上がり、晴れるとまた少し水面が下がっている。ジュウヤはそれを何度か繰り返し、少しずつ空間を押し広げた。
「どうやってるんだ?」俺は聞いた。
「気圧を下げて、蒸発させてるんすよ」
「へえ」
気圧を下げまくれば、常温でも水は蒸発するんだったか。ジュウヤは単に能力が強いだけでなく、それを活かす方法をよく研究して普段から訓練しているのだろう。
白い床に埋まっている足をゆっくりと持ち上げる。泳ぐような速い動きをすると、途端に固化して動けなくなるので難しい。
吐く息が白かった。いつの間にか、空気が肌を刺すように冷たくなっている。
「すみません、寒いすよね」ジュウヤは先に白い床から上手く抜け出し、俺に手を貸して引き上げた。
「なんか別な特技者が来てないか?」俺はあまりの寒さに両腕を抱えた。
「これ気化熱なんすよ。蒸発させるほど冷えてくる。エアコンと同じことしてますからね」
「ほう」
大佐戸は火を出すことができて、ジュウヤは間接的に物を冷やせるわけだ。人類の抱えるエネルギー問題がついに解決したらしい。理論上は。
実際にそうなっていないのは、大抵の特技者には使える能力の限度があるからだが。
ジュウヤは初めて、真っ直ぐに天井を見上げて少女を見た。
少女は目を真っ赤にして、鼻をぐずぐずと啜っていた。何かとてつもない残虐なことをしたような気分になった。俺、今回は何もしてないはずだよな。
「どちらかの体力が尽きるまでやる必要はないでしょう」と、ジュウヤは言った。「おれたちは超常災害の対応に来てるだけ。誰かを倒したり捕まえたりする予定はないんだ」
「でも、出してあげないよ」少女は唇を血が出そうなほど噛み締めながら言った。
「それはなんでなの?」
「のんちゃんを守る。わたしはのんちゃんを守るから」
「その、のんちゃんてのはどういう人なのかな。事情を話してくれれば、おれたちが助けるから――」
「うるさあい!」少女は今にも丸い穴からこの空間に落ちそうな勢いで、細い両腕を激しく振り回した。
白い壁がボコボコと波打って、再び俺たちを包むように迫り出した。先程のような速さはないが、まだまだ彼女の体力は尽きないようだ。
ジュウヤを見ると、サングラスでわかりづらいが、だいぶ渋い顔をしている。おい、このタイミングで体力切れとか言い出さないよな。一気に怖くなってきた。
「できるだけ寄ってください」ジュウヤは俺の肩を掴み、頭を寄せて小声で言った。「とりあえず窒息しないように顔の前だけ開け続けるんで」
言っているそばから、白い床が再び俺たちの足を飲み込んで迫り上がってくる。すでに、小さめの押入れ程度の広さしか残っていない。
「完全に生き埋めだな……あの子が出してくれるまで待つしかないのか?」
「それが一番平和な解決のはず。これ以上追い詰めて何か違う技を出されても困る」
「まあ、うん……」
まるで、まだ追い詰める手段を持っているような言い方だ。そして俺自身も、一応奥の手は残している。問題はそのカードを今切るべきかどうかだ。
ふと、ザラザラと妙な音が聞こえ出した。白い壁が不安定に揺らぎ始める。同時に、両足を飲み込んでいる白い床の重たい感触も弱まり、その水面もどんどん下がっていく。
「今度はなんだ?」
ボコッと目の前の壁に穴が開き、その縁が砂に変わって崩れ出した。
「ちょっと……なんで強そうな二人が同時に捕まってる? まったく何してるんですか」地味な顔の女性が穴から覗いた。
事務員のような、飾りのないブラウスにベージュのカーディガン。化粧気のない、印象の薄い顔立ち。今朝、車に乗せてくれた小林だった。
「あれ、小林さん。今日大丈夫なんすか? 日曜なのに」ジュウヤがきょとんとした顔をした。
「大丈夫です。パート無いし、子供は預けて来たから」
「塾って言ってなかったか」俺はつぶやいた。
「そうですよ」小林は頷いた。「今年学童に落ちたんで、その代わりの塾です。子供らだけで留守番なんて何しでかすかわかりませんからね」
「へえ」今どきの子供は大変だな。
喋っている間にも壁はどんどん砂に変わり、溶けるように崩れていった。天井を見上げたが、そこにいた少女も覗き穴も消えており、まもなくその天井自体が砂と化して崩れ落ちた。
元の、暗い巨大な空間が広がっていた。非常階段のような金属製の階段が、角張った螺旋を描いてはるか上まで続いている。ぽつぽつと弱い明かりが一定の間隔で点いているが、途中の一箇所だけ明かりの並びが不規則で、手摺や段が激しく歪んでいる。
あそこから落ちたんだとしたら、我ながらよく無事だったなと思う。たぶん、あの少女が白い空間に吸い込んでくれたおかげで怪我ひとつなく済んだわけで、だとすると連中の目的は邪魔者の排除ではないのかもしれない。
「大佐戸さんに会いました?」ジュウヤが小林に聞いた。「あと、もう一人のひとも」
「さあ、見てないです。何、みんなでここに入ったんですか?」
「だと思います。カンナのグレた息子が攻撃してきたから、外にいられなくなって」
「その息子とさっきやり合ったけど、階段から落ちた拍子に消えたぞ」と俺は言った。「その辺に墜落してないか?」
「さあ、見た感じ居ませんでしたが」小林はちらっと階段を振り返って言った。
「何が起きてるのか全然わかんないっすね」ジュウヤは首を振った。
「とりあえず階段は残ってるみたいだから、あれを上って帰れるよな」俺は言った。「もうすぐ昼飯の時間だと思うし、いったん戻りましょう」
「そう言うと思ったんで、買ってきましたよ」小林は背中にしょっていたファンシーな柄のナップザックを身体の前に回して、菓子パンと惣菜パンを取り出した。
デニッシュ、ホイップコッペパン、チーズホットサンド、メンチカツバーガー。
「小林さんさすが」ジュウヤはさっと二つ受け取って、階段の明かりが届かない暗闇の方を指した。「この先にまだ下りの道がありそうっすね。行ってみましょう」
「ええ、まだ行くの……」
「まだ午前中ですよ。時間はあるでしょう」小林は俺に残りのパンとお茶のペットボトルを押し付け、ナップザックの口をぎゅっと締め直した。
輪郭線上のアリア 森戸 麻子 @m3m3sum
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