3.暗闇の攻防

 角ばった螺旋状に続く階段を下る。安いビルの外側に付いている非常階段のような、ペラペラした金属の階段だ。一歩踏み出すたびにガツンガツンと耳障りな音がして、それが暗闇に拡散する。どうもこの建物の奥側には階層を分ける床がなく、地中へ深く続く巨大な縦穴じみた空洞になっているらしい。一応、階段の手摺に一定の間隔で明かりが付いており、かろうじて足元はわかる。しかし、階段の外側がどうなっているのかはまったく見えない。ただ、空気の流れや足音の響き具合から、相当広い空間が広がっているのが感じられる。


 先を下りるのはジュウヤとおお。その後に俺。さらに後ろからキバチ。キバチはまたブツブツ文句を言っていた。だが、その声は四人分の足音に搔き消されてよく聞き取れない。ジュウヤや大佐戸の話では、この建物内で揉め事を起こしている連中がいて、銃声らしきものも聞こえていたはずだから、もうちょっと警戒した方が良い気がするが。


 まあ、でも、俺達は彼らにとってまったく無関係な、利害関係の生じない相手のはずだし、問答無用で撃ってくるようなことはあり得ないか。


 もう何度目になるかわからない階段の折り返しを直角に曲がった途端、ふっと明かりが弱まった。


「あれ?」


 気づくと完全な暗闇だ。元から相当弱い光だったが、あるのと無いのとでは全然違う。

 同時に、他の三人の足音や話し声も止んでいた。

 気配が感じられない。


「いるのか?」俺はキバチの声がしていたはずの、斜め上を振り返る。

 誰もいない。というより、何も無いように感じられる。暗すぎてわからない。

 急激に不安になって、靴で足元を探った。階段はまだある。よかった。変な異空間に飛ばされてはいない。


 でも、先ほどから既にここが変な異空間じゃなかったという保証がどこにある? だいたいこんな、暗闇に延々と階段が続くだけの空間が、通常の世界にあるのだろうか?


「おい、」


 俺の言いかけた言葉は、バチイッと鞭を叩きつけるような音に遮られた。


 目の前の空間が縦に割れる。


 いつの間にか思い切り尻もちをついていて、鉄の床に打ち付けられた腰がジンジンと痛んだ。大人の背丈ほどはある黒いくさびが、俺の足と足の間に突き刺さっていた。


「ひっ」


 再び暗闇。何も見えない。

 え、これって身体に刺さったら死ぬよな? 見えないのにどうやって避けるんだ?


「目がなきゃ、何もできまい」ふいに、知らない男の声がした。「明かりをつけたら、殺すぞ。勝手な動きをするなよ」

「え、勝手なことをしなければ殺さないってこと?」

「そりゃ、そうだろう。いちいちこっちだって手を汚したくない」


 そんな、常識だろうみたいな口調で言われてもな。常識的な人間は人の頭上から楔を降らせたりしないし。


 チリチリと肌を逆撫でする不穏な気配を頬に感じて、思わず身を竦めた。

 直後、右肩を重たい衝撃が掠め、階段の手摺を割って楔が突き刺さる。黒い巨大な楔は青白く弱い光を放ってから、すぐに暗転して見えなくなった。


 肩の傷が遅れて痛み出した。

「おい! ぜんぜん、殺す気だよな?」

「確かめただけだ。本当に何もできないかどうか」

 今度は左肩に痛みが走った。

 ナイフで裂かれるような痛みとは違う。金槌の尖った方でぶん殴られたような鈍痛だ。

「ちょっ、ほんとにやめ……やめてください」

「言うほどでもないな。連盟もNコートもこんなのに手を焼いてたのか」


 左側の楔が青白い光を放った一瞬、暗視ゴーグルを付けた背の高い男が仁王立ちしているのが見えた。


「一応確認するんですけど」俺は言った。「カンナ中央ネットの関係者?」

「関係者……ではあるな。創業者のこうは俺の父だ。俺は長男の鴻野りゅうけん

「ああ、お家騒動の」

「別にお家の騒動ってわけじゃない。誤解だよ。何もかも大きな誤解から始まって、結果が今のだ。あれは奥さんの操り人形だぜ」

 だからそれを、お家騒動って言うんだろ。自分の悩みだけは世間一般の低俗なそれとは別物だってか?

「父親の苦労が目に浮かぶな」思わず呟いたら、

「はあ?」と凄まれた。

「おお、こわ」

「まだ何か隠し持ってるな? お前」

 暗闇の中で鴻野が一歩近寄ったのを感じた。俺はなんとか両膝を引き寄せ、立ち上がりながらもう少し下がろうとしたが、背中に金属の手摺が当たって阻まれた。

「けどよく考えてください。俺はあんたの目的に何の利害もない」俺は声が震え出さないようになるべく抑えながら言った。「なんなら、あんたが実権を取り戻す手伝いをしたっていい。だから、俺を攻撃する理由がないよな?」

「今更そんな言い分信用できるか。人んところのビルを散々ぶっ壊しておいて」

「ああ……」そんなこともありましたね。

「社員も何人か廃人にしてくれたようだが」

「けど、あれは向こうが先に」

「昨日は十代の女の子まで病院送りにしてくれたよな? あれは俺の従妹なんだが」

 Nコートのビルでやり合った三澤のことか。子供のくせに何故カンナの仕事に関わっているのかと思ったが、創業家の一員だからなのか。

「けどあれも、向こうが先に。それに、やったのは俺じゃない――」

「どうもわからんな。お前は本当に連盟のヒナモトか?」


 気づくと、鴻野はぴったりと俺の目の前にいて、慣れた手つきで俺のシャツの胸倉を掴み、吊り上げるようにぐっと持ち上げた。


 首の両脇にシャツが食い込んで、頭の血管がキュッと締まる。俺は後ろの手摺を必死で掴んだ。


「どうも話に聞く奴と違うんだよなあ」

 鴻野はイラついた調子で俺に顔を近づけた。暗視ゴーグルの向こうにどんな顔があるのか読めない。そもそもほとんど真っ暗闇で、何が何だかわからない。

「お前のやってることと言ってることが、まるで噛み合ってないんだよなあ? お前は本物のヒナモトか?」

「偽物です、偽物ですよ」

 だんだん苦しくなってきて俺は何度も唾を飲み込んだ。絞められた血管がドクドク鳴っている。このままじゃ絞め落とされる。やり方次第じゃ、普通に死ぬぞ。

「このしょうもない小物ぶり――頭も悪そうだし――軽薄で適当――」

「い……」どんだけ悪口並べるんだよ、と言い返したいが、既に声が出ない。頭がぐわんぐわんと揺れるように痛む。意識が飛びかけている。

「能力に器が追い付いてないタイプか? それとも、とんでもないサイコパスなのか」

 どっちにしろ悪口じゃねえか。


 顔の力が抜け、涎が口から溢れそうになるのを必死に抑える。目の前がチカチカと光っているように感じる。あるはずのない光が、目を突き刺して眩しい。

 自分の指が、まだそこにあるか確かめる。右手の親指と人差し指。階段の手摺を支える、金属の細い棒を掴んでいる。

 その滑らかな棒の輪郭線を思い浮かべながら、覚悟を決めて目を固く閉じる。


 オリガがいないと怖い。

 まあ、この状況なら、いても怖いだろうが。


 今いるここは、どのくらいの高さなのだろう。螺旋状の階段が終わる床はどこにあるのか。

 いや、考えても無駄だ。できることは限られている。やられる前に、やるしかない。


 目を閉じたまま、自分の指が触れる金属棒の輪郭線を「見」る。右手の指先でそれをつまみ、勢いよく引き剥がしながら、左手は残りの手摺をがっちりと掴む。

 ひゅっ、と足元の金属板が消え、俺の首を絞めていた鴻野が声も立てず離れて消えた。

 左手に自分の全体重が掛かる。そのまま滑り落ちそうなくらい、掌に汗をかいている。

 階段はまだ、上も下もほぼ残っているが、踊り場の床一枚といくつかの手摺の柱を失い、嫌な音を立てて軋み始めた。


 ふいに、右足首を掴まれた。がっしりとした大きな手が骨を砕きそうな勢いで締め上げる。

「まだ生きてたか」

「この野郎」鴻野は怒鳴った。「自分の立ってる場所を消す奴があるか! 馬鹿じゃねえのか?」

「だって他に消せるものがないから」

 本当は鴻野本人の輪郭線が見えれば直接剥がしてやったのだが、こう暗いと無理だ。目を使わずに「見」ることができるのは、やはり直接指が触れているものだけのようだ。


 俺の手の中で、先ほど剥がした輪郭線はまだ生きている。手摺を支える細い棒を伝って足元の金属板、それを支える溶接された鉄柱、そして更に下に続く階段の一段一段……。

 腕を振って線を巻き取る。そうしながら、階段の先がどうなっているかを「見」る。

 螺旋状に下る階段は何度も折り返し、規則的に続いている。辿っても辿っても、終わりが見えない。


 やはり、この階段はおかしい。


 幻影ではないが、現実でもない。この空間自体が誰かの特技が生み出した異次元のもので、キバチや大佐戸達が先ほどから見当たらないのもそのせいか。


 俺はゴリラみたいな力で掴み掛かってくる鴻野をなんとか蹴り落とそうとした。相手もそうはさせじと、両脚をまとめて抱え込んでくる。

 手摺を掴んでいる左手が千切れそうだ。

 右手では、階段の輪郭線を剥がし続ける。金属の軋む不穏な音が強まり、左手で掴んでいる手摺も徐々に傾いていくのを感じる。どこかの時点で鴻野の身体を支えていた足場が失われたらしく、がくんと強く下に引かれた。


 振り落とすチャンスだ、と思った次の瞬間には、俺の手の方が限界を迎えていた。掴んでいたはずの手摺がぬるりと抜けて、暗闇に消える。


 猛烈な落下が始まる。身体の芯を氷漬けにして締め上げられるような、耐え難い恐怖の感覚に包まれた。パニックに溺れそうになりながら、残りの力を振り絞り、両脚にしがみついてくる鴻野を蹴り落とそうとした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る