第5話

 妻は日中の殆どを一階のリビングで過ごしていた。それに対して純也に不満はない。ずっと傍に居て欲しいというような気持は彼になく、時折の物音や気配だけで満足だった。

 2階のカウチで目を瞑り、意識を深い所まで沈降させる。視覚を遮断し、ひじ掛けを触る触覚までも閉じ、聴覚だけを開放すると、鋭敏に研ぎ澄まされた神経が僅かな物音を探知する。

 妻の足が床を打つ音やドアを開ける音、それらは極小のノイズに過ぎなかったが、妻が間違いなくこの家にいる証拠だった。

 しかし、予期せぬ闖入者は一ヶ月も経たないうちにその気配の中に紛れ込んできた。それは妻とは違うもう一つの物音だった。

 最初、純也はそれを気のせいだと思った。いくら神経を研ぎ澄ませたからと言って、広い家中の物音や人の気配を完璧に把握できるわけではない。海が荒れているときなどは、妻の物音すらも容易に聞き落とす。

 そう、これは勘違いだ。家に自分達以外の人間がいるはずがない― 必死に自分に言い聞かせる彼の考えとは裏腹に気配は日増しに明確なものになって行った。

 頻度や時間に一貫性は掴めなかった。1週間以上その気配が現れないこともあれば、立て続けに5日、間断なく現れたこともあった。気配の不確実性はもどかしく、純也を悩ませた。

 妻の気配しか感じられないときも、聞き落としているだけで、何者かは妻と1階のリビングにいるのではないかという妄想が頭に張り付いて離れなかった。


 何者かが確かに妻と一緒にいる。外で会えないのであれば、中で会えばいい。自分が階下への移動が困難であることを思うと、そう考えるのは自然だろう。一度は妻の不貞を抑え込み、自分の世界を守ったはずだった。だが、妻はそれを破ってまで不倫を続けようとしている。妻の反抗は純也の心に少なからず、衝撃を与えた。

 どうすればいいのか、彼には分からなかった。すぐそばで交わされる蜜月のやり取りを、自分はただ指をくわえてみていることしか出来ない。

 当初沸き起こった怒りの念も、日々聞こえてくる物音に対する無力感で少しずつ脆弱になって行った。威勢を剥がされ、剥き出しになった心の鞍部には恐ろしいほどの怯懦な性格が潜んでいた。

 彼はもうこれ以上満たされる事のない欲求と自尊心を守ることで必死だった。それはそれらを失った自分がどうなるかを知っているからだった。

 連日、少年期のいじめや孤独の日々が夢の中で彼を圧迫した。もうあの頃には戻れない。戻るわけにはいかない。

 あくる日も、そしてそのあくる日も階下の物音が彼を苦しめた。

 圧迫され、愁苦する心は無意識のうちにその逃げ場を探した。

 彼女はもしか、浮気などしていないのではないか?― 確かに妻が不貞を犯しているという確証はどこにもない。直接その現場を見たわけでもなければ、そのやり取りを耳にしたわけでもない。自分の不安の殆どは推測の中で組み上げられたものだ。ならば、必ずしも妻が浮気をしているとは言い難い。そうだ、そうに決まっている。妻は浮気などしていない。

 それは、今までの理知的な思考からは想像もできない妄言だったが、その荒唐無稽さを正常に判断できない程、彼の精神は摩耗していた。


 希望は一時、彼の心を癒してはくれたが不安を払拭してくれるほど強力ではなかった。その希望にすがろうとすればするほど、純也はその確証が欲しくなった。

 妻は浮気をしていない。そう心に留め置ける絶対の安心が欲しい。それさえあれば、自分の世界は再び充足に包まれるはずだ。

 だが、どうやってそれを確かめればいい。

 その答えはある日突然、純也の中に降って湧いた。自らが階下へ降りて行き、妻が何をしているのか確かめればいい。あまりに当たり前すぎて、今まで気が付かなかった。

 事実を確かめることへの臆病の余燼が、彼に制止を促したが彼はそれを跳ねのけて、カウチからおもむろに身を起こした。

 今日、海はいつも以上に穏やかだった。目を瞑り、意識を階下へ集中させると、妻ともう一つの物音が時折、リビングを横断する音がはっきりと聞こえてくる。

 乾いた唇を舐め、深呼吸をすると純也はゆっくり、カウチから滑り降りた。両太ももにある切断面が床に触れ、ひんやりとした感触が骨の奥まで染み込んでくる。

 彼はベッドサイドまで這いずっていくと、畳んだまま未使用になっていたタオルを二本手取り、両腕に巻き付けた。

 彼は這いずって階下へ向かうつもりだった。車イスもあるにはあったが、階段を降りることや音を立てる危険性を考えるとリスクが高い。もし、自分の気配に気づかれ、下手に取り繕われてしまえば妻が浮気をしていないという確証得る意味が無くなってしまう。誰にも気づかれることなく一階へ降り、事実を確かめなければならなかった。



 これまで、純也は両足を失う事に対する精神的な不便さばかりに辟易してきたが、ここにきて肉体的な不便さをほとんど初めて実感した。足を失うという事は、移動の手段を失うだけではない。部屋にあるものすべてが、今や目線よりはるか上の高さに位置していた。

 そんな状態では自室のドアを開けることもままならなかった。ドアノブは名一杯腕を伸ばしてやっと指先が触れる絶妙な位置にあり、廊下へ出る頃には肩から首にかけて、締め付けるような鈍痛が走っていた。

 廊下に出ると、世界はさらに広がりを見せた。ほんの数十mもない廊下がどこまでも続く果てしない回廊に見え、天井は高く上に伸びて、湾曲して迫ってくるようだった。

 階段は切り立った崖だった。サッカーは足腰の筋力を養うスポーツだ。腕や上半身の体力は下半身に比べると、そこまで丈夫ではない。両手で一段一段、体を支えるようにして降りていく内、腕の筋肉は痙攣し小刻みに震え始めた。それでも何とか耐えたのは、少しでも気を抜けば、段差から転がり落ちるという恐怖からだった。

 踊り場まで来ると、物音はもはや意識せずともはっきり聞こえてくるようになった。妻の足音と重なるように、別の音がしている。

 階段を下り切り、リビングのドアを開けると見たこともない男がいて、妻と仲良く腕組みをしてテレビを見ている― そんな妄想が一瞬、純也の頭を過り、ない足を竦ませた。

 しかし、実際階下まで下り切った彼が最初に目にしたのは、玄関に並んだ黄色いスニーカーだった。

 フッと何かが切れる感じがあった。疲労でしびれる掌を握りしめ、純也は固く下唇を噛んだ。長い時間をかけて薄れ、貧弱になっていた怒りが一種の洪水のように心へ押し寄せた。

 それは陸人のスニーカーだった。彼がよく履いていたもので、彼もはっきりとそれを覚えている。怒りはそれまで心にあった希望を洗い流し、残酷な事実を彼に突き付けてきた。

 やはり、妻は浮気をしている。紛れもない事実だ。そしてその相手は南条 陸人。自分よりも下の馬鹿な男。憤然とした怒りは一瞬にして殺意に変わった。陸人、そして妻、自分の手から離れるのならいっそ―

「でも、どうしてですか、真梨香さん。純也に隠せっていうのは」

 陸人の声がリビングから響き、純也の思考が遮断された。

「だって、あの人が知ったらきっとショック受けるから……」

 応答したのは妻の声だった。

「うーん、そういうもんですかね、でも説明すればきっと分かってくれるはずですよ。だって、家の中じゃあ出来る事も限られるじゃないですか……こんな物よりももっと割のいい“仕事”だって、」

 仕事?― 床を這いずり、ドアの隙間から中を覗き込んだ純也はハッと息をのんだ。

 リビングの床に所狭しと積み置かれた段ボール箱。ダイニングテーブルに腰かけた妻と陸人の手元には、積みあがった幾冊もの冊子と封筒がある。口の開いた段ボールの中にはそれらが、封入され梱包されるのを待っていた。

 何をしているのかは理解できたが、それに思考がついてこない。

 なぜ、妻が内職などしている―

 そして、陸人がそれに付き合っている―

「私が夫のためにアルバイトしてるって知ったら純也はきっと傷つくと思うの。足を失って、ふさぎ込んで……彼にはこれ以上、傷ついてほしくないから」

「でも……」

「それに、南条君には感謝してる。私のアルバイトのこと、夫に黙ってくれてたし、こうやってチームの仕事を回してくれるだけじゃなく、一緒に手伝ってくれて」

「いやあ、自分もなかなか、食っていくのは大変ですから。こうやって、真梨香さんと喋りながらやってると気が紛れますし……でも、その、収入の方そんなに厳しいんですか?」

「まあ、ね。貯金もあったんだけど、事故の後、CMとか広告の違約金がなかなか痛くって。貯金だって、いつまでも残るわけじゃないし、私が稼いで夫を支えないと」

「自分に出来る事なら、なんでも言ってください。純也さんは同期でそれに自分の憧れですし、」

 そこから後は聞かなかった。怒りの念はいつの間にか消え去り、心には冷たい空漠が残った。純也はドアからそろそろと離れ、再び二回へ戻って行った。腕の力だけで階段を昇って行くのは、相当の苦労のはずが、彼の思考はその苦痛や徒労とは全く別の場所にいた。

 妻の外出時間がなぜ長かったのか、陸人はなぜ嘘を付いたのか。真実は自分が想像だにしなかった場所にあった。彼女は長い外出時間の間、アルバイトをしていたのだ。陸人は彼女に見つかり、説得された。外での仕事を禁じられた妻は陸人を頼りに内職を見つけてきた。それも、自分がかつて所属していたサッカーチームの内職を。






 自室まで辿り着くと全身を虚脱感が襲った。自室のドアに背中を預けたまま、部屋を見回した。黒いカウチとガラスのテーブル。何一つ不自由のない世界はそこになかった。充足も満足も存在しない。遠くで穏やかな潮騒が永遠の反復を繰り返している。

 純也は腕に巻き付けていたタオルを解くと、おもむろにドアノブへ引っ掛けた。丁度輪になるように固く結び、両手でそれを握る。

 懸垂の要領で体を持ち上げようとしたが、数センチで手がしびれ途端に体がずり落ちる。

 深呼吸をすると、純也は再び体を引っ張り上げた。首まで、首まで届けばいい。

 あと少し、あと少し……




おわり


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あと少し…… 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

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