ジル 人と魔の狭間で⑭

 ジルは、再び訪ねた医師シュラフの屋敷で、治療を終えたリーゼルのベッドの脇に腰かけ、少女が目覚めるのを待っていた。


「目覚めれば、もう大丈夫だ。山は越えた証だ」


 シュラフはそう言っていた。

 願いを込めて、ジルは己の手を自然と祈る形に重ねる。 

 リーゼルは穏やかな顔つきをしていた。ただ眠りに落ちているだけのように、無邪気な愛らしい寝姿を見せていた。



 ――バシウ村に来て、四日目の朝。


 夜が明け、太陽が顔を見せ、窓辺から光が射し込んだ。

 リーゼルの瞳が、光を感じて、ゆっくりと開かれた。


「リー、ゼル……!」

 

 ジルは身を乗り出し、少女の名を呼んだ。

 リーゼルの瑠璃色の瞳に、ジルの顔が映る。

 

 ジ、ル……、と、リーゼルはごく微かな声で言うと、そっと微笑みかけた。

 ジルはリーゼルが目覚めてくれた喜びのあまり、思わずその手を取って、握り締めた。しかし慌てて、手を放す。こんなに真っ白な純粋無垢な少女に、自分は触れてはいけないと思ったのだ。

 リーゼルはジルの手が放れると途端にその顔は陰り、ジルに手を伸ばした。

「ジル……」

 自分を求めて彷徨うリーゼルの華奢な小さな手を、ジルは躊躇いながら握った。


「リーゼル、目が覚めて、良かった……」

 ジルは瞳に溜まった涙を拭うと、もう大丈夫だ、と言った。



 ――リーゼルの呼吸が安定している。

 本当に、良かった……。



「ジルが、助けて、くれたの?」

「オレは、ただここに運んだだけだ。リーゼルを助けたのは、医者だ」

「それでも、ありが、とう、ジル」

 リーゼルは途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「リーゼル、オレもう、行かなくちゃいけないんだ。探したい人がいる。オレを、きっと待ってるから」


「どうしても、行って、しまうの?」

 訊ねたリーゼルの体が震え始めた。

 嫌な記憶を思い出したのだろう。心細さにリーゼルの瞳が揺れる。


「もう大丈夫だから。あいつはもういない。だから、もう酷い目に遭うことなんてない」

「あの人が、いない……?」

 ジルは頷いた。

 リーゼルは、どうして――、と不思議そうな顔をしていた。


「これからは、もっと自由に生きて。幸せになって欲しい」

 リーゼルの問いには答えず、ジルはリーゼルが安心するなら――、と、ぎゅっとリーゼルの手を握って一息に言った。


「私が……幸せに、なれるの……?」


 それは未来を手放し、暗闇の中を手探りで進んでいるような、悲しい口調だった。 

 ただひたすら暴力に耐え、怯えていた少女は、いつしか夢を見ることさえ忘れていたのだ。


「当たり前だ。リーゼルには、笑顔が、似合う――」

 

 ジルが言うと、リーゼルの瞳に涙が浮かび、うん……、と、ごく微かに、微笑んだ。

「もう行くよ」

 名残惜しくなるので、ジルはリーゼルから離れ、窓枠に手をかけて、飛び出そうとした。

 そのジルの背中を、まだ充分に動けないのに、リーゼルは手を伸ばして掴む。

 リーゼルは、まだ少し混乱しているのか、ジルが窓から行こうとするのもおかしいとは思わなかった。


「ジル、また、会いに来て……。あのね、私、チェリーパイを焼くのが、得意、なの……。ジルに、食べてもらいたい」


 ジルの黒い瞳が見開かれる。

 まだ動くのも辛いだろうに、ジルを掴んだその小さな手が、震えながら、ジルの返事を求めていた。




 ――リーゼルには、きっとこれから、幸福なことが沢山訪れて、オレなんか必要なくなる。そうでなくてはいけない。村を離れたら、リーゼルと関わるべきじゃない。


 オレは人殺しで、魔の血を持つもので、好んで闇の中に続いて行く道を歩くような生き方が性に合っている、そういうモノだから――。


 

 でも……。



「リーゼルがオレを覚えていてくれるなら、オレが必要なら、オレはいつでも、リーゼルを助ける。いつかまた、会いに来る」


「うん、約束、よ」

 リーゼルが花のように微笑む。

 ジルはその時、光を感じた。

 静かに暗闇を照らす、優しくて温かな光だ。



 ジルは浮遊術フロートで浮かび上がった。

 もうこの世界には魔王は存在せず、魔のものも散り散りとなっただろう。ジルはそれを確信していた。

 恐らくはロミオがいるだろう、メイクール国へとジルは飛び立つ。



 次にこのバシウ村を訪れるのはいつにするかは決めていない。



 ――リーゼル、今は、さようなら。



 どうかどうか。

 今まで痛みや悲しみばかりが降り注いでいた君に、これからは抱えきれないほどの幸福が訪れますように。



 自分が神に祈るなどおこがましいが、それでもジルは、そう願わずにはいられない。


 ジルは不意に、ちくりと針で刺したような胸の痛みを感じた。



 その痛みの正体も分からず、ジルは真っ直ぐに飛び続けた。最も信頼できる家族のような存在の人の元へ。



 その人を最も信頼しているが、自分が仕出かしたことは死ぬまで口にすることはないだろうと、ジルは硬く心に誓いを立てた――。

 



 


※ここまでお読みいただきありがとうございます。


まだ書きたいことも残っているのですが、一度ここでこの作品とカクヨムをお休みさせていただきます。いつ復活するかは決めていません…。


今はPixivで書くのが楽しくなってしまい、暫くそちらで書こうと思います。(不定期です)

良ければ、X(旧ツイッター)プロフィールから飛べますのでご覧ください。

好みによるかと思いますのでご注意を。

みなさまの作品は時々読みにきますね。

ではまた。



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元天使の少女と小国の王子様~アルとパティと仲間たちのその後の物語~ かんの沙梨 @sarikan

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