秋茜、中秋節、もみじ饅頭

 日が沈み、ようやく涼やかな風が吹き込むようになった夕暮れ。開け放たれたし窓の向こう側の縁側で、すい、と彼の目の前を赤い色が横切った。

 数秒前のデータから対象物を抽出し、無害なものだと確認する。画像認識と抽出の精度は人間のそれと変わらない。膨大なデータへ瞬時にアクセスできる次世代無線BNGN演算装置プロセッサのおかげで、未知のものでない限りはほぼ瞬時にあらゆるものの識別が可能だ。


「未知のものなんて、君にはあんまりなさそうだけれどねえ」


 その名の通りいつもどこか春めいた気配を漂わせる彼の主人マスターは、つい先ほど目の前を高速で横切っていったそれを指先に載せて、へらりと笑う。


「ひどいなあ、人を昼行灯ひるあんどんみたいだなんて」

『勝手に覗き見した挙句、人の発言を改竄かいざんするな』

「覗き見なんてしてないよ。君の考えることくらいもうお見通しなだけ」

『そもそも俺は情報をして出力するだけでたりなんかしない』

「はいはい」


 うんざりしながら春明はるあきの余裕の笑みを浮かべた顔を見つめていると、その指先から赤いトンボが驚いたように飛び去っていく。


「アカネ、まだ用事は終わっていないよ」


 春明がすい、と指先を動かし、何事かを呟くとトンボはわずかに宙で旋回し、行きつ戻りつしていたが、やがて何かを諦めたかのようにその指先へと戻ってきた。


 それは、明らかに人の言葉を解しているようにしか見えない。機械学習と学習基盤の進歩により、ありとあらゆる生物の解析が進み、行動原理や生態についての知見はここ十年で驚くほど進歩した。だが、それはあくまで外部からの観察や遺伝子データの分析によってなされる客観的なものだ。こんな小型の虫が——捕食等による本能的な回避行動は別にして——こちらの意図を理解するなどあり得ない。


『それはだ?』

「自然の方だねえ。たまにいるんだよね、年経たわけでもないのに、こうして仲良くしてくれるものが」


 まあ、彼らはずっと人里に近くあるものだから、と全然わからない理屈で納得させようとする春明に、彼はもう一度うんざりとため息をつく。


 春明はこの現代において——彼からすればなんとも常識外れな——陰陽師の惣領という役割を担っている。こよみを読み解き、神事を司るだけならまだしも、なんの変哲もない紙に何かを書きつけただけで鳥に変化させたり、天候を変えたりする。後者については偶然だよ、と春明自身は笑うが、十度の試みトライアルで十度の想定結果リザルトが得られれば、それはもう偶然とは呼べない。彼でさえそう認識せざるをえないような。


 異常アノマリー例外イレギュラーも慣れたつもりでも、通常データの範疇を超える事態には、処理機構が混乱すバグるおそれがある。それを避けるために彼にも人じみた反応リアクションが導入されているのだろう、と最近ではそう推察している。

 ともあれ、こうして例外事例をまた蓄積する。例外も積み重なれば、許容範囲内となっていくのだ。人はそれを諦めとも呼ぶようだが。


「難しいことを考えてないで、ほら、月が綺麗だよ」

 唐突な言葉に、それでも指さされた方を見上げれば、真円に近い黄色い月がぽっかりと空に浮かんでいた。

「中秋の名月、綺麗な満月だねえ」

『正確には月齢14.1だがな』

「風情のないこと言わないの。中秋の名月といえばお月見、お月見といえば月見団子。もしくは中秋節で月餅げっぺいと相場が決まってるでしょ」

『この国では、どちらももうそれほどポピュラーではないようだが、必要なら取り寄せるが?』

「ああ、それならもう大丈夫」

 すい、ともう一度春明が指を振ると、止まっていたトンボは身を震わせて、それから奇妙な光がふわりとあたりを照らす。それを、今度こそ彼は頭を抱えた。視覚機能はそれを捉えているのに、熱源センサーの反応はゼロ。そこにないはずのものが見えることを、人は幻覚と呼ぶ。それは概ね脳の機能障害を起因とするもので、だが彼には中央演算装置CPUは搭載されていても脳はない。


 機能停止寸前まで混乱する彼をよそに、春明はにこやかにそれ——白い小袖に鮮やかな赤い袴を纏った子供に笑顔を向けた。


「アカネ、ご苦労様」

『土御門の惣領殿も息災そうで何よりでございます。安芸の御方より、豊穣の祭りの前のご挨拶と、美味なるを見つけとのことで、ご進物をお持ちしました』


 艶やかな黒い髪を背中でゆるく白い紐で括った子供は丁寧にお辞儀をすると、手に持っていた紫色の包みを差し出した。春明が恭しく受け取って、膝上で開くとそれは黒塗りに鮮やかな金の蒔絵が施された重箱だった。開けた箱の中にはいくつもの白い包み。


『なんだそれ』

 思わず口を挟んだ彼に、春明はほんの少し意外そうに目を見開いて、それからくすりと笑って白い包みの端から切り開き、彼の方に差し出した。手のひらにちょうどのるくらいの大きさの茶色いそれは、子供の手のようにも見えるが、検索結果は菓子だった。

『もみじ饅頭』

「月餅とは違うけれど、これまた秋にぴったりのお菓子だねえ。新作だというから、中身はなんだろう。おれとしては、やっぱりオーソドックスなこしあん派なんだけど」

『表層部の成分は、小麦粉に砂糖、植物油脂、卵。内部の餡?は、砂糖を筆頭に植物油脂、乳化剤とそれからピスタチオ』

「ちょっと、食べる前からネタバレしない!」

『これだから風情を解さぬ機械というものは好きませぬ』


 主人の抗議の声に我が意を得たりとばかりにツンとそっぽを向いた子供に、彼としてもこんな異常値集団はごめんだと思いながらも、ふと異常な伝達方法プロトコルで漏れて届いた思考こえに、乱れていた演算機構アタマが瞬時に冷える。


 ——トオヤがいるから本当に安心だねえ。


 聴力を失った春明のサポートとなるべく配備デプロイされた彼に、食物の成分分析機能までもが搭載されたのは、その身の安全を図るため。


 同時に関連情報としてロードされた過去の記録に対する感慨を、表に出さないくらいは彼にとっては容易なことだった。

 それでもきっと、彼の主人は気づいてしまうのだろうな、と思いながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

可視聴域 橘 紀里 @kiri_tachibana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ