風船と糸

深海の底

本編

 甲高い汽笛の音とともに横浜港を出発したフェリーは、漆黒の海を掻き分けて進んでいく。船体にぶつかり砕けた波は泡になり、心地よい音を残して消えていった。海の音は乗客たちの話し声よりもずっと冷たく、心を平穏にしてくれる。


「そんなに身を乗り出してると、落ちちゃうよ」


 夜の闇よりも濃い漆黒の海を覗き込んでいたら、斜め後ろから声がした。振り返るとそこにいたのは、タバコを咥えた白皙の男だった。

 年齢は三十代半ばくらいか。黒いシャツの袖は腕まで捲りあげられ、銀のネクタイは首元でだらりと垂れている。随分と着崩した格好なのに、夜の海と相まってか、不思議と洗練された印象を放っていた。

 デッキから一歩下がり、男を見つめる。


 そうですね。落ちなくてラッキーでした。


 それを聞いた男は、今にも身投げしそうだったけどなあ、と苦笑した。目尻に細いシワができ、左目の下にある泣き黒子が見え隠れする。男はいかにも旨そうにタバコを吸い込み、煙を細く長く吐き出した。

 

「君、一人なの?」

 

 頷くと彼は笑いながら、一人で船旅なんて物好きだねえ、と言った。


「船が好きなの?」


 今度は首を横に振る。


「じゃあ、なんで船に乗ってるの?」

 

 別に…。なんとなくです。


「なんとなくで、船旅に出ないでしょ」


 …色々あるんですよ。


「訳ありってやつか。いいね。俺、謎めいた女性って好きなんだ」


 男はニヤリと笑って、再びタバコを吸い込んだ。タバコを持つ手が奇妙なほど艶かしく映り、私は思わず目を逸らした。長らく感じていなかった、小さな泡がしゅわしゅわと胸に広がっていく感覚。この期に及んで何の意味もなく、むしろ遠ざけたい感覚だった。

 

 私は一人旅の女性を狙うような、分かり易すぎる男性は嫌いですけどね。


 これで会話を打ち切ろうと、とびきりの嫌味を言い放った…つもりだった。男は一瞬、私のきつい物言いに面食らった表情をしたが、次の瞬間には声をあげて笑い出していた。その笑顔はまるで少年のように邪気がなく、私の警戒心をふき飛ばすのに十分だった。そして、男はその隙を見逃さなかった。大きな手が、私の服の裾をガッチリと掴む。


 何するんですか、やめてください。


 驚いて抗議するが、


「君の身投げ計画をどうしても防ぎたくなったから」


 おどけているのか本気で言っているのか、判断がつかない。

 

 離して、といっても、意に介する様子は全くない。男は冗談めかして、私の上着の裾を引っ張ったり引き寄せたりして遊んでいる。


 そんなに引っ張らないでください、犬じゃあるまいし。

 

 嫌悪を隠さず言うが、この男はどこまでもマイペースらしい。


 犬じゃあんまりだなと呟き、しばらく思案したかと思うと、背後の大ホールに何かを取りに行った。驚いたことに、戻ってきた彼の手には子供に無料で贈られるイルカの風船が握られていた。いらないと拒否したが、男は私の右手首をとると、手際良くその風船を結びつけ、満足そうに頷いた。欄干にもたれかかり、戸惑う私をよそに楽しそうに笑う。


「……」 


 男の発した言葉は波に打ち消され、私の耳には届かなかった。聞き返しても、男は目尻をくしゃくしゃにして笑うだけだった。

◇◇◇

 不思議な男だった。過去も、現在の仕事も、何もかもが謎だった。

 男は私と同居するにあたり、都内のマンションの一室を購入した。インテリアも何もかも、自由にしていいと。

 資金は、男が全て用意した。どう用立てたのかも分からない。

 私は部屋を自分好みの、全く生活感のない仕様に設えた。

 好きな絵画と、居心地のいいソファーと、大きすぎるベッド。

 私が男について知っていることは、左目の下に泣き黒子があることと、吸うタバコの銘柄だけ。

 名前だって、本物なのか怪しい。

 男は毎日早朝に出かけ、夜中に帰宅した。同居しているのにも関わらず、顔を合わせずに一週間が経過していたこともざらにあった。

 私は男になにも聞かない。彼も私について、なにも聞かずにいてくれるから。

 二人で過ごす一番贅沢な時間は、夜にベランダに出て、並んでタバコを吸うとき。

 頭をからにして、暗闇に揺蕩う煙を見つめる。

 タバコのほろ苦くも甘い香りと、男の体温。

 風に靡く、彼の中途半端な長さの髪。

 うつむいた眼差しが憂いを帯びて、物思いにふけっている彼の姿。

◇◇◇

 そうして一年が過ぎ、二年目の夏、彼は消えた。

 マンションにも帰らず、連絡もとれず、まるで最初から存在していなかったのように。

 私は待った。

 待つことは、不安や絶望との闘い。少しでも余計な考えが頭をもたげれば、自分に負けてしまう。

 だから、小説を書き始めた。

 作品は、誰にも相手にされなかった。

 でも、それは問題ではない。あくまで目的は、正気を保ちながら彼を待つことなのだから。

 そんな風にして、私は必死に物語を綴った。

 誰にも読んでもらえなかった小説が、次第に認識されるようになり、大量の暴言と、僅かばかりの好意的な感想が寄せられるようになった。

 そして、私は書き続けた。

 それでも私の頭にあるのは、彼のこと。

 毎日毎日、祈るような気持ちで思い浮かべる、あの人の姿。

 伏し目がちな目と、泣き黒子の哀しそうなあの人。

◇◇◇

 私は待ち続けた。

 一年が五年になり、十年になり、もう何年が経ったのかすら分からなくなってしまった。

 髪は白くなり、手には皺が増え、膝も気圧で痛む。

 結局彼は、二度と戻らなかった。

 共に過ごした時間は短く、互いのことも知らず、ともすれば全ては私の妄想だったとすら思える。

 今、彼を思い浮かべようとしても、輪郭はぼやけ、頼りない影のようだ。

 彼の実在を証明するのは、私の習慣になってしまったタバコだけ。赤と白のパッケージの、彼が愛煙していたタバコ。

 たとえ今彼が帰ってきたとして、私にはそれが彼だと認識できるのだろうか。

 そもそも、再会を望んでいるのかさえ、もう今は分からない。

 長い年月の中で、彼は実在ではなく、概念になってしまったのだから。

 私が待たなければいけない人。

 私をこの世界に繋ぎとめてくれる人。

 ベランダに出て、タバコに火を点けた。昔から変わらない、赤と白のパッケージ。

 東から登り始めた淡い朝日を見つめる。

 結局、彼は約束を守ってくれたのだ。

 何にも情熱を見出せず、遥か彼方まで流されようとしていた私を、引き留めた。


「君がどこかに飛んでいかないように、俺が糸になるよ」


 私は風船。あなたは糸。


<終>

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風船と糸 深海の底 @shinkai-no-soko

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