第3話

 その日はあっという間にやってきた。


 3月14日、木曜日。ホワイト・デーだ。先月のバレンタイン・デーもそうだったが、朝から教室は妙な雰囲気だった。


「なあ、おまえ結局誰に返すんだよ?」


「もらってねーしっ」


「だよな、はははっ」


「うるせー、おまえもだろ」


 こんな会話がいたるところで繰り広げられ、チョコをもらえなかった小学生男子たちが一年で最も背伸びをする一日が始まった。


 落ち着かない空気のまま授業が始まり、ちっとも勉強に身が入らないままに20分休憩を迎えた。僕は意を決して隅石さんに声をかけ、包装紙に包まれたハンカチの箱を渡した。


「その……、先月は、あり……がとう」


 もっと気のきいたことを言いたかったけれど、うまく言葉が出てこなかった。そのうえ、隅石さんと一瞬目を合わせただけで心臓が高鳴り、すぐに視線を逸らしてしまった。


 でも、僕にはこれが精いっぱいだということに隅石さんは気づいてくれたようだった。


「わぁ……。ありがとう。家に帰ったら開けるね」


 僕は盗むように隅石さんを見た。そしてその表情が穏やかであることを確認し、ほっと胸をなでおろした。




 放課後。


 僕と隅石さんは、部活が始まるまでの時間をいつものように中庭で過ごしていた。


 心なしか隅石さんが切なげな瞳をしているように見える。


「どうかした?」


 気になって訊ねた。


「ううん、ちょっと寒かっただけ」


「これ、使ってよ」


 僕はマフラーを差し出した。


 でも、隅石さんは受け取ってくれなかった。


「秋川くん」 


「なに?」


 そして真っすぐに僕の目を見つめて話しだした。


「わたしたちってまだ小学生だよね?」


「うん」


「だからね、付き合う、とかそういうのは……まだ早い気がするんだ」


「……うん」


「これ、ありがとう。うれしいよ」


 隅石さんはカバンから僕の渡した包みを取り出して微笑み、言った。


「うん……よかった」


 返答しながらも僕の目はうつろになり、冷たい地面ばかりを映してしまう。


「ごめんね。友達としてチョコをあげたつもりだったんだ。ちゃんと説明してなくて、ほんとにごめん」


 やっぱり隅石さんは真面目だ。そして僕はそんな隅石さんにかれたのだ。


 実際、僕は心のどこかでこうなることに気づいていたのかもしれない。でも、都合の悪い考えにはふたをして、二人のバラ色の未来ばかりを想像してしまっていたのだ。


「中学に行く頃になっても仲良くしてたら……彼氏彼女とか、そういうのもいいかもしれないね」


 隅石さんは僕をなぐさめるようにそう言ってくれた。




 翌年、六年生になった僕は、隅石さんとは別のクラスになってしまった。それでも僕らは、廊下で会ったときなどには少し話をした。


 だが五月に入ったとたん、なんと隅石さんが本当に転校してしまうことになった。彼女の父親の転勤が理由らしかった。


 隅石さんは最後に登校してきた日、僕のことを意識して避けていたようだった。彼女は友達に囲まれて廊下を歩いているとき、僕の視線に気づいた。そして一瞬だけ僕のほうを見つめた。でも、それだけだった。それが僕が隅石さんと目を合わせた最後の瞬間だった。


 僕は言葉をかけようとしたが、結局なにを言っていいのか分からなかった。そうこうしているうちに隅石さんは僕の前を通り過ぎて行ってしまった。



 僕はこう思った。チョコをくれたあのとき、隅石さんの転校はもうすでに決まっていて、彼女の親から学校にも伝えられていたのではないか。そして、僕に対して転校は冗談だと言ったのは、彼女自身も転校するのが嫌だったからではないかと。


 彼女には僕のあげたハンカチがあるが、僕の手もとには隅石さんを思い出すきっかけになる物が何もない。それを悲しいことだと考えてしまう僕は小学生にしては感傷的過ぎるのだろうか。



 僕はその後、隅石さんと仲良くなるきっかけになった恋愛小説を何度か図書室で借りた。その物語はハッピーエンドで終わる。自分たちとは正反対のストーリーを読むたびに僕はみじめな気持ちになった。それでも隅石さんとの思い出が色あせるのはもっと嫌なことだったから、くり返し、くり返し同じ本を読み続けた。


 今でも、本の上部が波のようにでこぼこになっている文庫本を見ると隅石さんを思い出す。もちろん赤と青が基調色になったチェックのハンカチもそうだ。僕は今でもクローゼットの引き出しにいつも数枚、同じような柄のハンカチを置いている。幼き頃の無垢で純粋な気持ちを忘れないために、そしてあの頃の隅石さんに胸を張れるような大人であり続けるために。


 文庫本にカバーを掛け、ハンカチとともにバッグに詰める。身だしなみを整えて朝のラッシュアワーに身を置く。満員のバスの吊革につかまり、僕らの通っていた小学校の前を通り過ぎる。すると、あのころの甘酸っぱい空気や匂い、温度が昨日のことのように思い出されるのだ。














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1991年のバレンタイン・デー(全3話で5000文字程度の短編) 夕奈木 静月 @s-yu-nagi

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