命短し恋せよウドン

境 仁論(せきゆ)

命短し恋せよウドン


「—————————」

———聞こえる。

 それは、己が宿命の呼び声。

「お————ど———」

———脳裏に響く。

 それは、次の試練への誘い。

「——は———ん—す」

———理解を拒む。

 それは、生命として許容される領域を逸脱していた。


「やめろ……!やり直させてくれ!」

 魂は無慈悲にも新たな身体を求めて墜落した。空を歩いていたこの足は重力に逆らえなくなる。もしくは、蟻地獄にかかる虫のように。あるいは、ブラックホールに存在定義ごと呑み込まれる星のように。

「ふざけるな……!そんなのは認められない!なんで俺だけそうなんだよ!」

 天空の国を見上げる。この理不尽な判決はあってはならないと必死に抗議した魂だったが、天上のビジネススーツを着た男はメガネをくいと上げると、煽るように先ほど下した判決を繰り返したのだった。


「———お前の来世は、肉うどんだ」


〇誕生


 産声は痛みと共にあげられた。いや、実際に音が空気を渡ることはない。正確には、精神の中でのみあげられる泣き声だった。

 明確な自意識がある。自意識があるということは、痛みを覚えやすいということだ。新しい誕生に伴って、まだ自我のない赤子へ生まれればどれほど幸せだっただろうかと、痛みに押しつぶされそうになりながらも魂は考える。

 だん、だん、だん。

 リズミカルで重苦しい圧迫が襲い掛かってくる。なにかに……踏まれているのだろうか。真っ黒な視界からでは何もわからない。ただこの叩きつけられるような圧迫感だけがはっきりしている。

 その痛みに堪え続ける。マッサージのようなものと思えば少しは楽になるかと考えたが、やはり痛いものは痛い。苦しいものは苦しい。

 しかしどんなものであっても慣れはあるらしい。しばらくして冷静に物を考えることはできるようになった。この痛みに変化はないが、感覚を研ぎ澄ますと周りの気配を感じ取れた。

———俺の他に、何人かいる?

 暗闇の中、押しつぶされる音、痛みの感覚しかない世界で、周りに自分以外の魂が何人かいるような気がした。声が聞こえるわけではない。ただ、その予感がするだけ。気づいたら揺れるこの身体が他の誰かとぶつかっているような感覚がしていた。

 いや、ぶつかっている、というのもおかしい。どうにも、己の身とその誰かの身は別々なものではなく、一体のものであるように思われたのだ。まるで一つの身体に複数の人格が宿り、その肉体を巡って犇めき合っているように。

 なんなら四肢の感覚がしないのだ。身体のどこかを動かそうとしても、そもそも存在していない。存在していないものを、動かした気になっている。その気になっただけで、実際は揺れているだけ。

 ただはっきりわかるのは、真上から叩きつけられる槌の痛みだけ。

 そうしてしばらくそのままで我慢していると、上からの衝撃は無くなった。魂たちはそこから数時間、そのままで放置された。

 そこにいた一心同体……いや一心というのも可笑しな状況であったが、魂たちは気を休めていた。しかし互いも存在を明確に把握することはない。ただ、他の誰かもいる気がする。その状態のまま、喋ることもできずにただじっとしていた。

 するとたたき起こされるように、再び真上に衝撃を感じたのだ。また槌のように叩きにきたのかと思ったが、どうにも違うらしい。今度に真上に押さえつけられたそれは、上に乗ったまま転がりだした。群体の身体がぐりぐりと押さえつけられ、延ばされていく。肉体の表面積が拡がっていくのがわかる。

 今度は延ばされた身体が、折られてしまった。この身体はとても柔軟で骨があるとも思えないほどのため、骨折したような痛みがあるわけではなかった。しかし突然の体型の変形には誰もが動揺した。数度身体が折られる。

 すると今度は外から何かが取り出される音が聞こえた。ガシャリとも、シャキリとも。

 一体何が起こるのか。不安に駆り出されていたところ、真上から一直線に何かが振り下ろされた。その時。

———痛い!痛い痛い痛い痛い!

 身体が二つに切断された。声にならない叫び声が自分の精神世界の中でのみこだまする。他の魂たちもこの痛みを共有しているらしい。この痛みで揺れ動いているらしい感覚が犇めいている。

 切られた。身体が、切られた。生前感じたことのない痛み。休まる暇もくれないまま、次の斬撃が襲い掛かってくる。

———うああああああああっ!?

 二回目。これだけで終わらず、間隔を開けずに何度も刃が叩きつけられてくる。こんなに身体を何等分にも落とされているというのに、意識ははっきりとし続けている。人間のままであったならもうとっくにお陀仏だろう。だのにこの命は断たれてはくれない。いっそのこと死んで自意識のない無へ追放してくれた方がまだ救いがあるというものだ。

 そんなことを考えていても上から振り下ろされる刃の連撃は止まることはなかった。着られるたびに精神の口から、ぐうっ、と呻き声があげられる。

 切り落とされる度に新たにわかってきたものもあった。それは他の誰かがいるという予感は予感でなく、明確な真実であるということだ。身体が分断されるたびに、他の誰かの魂が離れていくような感覚があったのだ。魂ごとに丁寧に身体が分断されているのか。この苦しみの中でよくもここまで考える余裕があるものだと魂は呆れる。いやむしろ、死ぬことがないために切られるたび意識が明瞭になっていき、かえって冷静に状況を理解できるようになってしまうのだ。

 しばらくして斬撃は止んだ。しばらくぼおっとして天井を見る。冷たい真っ白な電灯がガビガビと点滅している。それを見るだけでも肌寒い。せめて暖色系の色にしてほしい。それに小麦粉臭い。魂の別った身体は実際に小麦粉に包まれているらしかった。べたりとして身体にひっつく固まった粉類に嫌悪感を示すように声を漏らす。

「……うああ……」

 全くどうしてこのようなことになってしまったのか。前世で悪事を働いた覚えはない。せいぜい幼少期、何らかの祭りの餅まきの時、地面に落ちた餅を拾おうとした老婦の手を払いのけて取り上げてしまったときくらいか。

(……しかしそれであのお婆さんは傷ついたかもしれない)

 拾い上げたあとははしゃいで次の餅を探し始めた。老婦がそのときどんな顔をして何を考えていたのか、今となってはわからない。大層恨んでいたかもしれないし、子どもの遊びと見逃したかもしれない。

「よお、声は出るようになったみたいだな」

 隣から声が聞こえる。横を見ると、そこには……自分と同じく小麦粉に塗れた白くて細い麺の元があった。

「どういう理屈か、五感が働くようになってるらしいぞ」

 麺から声が聞こえている時点でおかしいが、その発言を聞いて今まで暗かったはずの視界が開け、嗅覚なども復活していることに魂は気づいた。

「本当だ」

どのようにして物を見ているのか。どうして声が聞こえているのか。どこから声を出せているのかまるでわからなかったが、人並みの感覚を取り戻せているらしい。

 麺と麺の会話に触発されたのか、他の麺たちも続々と声を出していく。ざわめきがだんだんと大きくなっていく。互いに無事を確認しているらしい。

「全く、酷い目にあったもんだ。動物に生まれ変わるならまだしも、本当にうどんにされちまうとはな」

「君もあの男に肉うどんにされたのかい」

「ここにいる全員がそうだとも」

 彼の者に肉うどんにされてしまったのは一人だけではなかった。そこから見渡すに麺はざっと数十本並んでいる。

「全く、互いに理不尽な目にあったもんだ。前世の行いでも悪かったか?」

 隣の麺は嘲るようにふん、と鼻息を鳴らす。(鼻に該当する部分がないではあるが)

「お前は前世で何をしでかしたんだ?」

 ふと思い立って聞かれた質問にどう答えたものかとこの麺は思案する。肉うどんにされてしまうほどあくどい行いをした覚えはない。それこそ餅まきの一件以来ないが、無自覚のうちになにか罪を犯してしまったのではあるまいか。

「俺は……わからない。てんでわからない。真っ当に生きてきたはずだ」

 すると隣の麺は感心したように声を上げる。

「ほう!それは結構なことだな。私は地元じゃ名のあるやさぐれもんでね、色んなものを盗んでは食って来たが……ふむ」

 何か考えているようだ。しばらくしてまた声を出した。

「肉うどんにされるというのと過去にやらかしたことっていうのは、あまり関係がないらしいな。実際、何に生まれ変わるかはランダムだと言われたが」

「君は随分冷静だね……あんな目にあったっていうのに」

 思いのほか隣の麺は置かれている状況を受け入れているらしく、それが不思議でならなかった。

「何、酷い目にあうっていうのは今まで何度も経験したことさね。今回以上のものは流石になかったが……」

 改めて周りを見渡す。見える麺はみな同じ風貌だが、それぞれの声色はまるで違う。老弱男女、子ども大人老人までと様々な声が入り混じっている。互いに隣同士と会話しているらしかった。

「ところでお前、名前は思い出せるか?」

「名前?」

「おう、生前の」

 そこで過去の記憶を遡ってみたが、どうにもおかしい。自分の名前がなぜか浮かんでこない。自分の名前を誰かに示す機会は送ってきた人生の中で何度もあったはずだが、そのシーンは思い出せるばかりでも、どのような名前を伝えたのか、全くわからない。例えば学生が身に着ける名札。商売相手に渡す名刺など。そこに何と書かれていたのか、まるで思い出せないのだ。

「そうか、お前もか」

「君も思い出せないのかい」

「おう、昔のことはきっぱり思い出せるのに、自分の名前だけがどうにも抜け落ちてる。これが生まれ変わりの代償ってやつなのか?」

「生まれ変わり……でも確かに生前の記憶は残ってる。生まれ変わったようにはとても思えない」

「それは俺も同じだ。変な夢でも見ているだけかもしれない。もしかしたら目が覚めたら現実に戻るかもしれない。そんな気分だ」

 しばらく二人は自分の過去に思いを馳せる。少しの間感慨に耽って沈黙が訪れていた。すると隣の麺がこのようなことを言い出した。

「なあ、せっかくだから、互いに新しい名前をつけないか」

「新しい名前かい?」

「おう」

「うどんなのに?」

「うどんだから名前があっちゃいけないわけじゃないだろう」

「……それは確かに。名前がないんじゃお互いを呼び合うのも苦労だ」

 隣の麺は嬉しそうに呵々と笑った。

「よし、お前の名前を考えるぞ」

 しばらくうーんと唸り声を発しながら考える風を装う様子が、少し年の離れた仲のいい人間のように思えて可笑しかった。麺の姿をしているのに人間らしさを見ることはできる。なんとも奇妙で面白可笑しかったのだ。麺はすぐに隣の麺の名を決めた。

「よし、君の名前を決めたぞ」

「随分早いな!俺はまだここから出かかっているところだ」

 見えない指で自分の頭を指さすように見えた。

「君はこれから、テツだ」

「テツ! その心は?」

「なんとなくだ」

「ははは!」

 愉快そうに笑うテツ。テツも考えを決めたようで自慢げに思いついたことを話すのだった。

「じゃあお前はジロウだ」

「ジロウ?」

「おうとも」

「それはなぜ?」

「なんとなくだ」

「またまた!」

 つられてジロウも笑い返した。

「いや、冗談だ冗談。お前と話していると、まるで弟のように思えてくる。実際俺の方が年上のように思えるしな」

「確かに。俺もテツが人生経験の豊富な男だと思った」

 二人は互いに与えられた新しい名前をかみしめる。

「じゃあ、幸先短いうどん生だが、よろしくな、ジロウ」

「こちらこそ、テツ」

 かけがえのない友人ができた気がした。うどん生も案外悪くないものになるなと思っていると、ジロウの後ろから声が聞こえてきた。

「あの」

「?」

 どうやら女性であるらしい。その女性はおそるおそるジロウに声をかけてきたのだった。

「私にも名前をつけてくれませんか?」


〇初カノ


 ジロウの目には彼女の姿はそれはそれは美しく見えた。彼女の姿は周りの麺と見ても同じ、小麦粉に塗れた姿だったのだが、どういうわけかそれが白い女体を覆い隠す薄いワンピースのように見えた。どうしてそのように見えたのか、ジロウには理解できなかった。

「私も名前が欲しいです」

「……あ、名前」

 恐らく声に惚れたのだろうか。胸に透き通る、初春の空気のような。前世では声にまつわる仕事でもしていたのだろうかと思われた。聞こえた声色が彼女に、他の麺とはどこか違う、愛おしさを感じさせたのかもしれない。

「お前に話しかけたんだぜジロウ、早く決めてやれよ」

「うーん、そうだなあ……」

 彼女は静かに待つ。これからつけられる新しい名前に心ときめかせているのだろうか。彼女をじっと見て考える。声が美しかった。可愛らしかった。新鮮な空気を取り込んだような感覚だった。そこから考えると……

「ハル、というのはどうです」

「ハル、ですか」

「はい、ぴったりだと思います」

 ジロウは照れ隠しができない性分だった。白い麺体が赤くなったような気分になった。ハルの方も嬉しさで白くて細い体を跳ねさせているように見えた。

「嬉しいです! とても!」

 ハルは笑った。子供のようなはしゃぎ方だ。尚更愛おしく思えてしまう。

「……あの」

 するとハルは落ち着いて、恥ずかしそうにもじもじしながら話を変えようとした。

「どうしました?」

 不思議に思ってジロウは聞き返した。

「……わ」

「わ?」

「私、と……」

「ええ」

「つ……付き合ってくれませんかっ!」

「……」

 ジロウは呆気にとられる。ハルの身体が赤くなったような気がする。後ろにいたテツも突然の告白で驚きを隠せない。

「なんだなんだ! ジロウにずっと目をつけてたってことか!?」

 テツは名前をつけてくれ、という頼み事が告白するための手立てに過ぎなかったのかと思いこんだ。

「いや、違うんです!」

 ハルは必死に否定した。

「あの……私、前世は恋人というものがいなくてですね」

 ハルは落ち着いて自身のことを手繰るように話した。

「それで、転生したら今度こそ恋人をー……と思ってたんですけど。うどんじゃないですか、私たち。多分もう、すぐに食べられて、また死んでしまうかもしれないじゃないですか。でもまた転生できるって保障もないし……だから、生い先短い人生……いやうどん生でも!恋人がほしいんです!」

「それ……特別俺じゃなくてもいいんじゃ……?」

「いや!あなたの話し方を聞いてあなたがいいと決めたんです!」

 ハルの口調がヒートアップする。

「とても謙虚なお方と見ました。それに突然話しかけた私の、名前をつけてほしいというお願いも真摯に受け入れてくれて……ハルという名前、貰ったときとても心にくるものがあったんです!」

 お淑やかな方だと思っていたが、実際は恋に恋する少女だったらしい。

「それで……どう、でしょうか」

 ハルが上目遣いで問い返してくるように見える。

「……わかりました。実のところ、俺も恋人がいたことはなかったんです。いやあ、嬉しいなあ」

 ジロウ自身も彼女がいたことはない。決して彼女を欲しがらなかったわけでなく、彼女がいたらどれほど楽しい毎日なのだろうかと考えるくらいには彼女がいることそのものに恋い焦がれていた。

「じゃあ、短い間ですが、よろしくお願いします」

「! はい!お願いします!」

 異様にイレギュラーな形であるが、ここに新しいカップルが誕生したのだった。

 彼らの後ろでテツが、獲物を見つけた獣のように目を光らせていた。


〇炎氷

 ジロウはしばらくハルと語り合っていた。互いの生前がどんなものであったかを。

「はあ、やはり声優を」

「はい、でもなかなか芽吹く機会がこなくて……」

「それは残念だ、かなり早くに亡くなられたのでは?もっと長く生きていれば、恵まれる機会はあっただろうに」

「……そうですかね」

「そうですよ、実際、あなたに話しかけられたときすごい衝撃を受けましたから」

 話に花咲かせる二人。そんな二人の空気を呼んでか、テツはもう一方の隣の麺と話し始めていた。

 このように放置されてから一時間ほど経ったのだろうか、全てのうどんはすっかりリラックスしてしまっている。ここから何が起こるか憂いている麺もいたが、みなその不安を拭うためにとにかく会話をしているようだった。

「……あれ、おい。足音が聞こえるぞ」

 麺の一人がふと物音に気付いた。誰かがこちらに来る。足音がだんだん小さくなっていく。全ての麺の口数がめっきり減ってしまった。

「私たちどうなるのでしょう」

 ハルの不安そうな声が聞こえる。ジロウは体をなんとかハルの側に寄せた。

「大丈夫。俺がいますよ」

 実に恋人らしいことをしたなとジロウは酔いしれた。

 

 奥から割烹着を着た老女が現れた。老女は忙しそうに何かの準備をしているらしい。するとジロウたちが乗っていた台を持ち上げた。同時に各所から悲鳴があがる。

「ひゃあっ!」

「やめてくれーっ!」

 彼らの声は老女の耳には届かない。どうやらこちらの声は人間には聞こえていないらしい。老女はそのまま台を持ち上げて部屋を移動したのだった。地震のようにぐらぐらと揺れる地面。

「ジロウ、ハルさん! 無事か!」

 テツが大声で聞く。

「こっちは無事だ! ハルも!」

 彼らは必死に踏ん張って落ちないようにしていた。そのまま別の部屋へ移動し、台は別の机の上に置かれたのだった。

 すぐ横には、大きな鉄の器が。見上げると湯気が立っており、ぐつぐつと音を立てていた。

「……茹でられる」

 一人がそうつぶやくと、それを聞いた一人は恐怖でまた悲鳴をあげた。恐怖は伝播していく。決められた未来の苦しみに、全員が委縮する。

「私っ……! 怖い……」

「大丈夫、大丈夫だから」

 しっかりと手を握るような素振りをする。

 台が持ち上げられる。鉄の器よりも、さらに上へ。下には泡立った熱湯地獄。恐れは膨れ上がっていく。胸の内に湧きあがる鼓動の音が大きくなっていく。

 老女は澄ました顔のまま、彼らを茹で窯へと落としていった。

「————————」

 まず、息ができない。いや、そもそもうどんに呼吸をする機能があるのか。しかしジロウは呼吸ができないという苦しみにまず直面したのだ。

 そして体全体を包む熱湯で、人間が許容できる限界の体温上昇を軽々と越えてしまった。全身が焼かれる。無いはずの気管の内が捲り上がる。抉られる。無いはずの臓器が爛れていく。これほどの苦痛を以てしても、死は来ない。うどんとしての命の終わりは、まだここではない。

 しかしジロウの頭に浮かぶのは己の死ではなく、ハルのことだった。ハルは無事か。この熱さで失神してはいまいか。

 眼球も焼かれることを惜しまず、水中を見渡す。どれも同じ姿だ、ハルは見当たらない。しかし一目見てあの白くスレンダーな身体を覚えたのだ、わからないはずがない。

 必死に探し求めていると、水中の中で聞き覚えのある声が耳に届いた。

———ハル!

 声のした方向へと泳いでいく。そこには確かに忘れるはずのないハルの姿が。

———すぐにでも助ける!

 しかし激しい渦巻で体は願った方向へ動かない。むしろ反対側へと。

 ハルは他の麺に揉まれて奥の方へと言ってしまった。

 上から老女の手が入り込み、混ぜられる。悲鳴があがる。身体を千切られた者もいるらしい。

 何度もかき混ぜられて千切られそうになって……突如としてこの地獄から掬い上げられた。息を吹き返す。ハルは無事か。なんとか落ち着きを取り戻して再び探そうとすると……

「ぶわっ!?」

 今度は冷水の中へ潜らされた。熱水の直後に、冷水。身体そのものがこの地獄に耐え切れずどうにかなってしまいそうだった。熱された身体は確かに冷えていったが、とても心地いいものとはいえない。サウナは入った後に水風呂に入ると快感だというが、これはその比ではない。極限の熱さと絶対零度の凍え。その両極端の現象を同時に浴びることの如何に苦しいことか。

 そのなかでも老女による掻きまわしは行われた。目が回る。気が狂う。ぼーっとする。何も考えられない。

 表にやっと引き上げられた。数分経って意識が戻ってくると、自分の身体の変化に気づいた。

「これは……」

 なんといえばいいのだろう、肉体が引き締まっているような。言うなればトレーニングを行った後の肉体の進化による脈動が直に伝わってくるような。意識がはっきりしていく度に、妙な満足感が湧きあがってきた。この地獄を味わった直後に、自分の身体が鍛え上げられた。なぜか嬉しくなってしまう。これがボディビルダーの気持ちかとも思われた。

 ふとしてハルのことを思い出す。そういえばハルはどこへ。

「ハル!」

 声を出すと、奥からか細い声で返答が聞こえてきた。

「はい……」

 声のした方を見ると、より魅力的な肉体になったハルがいた。小麦粉のベールは剥がれ、つやのあり、滑らかな曲線の女体が顕わになっている。その姿にジロウは声を詰まらせたのだ。

 真っ白な肉体とは対照的にハルは顔を赤らめ、ジロウの目を見ることができずに下の方を向いていた。

 そのすぐ近くで、テツが気持ちよさそうに寝転がっていた。


〇裏切り


「ハル、すっかり美しくなったね」

「うん、ジロウも」

 互いに自分の身体を見つめる。文字通り垢の抜けたような綺麗な裸体だった。お互いに自分の肉体をさらけ出して見つめ合うというのはかなり恥ずかしいものがあった。現に恋人になったのはつい先ほどのこと。いくら短いうどん生だからといって、ここまで行ってしまうのは急展開すぎる。

 ハルの方は変わらずにもじもじとし続けていた。

「ジロウ……」

「うん?」

「私たち……もうすぐ食べられちゃうね……」

 そう、麺たる自分たちがこのようにして茹でられたからには、後はつゆに入って食べられるのを待つだけだ。終わりの時は刻一刻と迫っている。

 二人の距離は縮まっている。こんな短い期間にも関わらず、お互い気兼ねなく話せるようになっていた。

「大丈夫。つゆに入っても、肉の出汁で視界が見えなくなっても、絶対この手は離さないよ。手はないけど」

「……そうだね」

「薬味で万能ねぎが振りかけられても、味変で七味がかけられたとしても。俺たちの関係は簡単には千切れないさ」

 ジロウは我ながらキザなセリフを吐いたものだと自画自賛する。しかしそれに対してハルは押し黙ってしまった。

「ハル?」

「……」

 俯いてじっとしているように見える。やはり迫っている終わりの瞬間に怯えているのか。

「なあジロウ!」

 後ろからテツが話しかけてくる。

「もうすぐ別れのときだから一応礼を言っておく! 私のうどん生で生涯の友人になってくれたこと、嬉しく思う! 来世は達者でな!」

「気が早いぞ、テツ」

 テツは相変わらず明るく接してくる。

「なあハル、せめて最後は笑って、楽しく過ごそう」

「……うん、そうね」

 ハルは真っ白な麺体を上げる。しかしその返答はどこか、ぎこちなかった。


 老女がジロウたちを素手で持ち上げた。少し移動すると、小ぶりで白い、よく磨かれた器が見えてきた。老女はジロウたちをその中へにゅるりと滑らせる。

 ジロウはハルと離れないように身を寄せた。そこへ香しいお汁がゆっくりと、緩やかな滝の如く流される。さっきまでの理不尽な拷問ではない。身体に痛みが走ることのない、緩やかな流れが溢れていく。この瞬間に、老女のうどんに対する思い、この引き締まったうどんのコシを保ったまま、お客様に食べてほしいという優しさが感じ取れたのだった。

 お汁に包まれる。ゆらゆらと揺れ動くお汁の海面に屈折させられた小さな光が、この海底を照らしていた。悪い気分ではない。最後を迎えるには良い塩梅だとも。

 その上からお肉が盛り付けられる。視界がお肉で暗くなっていく。ジロウはしっかりとハルのそばを離れないようにした……が、しかし。

———あれ。

 どうしたことだろう。

———ハル?

 ハルが、いなくなっていた。最後まで離れないはずだったのに、いつのまにかいなくなっている。どういうことなのか。ジロウはわからず、他の麺を押し寄せてハルの姿を探し求めて進水していった。

 そして、

———は?

 見てはいけないものを、見てしまった。


「んっ……ふう……」

———ちょっと待て。

「ああやばいやばい」

———何をやってるんだ。

 ジロウから離れたところで、他の麺を盾にするようにして。

「ちょ……そこダメ……!」

「最後なんだからいいだろ……?」

 ハルとテツが、絡み合っていた。

 ジロウは呆気にとられた。動けなくなった。お汁の水圧に身をまかせ、少しずつ肉体が浮き上がっていったが、件の二人は相変わらずふにゃふにゃと、互いの麺体を交わらせ合っている。

 ハルの真っ白な女体に、テツの太い麺体が蛇のように絡めついている。互いの麺の先がくっつきあって、そこだけが微動だにしていない。

「眼つけといてよかったぜ……いい体してやがる、なあハル」

「そんなこといわないで、テツ……んっ」

 ジロウは虚無に陥った。身体全身にかかる力が一気に抜けていった。そのまま上へ上へと、浮き上がっていく。

 しかしその虚無の心から湧きあがるように、自身の肉体を内側から燃焼しかねないほど熱いものがだんだんと湧きあがってきていることにジロウは気づいた。そして、叫んだ。

「……テツウウウウウウウ!! キサマアアアアァァッッ!!」

 その瞬間、箸と思われる日本の棒がこの海底世界に差し込まれた。一気に混ぜられる。水面に浮かんだ肉とお汁を混ぜようとしているのだろう。透き通っていたはずの世界が穢されていく。視界が濁っていく。混ぜられた勢いには逆らえず、身体が渦の中へと押しやられていく。

「待てよッッ! テツ! なんでだ、なんで俺のハルをッッ!?」

 濁り切っていく海底世界の果て。ハルとテツの姿が見えなくなってしまう直前に、二人がジロウの方を見た。

 テツはしてやったと言わんばかりの、卑しい笑顔を見せていた。ハルの顔からは……何も読み取れなかった。何を考えていたのか、判ろうとも思えなかった。

 ジロウの身体が箸に捕らえられる。内側から滾る怒りが収まらないまま、ジロウは海面から顔を出した。見上げると無精ひげを生やした男の顔面。その口が開かれ、所々が欠けていて汚物の色になっていた歯が目に飛び込んできた。舌の表面も白くなっていて、手入れしていないことが丸わかりだった。

 それが一層ジロウを苛立たせた。これ以上の屈辱があるものかと。人間のままだったら決して知らなかっただろう二重の怒りを身に染みて感じられた。ジロウは必死に箸から逃げ出そうとする。そして肉体の滑らかな曲体を活かしてにゅるりとそこから脱出した。再び汚れた海へダイブしていく。そして潜り、怒りに任せて他の逃げ惑う麺を殴りつけるように突っぱね、前進していった。

 奥底で二人を見つける。ジロウは全力で突進し、相変わらず行為を続けるテツの身体に自身をぶつけた。

「があっ!?」

 テツの身体は千切れた。そのまま浮かび上がる。頭上からずるると音がしたと思ったら、再び箸がこの世界に入り込む。ジロウはハルに体を密着させて問い詰めた。

「どういうことだハル!? 説明してくれ!」

 ハルは何も答えない。ジロウの怒りは収まらず、器の底へとハルを押していった。

「テツが一体、君に何をしたというんだ!」

 ハルはじっとしている。

「言ってくれ!頼む!」

「………よかったの」

「……は?」

「テツの身体が、すごくよかったの!」

「……何を言ってる」

「さっき茹でられた時、私、テツに助けられた。そのとき、テツにいきなり揉まれて。必死に抵抗したけど、彼、うどんなのにすごく上手で。こんなのもう……忘れられなくて……」

 ジロウは怒りが一周し、冷静になった。そうか、あのとき、自分が見えないところで、もう。

 ジロウは涙が流れたような気がした。テツという、このうどん生で初めてできた友人が、初めてできた彼女をかどわかした。前世でもそのような話は聞いたことがあったが、まさかうどんになったこの身に降りかかろうとは、思いもよらなかった。ハルがテツを受け入れてしまったというのもジロウには許しがたい事態だったが、今はもう何も考えたくなかった。身体が浮き上がる。ハルの身体は奥底に沈んだまま。

 そうしてジロウは箸に捕まれた。再び外へ上がったジロウの身体から肉の溶けた汁がだらだらと垂れていた。ジロウはしなびたようにだらんとしている。背後から無精ひげの男の生臭く、生暖かい息が吹きかけられる。ジロウはもう見えなくなってしまったハルの声を、嬉しそうな素振りも、引き締められた白い体も、そして最後のテツと絡み合っていた最後の醜態を頭の中で走馬灯として思いくぐらせたまま、不揃いな歯で噛み砕かれていくのだった。

 そこで、ジロウの意識は閉じられた。


「おい、次は俺は何になるというんだ」

 暗い部屋に魂がポツンと一人、上からスポットライトが当てられている。魂の目前には、胡散臭そうなビジネススーツの男が一人。これもまた頭上にスポットライトは当てられている。その男はメガネをくいと上げ、その魂に新たな判決を下すのだった。

「お前の来世は、ワゴンRだ」





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

命短し恋せよウドン 境 仁論(せきゆ) @sekiyu_niron

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ