混乱

1.不安な出発

 青白くうねる岩の壁の合間に、縫い目のほつれたソファカバーの端が見えた。赤茶けて安っぽくなったエスニック風味の柄に見覚えがある。うちの事務所のソファだ。見えるのは背もたれの角の一部だけで、本体は岩の中に沈んでいるらしい。


 キバチが掲げる端末のライトを頼りに、俺は岩とソファの片鱗にじっと目を凝らした。俺の半歩後ろに立つキバチはさっきからずっと無言で、たぶん仏頂面をしているだろう。


 浮かび上がってきた岩の輪郭線に手を伸ばす。その端をつまんで捲ると、シールのような手応えとともに線が剥がれる。

 ソファを消してしまわないように、いつもより慎重に岩の輪郭線だけを剥がした。

 やがてその辺りの岩がまとめてと消え、ソファの全貌が現れた。事務所の薄汚れた床も少しだけ見える。

 しかし相変わらず、辺りには隆起した岩の壁がまだまだ残っている。洞窟の一画に唐突に出現したソファと床は、周囲の景色からとても浮いて見えた。


「いないな」と俺は呟いた。「オリガはこのソファで寝てたはずだが」

「あ、そうすか」キバチは心底興味無さそうな声で応えた。

「なんでそんなに機嫌悪いの?」

「眠いし。疲れたし」

「じゃあもう一度寝れば?」俺は目の前に出現したソファを示した。

「こんなところで寝られるかよ! ほんとにこの鍾乳洞はなんなんだよ」

「まあ、剥がした感じの手応えからしても、幻影ではないみたいだ。単なる、なんというか、自然と生えてきた岩だな」

「岩は自然とは生えないんだよ。少なくとも事務所に急に生えたりはしないんだよ」

「だから別次元に生えてるんだって」


 この数時間、たびたび同じやり取りを繰り返している。初めはキバチが酔っていて話を聞いていないのだろうと思っていたが、仮眠を挟んですっかり酔いが覚めてもこの調子なので、単に馬鹿なのだと気づいた。

 そもそも、別な次元がどうこうという話になると俺自身もオリガ達から断片的に聞いていることの受け売りなので、キバチの根本的な疑問には答えることができない。


「ああ、もう、嫌。充電減ってきたし」キバチは端末の画面を確かめて舌打ちした。

「今、何時?」と俺は聞いた。

「四時半」

「そろそろ朝か……あと三十分くらいしたらオリガを呼び出してみるかな」


 寝ていたはずのソファの上にオリガがいなかったのは気掛かりだが、彼も自分の体力配分のことは心得ているだろうから、どこかで体力を取り戻しているだろう。


 オリガは他の特技者が生み出す次元の歪みを目印に瞬間移動する。俺がこの洞窟を大規模に破壊すれば、オリガはその歪みを目印にここに飛んで来られる。そしてオリガは自分が接触している他の人間を連れて飛ぶことができるから、ここからの脱出も、おお達が向かったとまやまへの移動も、オリガの能力に乗せてもらえば俺の労力は最小限で済むはずだ。

 不測の事態はあったものの、今のところ予定は順調だった。


「腹減ったな」俺はつぶやいた。「戸棚にクッキーとか入ってた気がするけど」

「ふーん。まず戸棚がどこなんだい」キバチはますます不機嫌面で言った。


 岩に埋もれてしまった事務所のあれこれはわりとランダムに散らばっていて、もともと隣り合っていたものが隣同士に埋まっているわけでもない。適当に洞窟内を探索し、それらしいところの輪郭線を片っ端から剥がして探す以外にない。しかも、俺の能力は隣り合うもの同士を連鎖的に消してしまうことが多いので、岩の中に埋まったものを消さずに取り出そうとするとかなり慎重にやる必要がある。

 面倒くさい。


「お前、何か食べ物出したりできないの?」俺はキバチを見た。

「出せるならとっくに出してるよ」

「そりゃ、そうだな」

「出せたところで、君には渡さないけどな」

「ああ、そうかい」


 だったら一人でどこか行けよと言いたくなってしまうが、元はといえば俺たちが実質こいつを誘拐する形で連れてきたんだっけ。


 その後も適当に足場の良さそうな道を進みながら食べ物や使えそうなものを探してみたが、成果は特になかった。

 朝と呼べる時間になったので、オリガを呼ぶために少し多めに岩を消してみた。辺りを覆う岩の壁が消え、天井が消え、高い吹き抜けのような巨大な空洞が生まれたが、オリガは現れなかった。


「ちょっと……君はほんとに見境が無いんだな」キバチが端末のライトを上に向けながら、唖然とした様子で空洞を見上げた。

「だって、洞窟壊すのに見境とか作法とかあるかよ」


 立て続けに三度ほど剥がし、そのたびに空っぽの暗闇が増えたが、状況は変わらなかった。


「もう、これ以上はやめてくれない?」キバチの声がだいぶ不安そうになっていた。「広すぎると先が見えなくなって危ない。僕の端末もこれ以上充電が持たないし」

「うーん。しかしここから出る方法って、あとは一方向に掘り進めるくらいしか無いかも」


 オリガが来ないとは思っていなかったので、他の脱出方法を考えていなかった。自力で岩を掘り進めるしかないのだったら、無駄な時間稼ぎをせず、端末の充電が減る前に動き始めるべきだった。俺の能力は物の輪郭線が自分の目に見えていないと使えない。完全な暗闇は困る。だからこそ、自分の端末の充電を長持ちさせたくてキバチの端末ばかり使わせてきたのだが。

 俺たち二人の端末を最大限に賢く使っても、あと一時間も持たないだろう。

 一気に不安が押し寄せる。


 オリガの状態も心配だった。体力の回復が追いついていないのか、何か別なトラブルがあって能力を使えないのか。単純にここが特殊な空間で、オリガから俺の能力の発動が見えていないだけなら、まだ良いのだが。


 無意識に溜息が出ていた。


「助けがいる?」キバチは光量を絞った端末のライトを掲げながら、相変わらずのうんざり顔で聞いた。

 つるりとしたモデルっぽい顔立ちが、今は不機嫌な表情のせいでかなり歪んで見える。

「助けって?」と俺は聞き返した。

「僕の力を使うかってこと」

「お前の力? 何かできるのか。他人を特技者にすること以外に」

「いや、それしかできないけど」キバチは端末を持っていない方の手を大きくパーの形に開いて、俺の顔へ向けた。

「えっ、待って」思わずのけぞって避けた。「俺に何か新しい特技を植え付けるの?」

「それが僕の特技だからね」キバチは頷いた。

「特技者に、別な特技を足すことができるのか?」

「一時的にはできるよ。何も持たない人に能力を付ける場合と違って、特技者に別な特技を追加しても効果は長続きしないんだけどね。でもスジが良い人だと十日間くらいはダブルで能力使えてた。君もたぶん、スジは良さそうだよ」

「なんだよ、スジって……」

「僕にもわからないけど、なんとなく見えるんだ。その人のキャパシティみたいなのがさ」

 こいつに限らず、特技者はよくこんな言い方をする。わからないけど何故か見える、みたいなことを。そして俺自身、特技を持ってからは何度かその感覚を味わっている。


 見えるんじゃしょうがないな。きっと俺にはそのキャパシティとやらがあるのだろう。


「いや、でも、お前がくれるのってモノレールの沿線でしか使えないような特技だよな」

「別にそんなことはないよ。それは最近接触した相手がみんなその瞬間にモノレールに乗っていたからというだけ。僕が与える力は場所に紐付きやすいんだ。こうやって――」

 キバチは俺の眼前に大きく開いた手をかざした。

 流れるような動作で、避ける暇もなかった。

「――力を引き渡した瞬間に居た場所や、直後に本人が向かった場所が、重要になる。そこにもう一度足を運んだときしか特技が発動できなかったり、その地点の地形や建物に特化した特技が生まれたり」

「待て、与える特技の内容をお前は決められないのか?」暗闇に次の一歩を踏み出そうとして、俺は強い目眩をおぼえた。


 抗いがたい力に押し潰されるような感覚があり、気付くと足元にうずくまっていた。目の前に冷たくざらついた岩の床が見える。体勢を戻そうとして思わずそこに手をつくと、何故かその感触は真っ平らな鏡のようだった。


 というか、鏡だった。


「僕が決めることなんか何もないよ。僕が与える力は常に、イメージしたものを出現させる力だ」

 キバチは端末の光をこちらに向けた。鏡面に光が反射して眩しい。

 少し力を込めて掌を押し付けると、足元の岩を覆うように鏡がさらに広がった。

「端末の充電が切れそうって話してんだから、懐中電灯をイメージしてくれないかな」キバチは小馬鹿にしたように溜息をついた。「なんで平らで光るものをイメージしちゃうのか」

「端末の話をしてたからだろ」懐中電灯をイメージし直そうとしたが、さらに鏡の面積が広がるばかりで、うまくコントロールできない。

「君は発想が貧困だな」

「でもこれで少し明るいし」目眩が治まったので、俺はなんとか立ち上がった。

 キバチの持つ端末の明かりが鏡面に反射して、先の方までぼんやりと明るい。この数時間、ほぼ手探りで歩き回っていた場所も、全体像が見えると単純な空間だった。


 それに、足元が鏡面になるととても歩きやすい。踏んだら割れるのではないかと初めは不安だったが、びくともしなかった。俺が無意識にイメージする端末の硬さが反映されているらしい。

「しかし、だとすると鍵山の出してたあの気持ち悪い柱とモジャモジャって、あいつがイメージしたものなんだな……」

 なんか性格歪んでそう。リナコは黒く巻きつく帯、穴井は天井に張り付く傘みたいな大群だったか。趣味が悪い奴ばかりだ。


 辺りが明るくなってようやく、キバチが裸足だったことに気づいた。

 ぺたぺたと鏡面を踏む青白い足が、どちらも乾きかけた血で薄汚れていた。鏡面にも生々しい足跡がくっきりと残る。足の裏のマメが破れて出血しているようだ。

「大丈夫? 足……」

 思わず聞くと、鼻で笑うような感じの短い溜息が返ってきた。この足で岩場をずっと歩いていたなら、一歩ごとに死ぬほど痛かったはずだ。不機嫌な顔にもなる、というかよく不機嫌面程度で我慢できたな。

「言ってくれれば、靴下だけでも貸したのに」

「いや、結構」キバチは靴を脱ごうとする俺を片手で押し留めた。

「そりゃ、人が使ったのじゃ嫌だろうけど……」

「そういうこと言ってるんじゃないよ。君が靴擦れでも起こしたら結局僕らが助かる確率は下がる」

 いよいよ歩けなくなったら俺のことだけ先に行かせるつもりだった、とキバチは説明した。二人とも歩きづらい状態よりは、片方でも万全に歩けたほうが脱出しやすい、という理屈らしい。

「でもそれって、先に脱出した俺が助けを呼ぶなりしてお前を救助しに戻るはずっていう話だろ? 俺、お前にそこまでする義理は無いんだけど」

「だとしても、君と一緒の空間で死なずに済むんなら、僕にとっては得でしかない」

「あっ……そう」


 とりあえず下が鏡面になったことでキバチにとってもかなり歩きやすくなったようだが、血だらけの裸足の奴がいる隣を靴で歩くのもだいぶ気分が悪い。彼にしてみれば「嫌いな奴の気分を悪くしてやれて得」ってことなのか?

 そもそも原因の一端は屋内で寛いでいたキバチを俺とオリガが急に攫ったせいなので、強くも言いづらかった。


 急斜面や障害物のような大岩を避けながら足元の鏡面を増やし、なるべく見慣れた事務所の片鱗が見える方へと進んだ。輪郭線を剥がして洞窟を丸ごと消してしまいたかったが、オリガが当てにならない以上、やりすぎて事故になるのも怖い。それでも視界が開けたことと、足元の凹凸を無くせるようになったおかげで、探索は一気に捗った。


 異常の震源地と思われる事務所の入口を発見したのは、朝六時頃だった。サッシ戸の上半分を占める磨りガラスの向こうに、淡い日差しが見えた。戸の周りは僅かな床面を残して岩に覆い尽くされているから、通常では見えるはずのない日差しだ。


「これ、外に繋がってんのかな」

「繋がってなかったら僕はそろそろブチ切れるよ」とキバチは言った。

「いや、でも、俺にキレられてもな」

 磨りガラスの角に指を当てる。ガラス越しの光のおかげで、端末のライトを使わずとも輪郭線がくっきり見える。

 ペリペリと剥がすと、磨りガラスはサッシ戸もろとも裏返って消え、その周りの岩の塊も引っこ抜いたように消えた。


 晴れた朝の自然光が目に痛いほど眩しい。

 俺とキバチは事務所前の駐車場に放り出されていた。

 振り返ると、事務所があった場所には岩と事務所の複合体がそびえていた。事務所のプレハブと中の備品の他に、駐車場の縁石や植栽の一部も飲み込まれているようだった。


 唖然として見上げていると、グレーのコンパクトカーが駐車場に入って来た。


「ヒナモトさん、無事でしたか」

 車は俺たちの目の前に横付けになり、助手席側の窓が開いて運転席の女が会釈した。


 若いが化粧っけがなく、事務員のような服装だ。表情や声色に表れる感情も薄そうで、捉えどころがない。

「小林です。連盟の……前に一度だけご挨拶させていただきました」

「ああ」と俺は言ったが、記憶にはなかった。何回か事務所に顔を出した際に、その場に居たメンバーとは一応挨拶を交わしているが、だいたい出動明けなので疲れていてほとんど頭に入らない。

「オリガ君は、やっぱりいませんか。そちらは?」小林はキバチの顔を窺った。

「どうも。キバチです」とキバチは真面目くさって応えた。

「Nコートに囲われてた新しい特技者だ」と俺は言った。

「大佐戸さんの言ってた人ですね。とりあえず二人とも乗ってください。このまま苫山に向かいます」

「けど、あれはどうする?」俺は後部席のドアを開けながら、後ろにそびえる岩山を振り返った。

「まあ、あれは……後で片付けましょう。そこだけで収まってくれてれば、害は少ないでしょうし」

 小林はキバチが乗り込んでドアを閉めるのを待ってから、発進した。

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