傘、香り、自転車

 梅雨の時期になると、春明はるあきは少し憂鬱になる。雨というものは、視覚的にわかりやすいが、音による知覚もはっきりしている天候の一つだ。特に彼の住まいはもはや前時代の遺物のような懐古主義的日本家屋で、ひとたび雨が降り出せば、天井を打つ音が耳をろうするほど。

 けれど、沈黙の中に閉じ込められてからは、そんな一切が消えた。読書に没頭していれば、窓を打つ激しい雨も、家を揺らすような暴風も余程のことがなければ気づかない——気づけない。それが大きな問題ではないことが、逆に気鬱の原因なのだと彼はそろそろ自覚し始めていた。


 窓の外、軒下には見慣れた自転車が吹きつける雨風に濡れ、雫をしたたらせている。

 ぼんやりとそれを眺めていた視線を切り離し、手近にあったすずりで墨をる。役目柄、紙と墨ばかりは最高級のものが支給されてくるから、天然の香料を混ぜ込んだ墨は、磨るたびに柔らかく心地よい香りを放つ。

 その香りを胸に吸い込みながら筆を取り、細長く白い紙に、人からはよく褒められる流麗な文字ですらすらと書きつけた。舌に馴染んだ古い言葉は自分の耳には届かなくとも、瞬時に顕現した変化できちんと紡げていることを確認し、ほっと胸を撫で下ろす。そんな自分にまたうんざりして、辺りを飛び回る小さな白い鳥を苛立ち紛れに握りつぶそうとした刹那、横から大きな手がするりとさらって隣の部屋へと放り出した。


ことわりつかさどる陰陽師がかなわないことをするな』

「人間なんて理不尽な生き物だよ。それくらい見逃してもらえないものかねえ」

『それでお前の気が晴れるなら考慮しないでもないが、余計に落ち込むのがわかっていて許容する意味がない』


 くるくると折りたたみ傘をしまいながら呆れたようにそう言う彼の相棒は、短い髪に、鼻筋の通った端正な横顔。一応この日本エリアに合わせて東洋系のモデルをベースにしているし、最新鋭の躯体ボディはほとんど人間と見た目が変わらない。何をどうしたらこんな精巧なモノが作れるのか、機械工学どころか携帯電話スマートフォンすら使いこなせない春明にとっては理解の範疇外なのだが、雨の日に出歩くのには、ここ数百年——折りたためるようになったことを別にすれば——さして進化していない傘というアイテムが欠かせないのだから、技術の進歩というものはやっぱりよくわからない。


『なんだそりゃ。雨よけバリアでも出せってか? コストが見合わねえわ。それよりあんなものが飛ばせるなら使いをやらせりゃあいいじゃねえか。物理にこだわるなら』

 呆れたようにそう言った視線は隣の部屋をぱたぱたと飛び回る白い小鳥を追っている。

「おれの式神しきは紙製だから濡れたら溶けてしまうからねえ」

『なら、普通に郵便で送るかデータ転送にすればいいだろう』

「一応問い合わせてはみたんだけど、呪物はお断りだって」

『……お前、いったい俺に何を運ばせたんだよ?』

「残念だけど、機密情報だから君にも話せないねえ」

『郵便もデータ転送もダメで、俺ならいいとかどういう制限だよ』

 これだから、陰陽師なんて非論理的な存在は、と毒づいた相手に春明は首を傾げる。


 彼が使う呪術と呼ばれるものは、型通りの呪符を描き、祝詞のりとを唱え、そこに必要な力を込めるだけ。物心ついた時にはっていたそれは、今の彼にとっては余人には伝わらなくとも明確な手順でいつでも再現可能な科学サイエンスだ。


『そんなものを科学と言われたら、科学者どもが泣くぞ。ともあれ、気鬱の原因がわかっているなら写経でも読経でも座禅でも心の落ち着くやつをやったらどうだ』

「なんで坊さんみたいなことしなきゃならないのさ。おれだって人間なんだから、たまには破壊衝動に身を任せて気分転換したいときだってあるんだよ」

『悪の化身か。全然理解できねえ』

「君はおれのサポート担当なんだからもうちょっと人の心とか情緒を解してくれてもいいと思うんだけどなあ」

『あいにくと俺には心なんてものがないもんで』


 平然と肩を竦めた様子はごく自然で、本人が言うように「心がない」なんて信じられない、と春明は思う。人の脳の処理速度をはるかに超える高性能な複合ハイブリッド演算処理プロセッシング装置ユニットを搭載し、春明の個人情報をこれでもかと詰め込まれてその生活サポートに特化カスタマイズされた彼は誰よりも春明のことを理解している。春明が何を考え、次にどういう行動をとるのか。ほとんど予言じみたレベルで正確に把握してしまうのだ。


 ——今し方、やったところで後悔するしかないような馬鹿げた行動を阻止してくれたように。


「まあおれも、問題トラブルが起きた時には解決策ソリューションにしか興味がないから、人の心がない、なんてよく言われるけどねえ」

 惣領という立場であれば、持ち込まれる問題は大概が山火事レベルでの厄介ごとで、まずは起こさないことが第一、起こってしまった時には何よりも速やかに鎮火させることが求められる。そうした冷静な判断を冷徹だと非難されるのは、理解はできても共感はできない。だが、そういうものだと春明はもうずっと前から穏やかな諦念と共に受け入れていた。

 理解されないことなど当たり前で、だからむしろこの目の前の人でさえないモノが正確に彼の状態を把握し、内情を理解して最適な行動をとってくれることに戸惑いはあったものの、慣れるまでにそう時間はかからなかった。なぜなら、それには人の心などないからだ。

「ねえ、トオヤ」

『何度も言うが、俺にはちゃんと納品時に設定された個体識別名がある。そんなおかしな呼称をつけるくらいならもういっそ型番で呼べ』

「いやだよ、あんなダサい名前。あと型番ってHPC-4GAI-108-5963って? 長いし堅苦しいのにダジャレみたいだし、不便すぎでしょ」

『……覚えてるのかよ』

 目を見開いた表情は、やっぱりごく自然に驚いているように見えて、これが心や感情の働きではないと言うのなら、一体なんだというのだろう、と春明はそれまでの鬱屈も忘れて思わず声を上げて笑ってしまう。その音は届かなくても、振動として自身には伝わる。


 そんな春明に、相棒はうんざりしたようにため息をつきながらも窓の外を眺めてぽつりと言う。

『まあ、雨が止んだら行くか』

 視線の先には、春明が眺めていた自転車があった。その意味に気づいて、今度は彼が息を呑む番だった。

「……医師せんせい製造元ベンダーから止められてないの?」

『俺をなんだと思ってるんだ。お前の耳になるためにここにいるんだぞ』

「それでも、余計な危険リスクを犯す必要はないだろう」


 聴覚を失うということは、危機察知の能力の一部を失うということでもある。そして、春明に万が一のことがあれば、その個人情報を大量に保存している機械トオヤ記憶装置メモリーごと廃棄スクラップされてしまう。

 だから、春明が何を望もうと、それが一般生活を営む上で必要でなければ対応する必要はないはずだ。言わなかった言葉はどうしてか伝わってしまったらしい。


『そうだよ、お前がストレスで早死にでもされたら、俺もすぐに廃棄だからな』


 心などないが、自己保全機能に従って、合理的に最適な行動をとっているだけだ、と。腕組みをしながらそっぽを向いて言う顔に説得力が全くないことに、本人はきっと気づいていないのだろう。


「素直におれが心配だから、って言えばいいのに」

『ああ!? 4GAIの意味わかってるか? 第四ザ・フォース世代ジェネレーション人工アーティフィシャル知能インテリジェンスだ。心配なんて、非合理的なものの持ち合わせはない』


 自己保全のためであれば、そんなリスクのある行為は拒否するのが最適解だ。なのに、本来の役割ではない春明の精神的ケアまで担うそのが、一般的に人間がもつ優しさや思いやりとほぼ同等の機能を持つのであれば、それは心があるのと変わらない。

 そう思いはしたけれど、口にはしなかった。きっと、言わなくても通信方法で伝わってしまうだろうとわかっていたので。


 晴れ渡る空の下、彼と一緒に風を感じるサイクリングはきっと気持ちがいいだろう。とりあえず雨乞いの呪符でも描いておくかと再び筆を取った春明に、合理的な機械である相棒はやれやれともう一つため息をついた。


 呪符が完成してすぐに、ぴたりと雨が止んでしまうのを予見していたかのように。

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