終章【感謝】2

  “小さな姫君へ


 また、暑い夏の季節になりました。毎年のように蝉はうるさく鳴き、真っ青な空には真っ白な綿のような雲が浮かびます。窓から見える木々も深い緑の葉を枝に付けて、真夏の日光を一身に受けては、それに負けまいとするかのように光輝いています。今年の春の桜はとても綺麗で、雨に散らされることも無く、その花を咲かせていました。桜が見られなくなってしまうことは残念だけれども、姫君との思い出の深い夏という季節の訪れを、私は心から喜んでいます。


 大学に咲いていた、沢山の向日葵を見て、私も今年の六月末くらいに向日葵の種を鉢に蒔いてみました。種は、去年に大学の向日葵から貰いました。初めは小さな双葉だったけれど、あっと言う間に茎が伸びて、大きな葉を広げ始めました。今では、もう小さなつぼみを付けています。花開く日が、今からとても楽しみです。ベランダには向日葵の他に、慧がプランターに植えたハーブが沢山あります。どれも緑色や黄緑色の葉なので、なかなか私には名前が覚えづらいのですが、時々、そのハーブを摘んでスパゲティやスープに入れたり、ハーブティーにしたりするのが楽しみの一つです。パセリもハーブの一種だと知った時には、とても驚きました。ハーブは、意外に身近な存在みたいです。


 私が気に入っているのは、レモンバームというハーブです。葉を軽く摘んだだけで、レモンの香りが強く香ります。摘んだばかりの葉でハーブティを淹れると、心がほっとする、とても爽やかなレモンの香りが生まれます。蜂蜜を入れて飲むことが好きです。レモンバームは、別名、メリッサと言うようで、体内にこもった熱を下げる効能があるらしいです。レモンバームのアイスティーが最近のお気に入りです。


 ハーブには色々な効能があり、とても楽しいのですが、覚え切れません。私よりは断然に慧が詳しく、合う料理なども慧の方が多く知っています。バジルとオレガノを使ったトマトスパゲティは、私もおいしく作れるようになりました。


 高校一年生の時の別れから五度目の夏を、こんな感じで私は元気に過ごしています。やっぱり、ふとした瞬間に姫君のことを思い出すことは変わらないけれど、思い出して振り返るだけではなくて、私は私らしく毎日を過ごしているところを姫君に見せたいと思い、勉強や料理や読書などに力を入れています。高校の入学式の三日前に購入した日記帳は、既に文字で埋め尽くされてしまったので、これは二冊目の日記帳です。オレンジ色と黄色の中間色をした表紙に、透き通るような色で沢山の向日葵が描かれていて、私はとても気に入っています。


 慧も日記を続けているようで、この間、新しい日記帳を買っていました。その慧の日記帳は、夏の青空のように明るい、青一色のシンプルな表紙でした。夏という季節を好きになったあの日から、私は向日葵と夏の青空に憧れているようです。高く遠く、どこまでも丸く広がる青空に、まるで太陽のように鮮やかに咲く黄色の向日葵。それはとても綺麗で、強くて、でも少しの切なさがあって。向日葵に限ったことでは無いけれども、あの小さな種から小さな芽を出して、やがて、花開く過程には憧れると同時に尊敬します。そこには、何の迷いも無いように思えるから。


 振り返れば、私はあまりに幼く、迷ってばかりだった気がします。その私を、姫君と慧と沙矢をはじめとする沢山の人達が導いてくれたから、今の私がここにいるのだと思えます。これは、決して大袈裟な言い方では無いと思う。


 光も水も約束されていなくても、花は育とうとする本能のようなものがあると、私は思う。私には、その力が無かった。とても小さく狭い世界で迷ってばかりで、本当の意味で姫君までも失うところだった。そして、慧も。


 あれから私は、きっと少しずつ成長をしていると信じて毎日を大切に過ごしています。慧も沙矢も変わらず、私の傍にいてくれています。勿論、姫君も。この幸福を、私は忘れずに、大切にし続けて行きたいと思う。


 窓の外では蝉が相変わらず騒がしく鳴いていて、輝かしい夏特有の日差しが強く降り注いでいるのが見えます。木々に宿る深く強い緑の葉も。ベランダには、花開く日に向けて成長を続ける、向日葵のつぼみが。その周りに、プランターに植えられた沢山のハーブが。


 私は、夏の輝きに負けないように、この夏を過ごして行きたいと思います。そしていつか、向日葵のように鮮やかに咲くことが出来たら。もしも、また姫君に出会えた時は、今度は心配ばかりを掛けないで、私はこんなに成長したよと言えるかなと思っています。ささやかな、私の祈りです。


 そろそろ、レポートに取り掛かります。色々なことを学べば、色々な考え方が出来るようになると思う。可能性は、いつだって大きく育てて行きたいと思っています。それでは、また明日。”






 かちゃん、と鍵の開く音がして、続いてドアの開く音がした。私は日記帳に桜の花びらのしおりを挟み、机の棚に、そっと戻した。


「ただいま」


「おかえり」


 私が椅子から立ち上がると、慧はいつものように、その大きな手のひらを私の頭に置く。瞬間、私の体には慧の体温が、私の心には慧の優しさが伝わって来る。私は、この一瞬がひどく大切で、とても愛おしい。


「何してたの?」


「日記を書いていたよ」


 私の返事に、そうか、と短く答えた慧は、一度、私の頭を撫でてから、床に鞄を置き、同様に手に持っていたビニール袋の中身を、冷蔵庫へと移し始めた。


「何を買って来たの?」


 涼しそうな、淡い青色の水玉模様がプリントされたガラスのコップにレモン液と無糖炭酸水を注ぐべく、私は慧の後ろから冷蔵庫を覗き込みながら尋ねた。


「オレンジジュース。夏は特においしいよね」


 振り向いた慧は、片手に瓶入りのオレンジジュースを持っていた。それを私の目の前で軽く揺らして見せながら、


「冷えたら飲もう。ちゃんと濃縮還元じゃないのを買って来たから」


 と、慧は私に笑い掛けながら言った。


「うん、ありがとう。慧もオレンジジュースが好きになっちゃったよね」


 私は慧と入れ替わりに冷蔵庫の前に立ち、オレンジジュースを見つめてから、レモン液と無糖炭酸水を冷蔵庫から出した。


「有来が小学生の時から良く飲んでいたからさ。家にオレンジジュースを用意しておく習慣が出来て、それで何となく俺も飲んでいたら好きになったんだよね」


 慧は、過ぎた時を懐かしく思い出すように話した。


 そして、


「一緒にいる時間が長いと、好みって似て来るのかもね」


 と、付け足して、慧はキッチンに立つ私の隣に並び、私の手元で混ざり合うレモン液と無糖炭酸水に目をやった。


「確かに、似て来るかもね。色々」


 私は、ゆっくりマドラーを動かし続けながら、そう答えた。私が右手に持つマドラーは、時折、コップにぶつかり、カチャカチャという音を立てた。レモン液は炭酸水に綺麗に溶け込み、コップの中では細かい泡がはじけては消えて行くのが見えた。


 私はマドラーを取り出し、


「はい」


 と、コップを慧に差し出した。


「ありがとう」


 慧はコップを受け取り、とてもおいしそうにそれを飲んだ。キッチンには爽やかなレモンの香りが僅かに泳ぎ、程良く冷房の入った室内では、その冷たく透き通るような微かな香りが心地好く感じられた。波を打つ小さな海が徐々に引いて行くように、慧が持つコップの中の液体はだんだんと減って行き、特に意味も無くそれを見つめていた私は、コップを口元から離した慧と目が合った。


「ん、飲む?」


 慧の申し出に私は頷き、差し出されたコップを受け取った。夏のせいなのか冷房のせいなのか、意外に渇いていた喉を自覚させる程にレモンの炭酸水は喉に染み込み、味は微かなレモンのそれしかしないシンプルな液体は、瞬く間に私の体全体に行き渡って行くかのようだった。


「あ、全部飲んじゃった」


 コップの半分くらいは残っていたレモン炭酸水は、あっと言う間に無くなってしまっていた。


「ごめん、もっと飲む?」


「いや、良いよ」


 私の問い掛けに、何故か慧は少し笑いながら返事を返した。


「何がそんなにおかしいの?」


 コップをシンクに置いて私が尋ねると、


「おかしいっていうかさ。可愛いと思っただけ」


 と、慧は答えて、私の頭を軽く撫でてからソファに座った。


 四つの年の差のせいなのか、それとも単に私が幼いのか、あるいは慧が大人びているのか、結構な頻度で私は慧に子供扱いをされているような気がしていた。私が小学生だった時には、それに頷けなくも無かったけれど、こうして大学三年生となった今でもそれが変わらないことに、私は少々の不満を覚える。それでも、私は慧の隣が好きだ。慧の座るソファに私も身を沈めながら、今日の夕ご飯はどうしようかなと私は考え始めていた。


「あ、今日は夕飯どうする?」


 すると、私の心を見透かしたかのように突然、慧が尋ねて来たので、私は少し驚きながらも、


「どうしようか?」


 と、慧に逆に尋ねてみた。


「明日は土曜日だし、外で食べようか?」


 僅かに間を空けた後、慧はそう提案して私を見た。


「でも、外は暑いよ」


 外食に心動かされながらも、私は夏の外気を思って、僅かに躊躇いを感じつつ慧を見上げて告げた。しかし、既に慧の心は外食に移っているらしく、素早くソファから立ち上がったかと思うと、私を緩く引っ張るようにして立ち上がらせた。


「お店の中は涼しいよ。はい、支度して」


 そして慧は私の手を離し、スーツを脱ぎ始めた。適度に涼しいこの部屋を出て、きっと体に纏わり付くような夏の空気の中を歩くことを思うと、やはり私はあまり気が進まなかった。けれども、流れるような動作で着替えを済ませて鞄から財布を取り出している慧を見ると、半ば諦めるような心境で、私は髪を梳かしてヘアオイルを馴染ませ、薄くメイクをするしか無かった。


 二十分後くらいに私が化粧台を離れると、


「よし、行こう」


 と、慧が私に手を差し出したので、私は頷き、慧の手を取った。


 そして靴を履く時に一度、離れた私達の手は、玄関のドアを出た時に、どちらからともなく再び繋がれた。まだ少し明るい夏の夜の中、その影が私達の前に細く伸びては揺れていた。


「やっぱり、暑いね」


「有来は、夏が苦手?」


 もやっとした夏の空気の中を歩きながら、私は、ほんの少しだけ考えてから慧に答えた。


「苦手じゃないけど。でも、暑いのはちょっと大変かな」


「向日葵には、程遠いね」


 私は、その慧の言葉に思わず慧を見上げた。瞬間、私の目には慧の横顔と共に、空に小さく輝く星たちが映り込んだ。


「向日葵、好きでしょ」


 私に視線を合わせ、確認するように慧は告げた。


「好きだけど、話したことあったかな?」


 その私の疑問は、ささやかな驚きと喜びと共に、夏の夜空にすぐさま霧散した。


「ベランダの向日葵、良く世話しているし。外を歩いていて向日葵が咲いていたりすると、振り返って見ているし。有来が高校生くらいの時からかな。だから、向日葵が好きなんだなー、と思ってさ。違った?」


「違わない、けど」


 私は、無意識に小さく息を飲んだ。


「良く、見てたね」


「良く見てたのは、有来でしょ?」


 そう笑って告げる慧を見上げながら歩く私は、


「違うよ。私が向日葵を見ていることに気が付くなんて、良く見てたねってこと」


 と、慧の勘違いを半ば強く正しながらも、胸の鼓動が私の意思とは無関係に高鳴りつつあることを感じていた。


 ――向日葵のようになりたいと思っていた。まるで太陽のように花開く、あの花ほど真夏の青空が似合う花は無いと思う。堂々としていて、金色に輝くような花。すぐにはなれなくても、きっと少しずつなら近付いて行けると思い、ひそかな私の目標にまでなっていた、夏の花。向日葵。口に出すと、その輝きがたちまち色褪せてしまうような気がして、私は本当にひっそりと願い続けていた。それ自体を言い当てられたわけでは無いけれど、まるで、その私の願いを見抜かれたような錯覚に私は驚き、そして嬉しくなった。私が向日葵を好きだと告げたことは一度も無いのに、慧は私のことを理解してくれていた。その小さく、ささやかな事実が私にはとても嬉しかった。それこそ、向日葵が私の胸の中に咲いたかのように。


「振り返ってまで見てる有来を見ればね。しかも、ベランダに向日葵の鉢まで置き始めたし」


「……私って分かりやすい?」


 私の問い掛けに、


「うん。かなり」


 と、「かなり」の部分に力を込めて慧は即答した。


 ということは、慧が私を良く見ていたからというよりは、単に私が分かりやすいからということだろうか……?


 そんな考えが私の頭の中を巡り、先程のささやかな感動がしゅるしゅると消え掛けそうになったその時、


「有来のことは、ちゃんと見ているからね」


 と、まるで図ったかのようなタイミングで慧が言ったので、私はまた、どきりとしてしまった。


「ねえ、わざと?」


「ん、何が?」


 質問に質問で返されて、私はそれ以上、尋ねる気力を削がれてしまった。


「星、綺麗だよ。ほら」


「うん」


 慧の声に、私は夜空を見上げた。いつかのあの日のような、メレダイヤのような小さな星達が、遠い空の中で切ない程に輝き続けていた。私と慧は、いつもより少しだけゆっくりと歩きながら、真夏の夜空を見つめていた。間断なく地上へと光を届け続ける星々を見ていると、私の心の中には、以前に慧と見上げた星空、慧の部屋の窓から見上げた星空、昼間の星について話してくれた姫君のこと、私の左手の薬指に光るメレダイヤのことなどが次々と思い出されて、何故だか私は泣きたくなった。


 夏特有の夜の明るさは影を潜め始めていて、暗く遠い夜の空に、ちかちかと涙のように輝く沢山の星を見ていると、まるでその光を合図にするようにして、私の胸の中には沢山の思い出が蘇って行く。ノスタルジーのようなその感情は、やがて私を包み込んで行った。私はそれに飲み込まれないように、慧の左手と繋いだ自分の右手に力を込めた。


「どうした?」


 夜空から私へと視線を下ろした慧が、私を気遣うように尋ねた。私も夜空から視線を離し、そして軽く首を横に振った。


「綺麗だね」


 と、私が笑って言うと慧は頷き、


「そうだな」


 と、笑った。


 そして、私の手を繋ぐ慧の手に少し力が込められた。私と慧、二人の足音が鳴り、二人の影が伸びている。繋がれた手からは体温と優しさが伝わって来る。その幸福を私は愛しく思った。


 いつか、向日葵のようになれたら。きっと私は、その可能性を抱えている。いつになるかは誰にも分からないけれど、それでも、昼間は見えない星のように私を待っていてくれる輝きがあると信じられる。


 ――私が出会った、小さな姫君。私の体験は、きっと誰もが体験するようなことでは無く、けれども誰が体験してもおかしくは無いと思えるくらいの、それ程、私にとっては身近なことだった。私は見上げた夜空の星に、姫君の姿を重ねていた。小さく小さく、何度でも強く瞬き光り続ける星が、まるで姫君のように見えた。


 こんなにも確かに輝きを届ける星は、明日の太陽が昇れば見えなくなってしまう存在で。けれども、昼間でも星はそこにある。そして、太陽が西の空に沈み、暗闇が空に広がり始めれば、何事も無かったかのように星は空に輝き始める。暗い闇の中、私を導くように光り続けてくれた姫君。姫君がいてくれたから、私は今、ここにいる。今は、その姿が見えないけれど。


 いつか、いつかまた姫君に会える日が来たら。私は、もう一度、ありがとうを伝えたい。星のように私に寄り添っていてくれていた姫君に、ありがとうと伝えたい。私は姫君を忘れない。だからどうか、姫君も私を忘れないで。真夏の夜空で美しく光る星に、私は心から願いを届けた。


「ねえ、慧。前に、慧が私を好きじゃなくても、慧は私と姫君が出会って良かったって言ってくれるのかなって聞いたことがあるでしょ?」


「うん」


 響く二人の靴音が、まるで私の心音のように感じられる。私は、その音のリズムから離れないようにしつつ、自分のつま先を追いかけるようにして歩いた。


「そうしたら慧はすぐに、勿論って答えてくれた。あれね、すごく嬉しかったんだ」


「分かってるよ。というか、覚えてる。有来は本当に分かりやすいからね」


 頭上から降る慧の声には、僅かに笑いが含まれていた。私は、それに少しばかり悔しさを感じつつも、それ以上に気持ちの高揚を感じていた。


「あの時、とても安心したんだ。すとんと心が落ち着いて、ああ良かった、って思った。出会えて良かったねって、慧が本当に思ってくれていることが分かって嬉しかったし、ほっとした。その理由は、今でもはっきりは分からないけど」


 私が言葉を切ると、たちまち夜の空気が私と慧を押し包んだ。二人の足音、微かな息づかい。時折、すれ違う人や走り去って行く自動車。瞬く星。


「ありがとう」


 夏の夜に自然に溶け込めるくらい、きっと私は素直に慧に伝えられた。今までで一番と言っても良いくらい、私は心を伝えられたと思う。その答えは、自分のつま先から視線を剥がして見つめた慧の笑顔が、何よりも確かに私に教えてくれていた。


「俺も、ありがとう。有来にそう言って貰えると嬉しいよ」


 私は、ひどく幸福を感じていた。夏の夜、星空の広がる下を慧と二人、手を繋いで歩いている。同じお店で二人一緒に夕食を食べて、きっと帰り道も手を繋いで二人で同じ家に帰って行く。明日は土曜日で私も慧もお休みだから、もしかしたらどこかへ出掛けることになるかもしれない。もしも家にいるとしても、その空間には、慧がいる。


 紅茶やハーブティーを飲んだり、食事を作ったり、他愛のないことをとりとめもなく話したり、一緒に音楽を聴いたりゲームをしたり、勉強を教えて貰ったりするのかもしれない。そこには私がいて、慧がいる。それは、きっと私が渇望していたことで、切望していた温かさだった。その温かさに気付かせてくれた三人は、私の大切な宝物になっている。諦めないでと、教えてくれたのは姫君だった。きっと輝きが待っていると、伝えてくれた姫君がいてくれたからこそ、今、私は、ここにこうしている。沙矢が背中を押してくれたから、私はここにいる。慧が私を諦めないでいてくれたから、私はここにいられる。


 そして、きっとこれからも輝きが待っていてくれると信じられる。いつか向日葵のように花開き、夏の青空に添えるようなコントラストを作り出せたらと思える。


 私は、今の幸福を大切にしたい。そしてここへと導いてくれた三人に、心からありがとうと思っていた。この温かさを忘れないでいたい。そして、姫君や沙矢や慧のような優しい人になりたいと思った。


「着いたよ。ちょっと混んでるね。明日が土曜日だからかな」


 慧の声に通りの先へと視線を向けると、夜に光る小さなレストランの中の少しばかり混雑している様子が見えた。


「大丈夫だよ」


「そう?」


 うん、と私は短く返事をして、それに、と付け加えた。


「慧がいるから。だから待っているのは退屈じゃないよ」


 少しの勇気を出して告げた私の言葉は、すぐに慧が受け止めてくれた。


「俺も。退屈じゃないよ。有来がいるから」


 私は、その言葉をとても嬉しく思い、少しの照れを感じ、温かさを感じた。


 慧が開けてくれたレストランの扉をくぐり、振り返った慧は優しく笑っていた。私も自然に笑顔になれた。その瞬間が、ひどく愛しく、幸福だった。


 ありがとう。私は心の中で、そっと祈った。

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小さな姫君と私の恋 有未 @umizou

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