2.魔の苫山へ

 小林はこの辺りを車で走り慣れているらしく、コンビニや早朝営業をしている百貨店を手早く回り、キバチの靴や二人分の着替え、朝食を揃えた。俺は自宅に戻って私物を色々取ってきたかったが、それは却下された。


 高速道路の高架下を潜り、小さな川を一つ渡ると、辺りは急に建物が減って静かになった。緩やかな丘陵地に樹々が生い茂り、その向こうの工場地帯を隠している。


 ゴミ処理施設とそれに併設された市民プールがある小山の麓で、小林は俺とキバチを下ろし、「じゃあ私はこれで」と言った。

「えっ」

「その道を行けばすぐです。大佐戸さん達に合流できますから」

 小林は歩道の傍から唐突に始まっている小道を指して言った。


 大人ひとりがようやく通れるくらいの細道で、両脇から樹と下草が伸び、緑のトンネルのようになっている。

 こんなの絶対、虫に刺されるだろ。蜂とか蛇とか出るだろ。


「あなたは来ないんです?」キバチが聞いた。

「私はそろそろ、子供の塾の送迎があるので」

「いやいやそんな……随分、暢気ですね」

「そうですかね? 普通だと思いますが」

 小林はキバチが後部ドアを閉めるのを待ち構えたように発進し、車をUターンさせて走り去った。

 グレーのコンパクトカーが緩やかな坂を下って樹々の影に消えるのを、俺たちはぽかんと見送った。


 キバチはすごく嫌そうな顔で緑のトンネルを見た。

「……タクシー呼んで、もう帰ろうか?」俺は端末を取り出して言った。

「まあ、僕は帰りたいけど。君は相棒を探すんじゃないのか?」

「さあ、俺が探すまでのことでもない気がするし……」

 しかしこのままバックれると後で大佐戸がものすごい顔をしそうだ。俺は渋々、小道に足を進めた。


 道路側から見ると薄暗くて抵抗感がすごかったが、入ってしまうとすぐに目が慣れた。空気が綺麗で静かだ。足元も、よく見ると砂利と丸太で簡単に舗装してあった。

 ただ、蚊にはめちゃくちゃ刺されたが。


 数分歩くと徐々に道が広くなり、駐車場のような広場に出た。バンや軽自動車がぱらぱらと適当な向きに停まっている。広場の端から急な斜面が始まっていて、その先に錆びついた四角い建物が、斜面にめり込むような形で立っていた。


 白いバンの前に髭面のもさっとした男がいて、斜面と建物を見上げていた。大佐戸だった。彼は振り向いて俺に気付くと、大きく手を振った。

「おはようございます」仕方なく、俺は歩み寄って会釈した。

「なんだか眠そうだな」大佐戸は言って、キバチを見た。「こちらは例の人?」

「そう、例の、Nコートの赤い上着の男」

「キバチです。植木鉢の木と鉢です」キバチはかなり警戒心を露わにして言った。

「なるほど、キバチ君か。モノレールの乗客に能力を分け与えて回ったのが君ということかな」

「まあ、そうなのかな」キバチは首を傾げる。

「こいつ自身は能力を持たないんですよ」俺は説明した。「他人を特技者にするだけ。特技の内容もこいつには決められない」

「だって僕が与えてるのは、イメージした物体を出現させる能力でしかないからね。本人が何をイメージするのかまでは、僕の知ることじゃないから」キバチは言い訳がましく補足した。

「なるほど。つまり、拡散者スプレッダーだな」大佐戸は無精髭の伸びた顎に手を当てた。

 それから大佐戸は端末を取り出し、顔の前に持ってきて「どう?」と呼び掛けた。

『あー、まあ、駄目っすね』男の声がスピーカーから聞こえた。

「今どこ?」

『四階。見えてますよ、そこから』

「え、どこどこ」大佐戸は端末を掲げたまま建物を見上げて探した。


 斜面に取り付く四角い建物は、こちら側からは下半分がジャングルジムのような鉄骨の足場に見えた。この部分は「階」としてカウントできないから、手摺と壁が見える中腹あたりが「一階」なのだろう。同様に、無骨な手摺のついたベランダのようなものが各階に見える。形状だけ見ると団地かマンションの裏手側によく似ている。ただ、全体がボロボロに錆びた剥き出しの鉄柱で出来ていて、人間が住むための場所にはとても見えない。

 四階の端に、確かに男がひとり見えた。ジーパンに革ジャンにサングラスという一昔前の俳優みたいな格好で、もうそれだけで絶対に仲良くなれそうにないとわかる。確かジュウヤと呼ばれていて、連盟の事務所で何度か顔を合わせたことがあるはずだ。


「もう四階まで行けたの。意外とスムーズだな」大佐戸が言うと、

『いや、全然、手付かずですよ』ジュウヤの声が端末越しに勢い良く飛び出した。『手前側に非常用の階段があったんでそこを上がってきたんです。奥の空間から死角になってるから。奥はヤバいっすよ。銃声が聞こえませんでした?』

「ええ? わからん。銃声ってどんな音?」

『パーンて。運動会のピストルみたいな』

「それは、運動会のピストルなんじゃないの」

『んなわけないでしょ。いや、あり得るのかな?』


「今は何をしてる時間なんですか?」と、俺は聞いた。

「うーん」大佐戸は難しい問題を出されたように唸った。「すごく一般的な言い方をするなら、誰かが人質を取って立て篭っている」

「事件じゃないですか。通報して帰りましょう」

「そうも行かないから困ってんだよ」大佐戸は溜息をついた。

「じゃ、とりあえず俺がこの建物を犯人ごと消すので、人質は各自適当に逃げてもらうことにして……」

「違う。そうじゃない」

「時には非情な決断も必要ですよ」

「それは普段からまともな決断をしてる奴が言うことだ。もういいからてめえは檻にでも入っててくれないかな」大佐戸は蝿を追い払うような仕草で首を振った。


 呼び出しておいてこの扱いはちょっと酷すぎないか。やっぱりさっき帰れば良かった。


「通報すると、何かまずいんですか?」と、キバチが聞いた。

「わからん。わからんが、ここで起きたことを誰かに知らせるたびに、その相手が音信不通になる」

「え?」

「だから、オリガには何も知らせずにここへ集合というメモだけ置いてきたが、やっぱり連絡取れなくなったな。……そしてこいつだけ来るとは」

 大佐戸は全ての元凶を見るような目を俺に向けた。

「いやそんな俺を睨まれても……事務所が無茶苦茶になって大変だったんですが。岩みたいな洞窟みたいなのが生えてきて」

「ああ、知ってる、知ってる」大佐戸は雑に頷く。「北警察署もそれで沈んだ」

「は」

「西もだ。あと、市役所関係の、隣の建物……保健なんとかセンター。そこも同じくだ。とにかく、誰かに一切話せないというほどじゃないが、出動要請とか実際に解決に乗り出すレベルの相談をすると駄目らしい。金曜の段階ではこんな感じじゃなかったんだ。ここ三十時間ほどで急に状況が変わってきた」

「ええ……」


 誰かに知らせることがトリガーになって災害が拡大するのだとすると、このSNS全盛の時代にまだこの程度の規模で済んでいるのが奇跡のような気がする。特に、市役所の関連施設については月曜になって役所が稼働し始めれば、各所に状況を報告しないわけにはいかないだろう。特殊災害を視認できない一般の市民たちにどういう見え方をするのかわからないが、施設の機能停止についてなんらかの公式声明が出され、メディアでも報道されるはずだ。

 仮に、報道を見た全ての人間の居場所で俺たちが巻き込まれたのと同様の災害が発生するとしたら……ちょっと想像したくない規模の混乱が起きそうだ。


「今日中にケリをつけないと拙いんじゃないですか?」

「そうだよ」大佐戸は苦々しく言った。

「犯人は何人なんですか。というか、こんなところに立て篭って何を要求する気なのか……」

「元はカンナ中央ネットのお家騒動と聞いてる。あそこは創業者が今の社長を外部から招聘したんだが、ほんとは息子がいたんだよな。長男が、自分が継ぐつもりだったと騒いで。以前からずっと騒いでるんだ。今回もそれだろうと思われてた。しかしここで徒党を組んで騒いでるうちに、中で不測の事態があったらしい」

「仲間割れ?」

「そんな感じなら、まだいいけどな」


 大佐戸の端末の通話はいつの間にか切れていた。少しして、建物から出たジュウヤが斜面を身軽に駆け下りてきた。


「おい、出るまで繋いどいてくれ。何かあると困るから」大佐戸は端末を示して言った。

「すいません。電源切れそうだったんで、つい」ジュウヤはイキったデザインのサングラスを少しだけ持ち上げ、服装に似合わぬ純朴そうな目を覗かせた。「ヒナモトさん……と、そちらは?」ジュウヤは俺とキバチの方を見て聞いた。

「キバチです」と、キバチは短く言った。

「例の、Nコートが囲ってた能力者だ」と大佐戸。

「あーあれか、オリガ君が捕まえに行ったっていう」

「そう。で、今日はオリガとは連絡がつかん」

「げえー。正直あの人頼みだったんだけど」

「やっぱり無理そうか」大佐戸は斜面の上の建物を振り返った。

「わかりませんけど。奥まで入らなかったんで。もう一度行って、今度は奥まで入ってみます?」

「うーん。すでに皆川君が取り込まれてるからなあ」大佐戸は顎に手を当てて無精髭を撫でながら考え込んだ。「迂闊に動きたくないんだがそうも言ってられんし」


 それから大佐戸は俺を見た。


「……いや、構いませんけどね」俺は言った。「奥の様子を知りたいんでしょ? 俺が行って見てきますよ。ついでにヤバそうなのがあったら消しておくんで」

「あまり滅茶苦茶なことは、しないでくれ」

「なるべく心掛けておきますよ」

「オリガが居ないのが悔やまれる」大佐戸は心底不安そうに言った。


 どいつもこいつも、オリガ、オリガか。あいつの能力なら確かに、人質を一瞬で脱出させられるから便利なのかもしれないが。


「助けないといけないやつは何人いる?」俺は聞いた。

「うちの関係者では皆川君ひとり」ジュウヤが言った。「超常災害で出現する障害物の除去だけ、やってたんだけど、急に奥の空間へ行ってそのまま帰って来ない。あと、昨日からカンナ中央ネットの関係者が五、六人は来てたと思うけど、似たような感じで姿を消してるな」

「そいつらも助け出さないと駄目なの?」

「さあねえ……見つかんなきゃそれまでとは思うけど、わかってて生き埋めにはできないしな」ジュウヤは苦笑して頭を掻いた。耳に掛かる髪に隠れていた軟骨ピアスが覗く。

 こいつも充分、言ってることがヤバい。普段の仕事も激務だという話を聞いた気がするが、一体何をしている人間なのだろう。


「ところで、お前はそこで待ってるよな?」俺はキバチを見て聞いた。

「なんで?」キバチは憮然とした顔で言った。

「足から血が出てたし」

「もう止まったよ。靴があれば別に問題はない」

「じゃあ、付いてくるの?」

「なんで? 嫌ですが」

「だからそう聞いたろ」

 思わず舌打ちが出る。こいつと話していると頭が痛くなってくる。

「そもそも、昨日からこっち、僕は僕の同意なく振り回されてるだけであって――」

 キバチがまた何かごちゃごちゃ言い始めたが、そのとき急に、すっと日が陰った。


 雲が掛かったのかと振り仰ぐと、空の半分以上が塗りつぶしたように黒くなっていた。

「げっ」

 大佐戸が変な声をあげた。続いて何か言おうとしたが、その言葉は激しい雷鳴に掻き消された。

 バチイッと鞭を叩きつけるような音とともに、広場の隅の木が縦に割れた。


「ひっ」キバチが頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「何これ、ほんとに雷?」俺は大佐戸を見た。

「たぶん違う……これ、まずい。一旦、登ろう」大佐戸はジュウヤを促して小走りで斜面を登り出した。

 俺は座り込もうとするキバチを強く引っ張って追った。

「なんなんだよ! もうなんなんだよ!」キバチは半泣きで叫んだ。「雷だったら車に避難したらいいんでは?」


 次の瞬間、二度目の轟音と攻撃が白いバンを直撃した。

 巨大な真っ黒い楔が車を前後に割り、地面に突き刺さる。車は破壊されたというよりも、空間ごと分断されたように見えた。


 この攻撃は、普通の次元のものではないのかもしれない。


「うう……吐きそう」キバチは呻いた。

「とにかく急げ」俺は斜面の上に向かってキバチを押した。


 身軽なジュウヤはあっという間に坂の中腹まで登り、建物への入口らしき鉄の扉を開ける。大佐戸、キバチ、俺の順に追い付き、中に雪崩れ込んだ。

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